根本的両義性(13)――アガペーとエロス

このところずっと日本と韓国との関係が大きな問題になっているが、報道に接してつくづく思うことことは、日本政府の韓国政府に対する対応と、アメリカ政府に対する対応とが余りにも違うということである。日本政府は両国政府に対して、できるだけ対等でフェアな交渉を行なおうと努めるのではなくて、いつのまにか植えつけられた――正当な根拠のない――優越感と劣等感に導かれて非常に稚拙な外交を展開しているように見えるのである(もちろん相手側にも問題があるのであろうが)。一般社会にも見られるように、自分の強さと偉さを誇示したがる人間というのは、相手が変わると豹変し極度に卑屈になるのである。要するに不当に差別的なのだ。

こうした優越感と劣等感、即ち不当な差別感情というのは、どうしようもないものなのであろうか。ところで有名な山上の垂訓にはこうある。

「天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5章)

天の父は如何なる差別もしない。その愛――アガペー――は悪人にも善人にも公平に注がれるのである。聖書のこの一節は近代の平等思想の起源であり根拠であると見ることができるが、それを繰り返し味わうことができるならば、病的で偏狭な感情は多少なりとも癒やされるのではないであろうか。

 さて、この無差別的な愛のことであるが、それはあらゆる局面において成り立ち得るものではない。例えば自分の恋人や友人、あるいは自分の家族や祖国は、我々にとって多かれ少なかれ「特別な」存在である。つまり我々は事実上、人あるいは集団を差別しているわけである。差別的な愛――エロス――は我々の生活の中で極めて重要な位置を占めている。但しそれは絶対化されてはならない。

ここで聖書の或る一節を取り上げてみよう。

或る時イエスが話をしていると、一人の女性が声高に言った。

「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

エスのような人から仰がれる者を自分の胎と乳房で産み育てたマリアはなんと幸いな者なのでしょう。そのように女性は叫んだわけであるが、イエスは直ぐさまこう応答する。

「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11章)

エスの母としてのマリアよりも、むしろ神の言葉を聞きそれを守る人こそが真に幸いなのだ。イエスはそう応じたわけである。こうしてイエスは血のつながりを神とのつながりによって相対化するのであるが、このことはエロスはアガペーによって包まれているのでなければならないということを意味する。

ところで、上に引いた箇所の少し前でイエスはこう述べている。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(ルカ8章)

このようにイエスは自分の母とか兄弟を血のつながりから解放して、神とのつながりによって定義し直している。但し、血のつながりを切り捨てているわけではない。それどころか、イエスは神の言葉を聞いて行う人たちを、母とか兄弟という言葉によって定義していると見ることもできるのである。このことは、アガペーはエロス的なものによって定義せざるを得ないことを意味する。

一方で肉的なエロスは霊的なアガペーによって包囲され、また他方で、(宗教家はこのことを決して認めないであろうが)アガペーはエロスに或る意味で依存する。二つの愛はあくまでも別のものであり対立し合うが、双方向的な関係にある。このよう仕方で二つを両立させることが我々の生きるべき道である。

 

解釈と理解

 

♦ 昨日は『亀井由紀子特別公開レッスン』を聴講するために目白のソルフェージスクールまで出かけた。亀井氏はかつてヤッシャ・ハイフェッツの助手を務めたヴァイオリニストであるが、決して偉そうに威張らない方である。楽器を構える姿勢は凜としていて、どこかハイフェッツを彷彿とさせるが、指導の仕方はハイフェッツのように(?)怖くはない。むしろ優しすぎる。また説明する際に歌うその歌声もなかなか美しい。

この日の私のお目当てはプログラムの二番目、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第三番の中のフーガだった。フーガのような対位法音楽をヴァイオリン一丁で演奏することは非常に難しいのである。私は学生の時からアウアー版やイザイ版といった古い版の楽譜(下の写真)を使ってきたが、最近は演奏法の研究の進歩により、バッハの無伴奏は以前よりもずっと近づき易いものになった。とはいえ、技術的困難が軽減されればスムーズに演奏できるようになるというわけではないのである。

昨日の公開レッスンで私が得た収穫は、何よりも重要なのは楽曲の「理解」であることを改めて会得したことである。亀井氏が秀でているのは、まさに理解――これには実は人間の品性が深く関わっている――ということにおいてなのであり、本当の意味でスムーズに弾けるためには、楽曲の全体および細部(全体と細部はもちろん連関している)の理解が何よりも大事なのである。

ところで、音楽の演奏に関してはしばしば「解釈」という言い方が用いられるが、解釈という言葉を使うとどうしても、解釈は自由であるとか、解釈は色々あり得るとかといった話になってくる。しかしそうなると我々は演奏の恣意性を排除することができなくなるのであり、つまり相対主義に陥ることを余儀なくされるのである。私が改めて思ったのは、理解ということが解釈ということの根底に置かれなければならないということである。独創的な解釈とは独創的な理解によって裏打ちされた解釈なのである。

音楽の場合に限らず、理解というのは単に学問や知識の問題ではない。理解の正しさと深さは、実は各人の生き方そのものに根ざすものなのである。

大竹まこと著『俺たちはどう生きるか』――強者にはならないという生き方

本書は著者が古希を迎えて上梓した小さな自伝とも言えるものであるが、ひとことで言うと、著者の「優しさ」の秘密をそこから読み解くことができる本である。

♦♦ 大竹氏は二〇歳から二年半、風間杜夫氏と一緒に住んでいたのであるが、ある日二人は麻雀で負けてスッテンテンにされ、朝の八時頃アパートがある祐天寺の駅を降りたところ、駅に向かう通勤客たちと出会い、それら仕事に行く人たちとは反対方向にボロアパートへ帰って行くことになった。そして二人は次のように言葉を交わす。

「毎日がこんなんだなあ。俺たち、どうするんだろ」・・・ ・・・ 

「いいんだヨ、これで、大竹」

いいんだヨ、これで。――このような生き方の選択ができたのは、時代のせいもあるかもしれないが、決してそれだけではないであろう。

氏は進学校の高校に通ったが、大学には行かなかった。行かなかったのか、それとも行けなかったのか。いずれにしても、少なくとも心の奥底では大学に行かないことが選択されていたのではないか。そもそも高校時代に勉強していなかったのであり、しかもわざわざ難しい一校しか受験しなかった。おまけに予備校の授業料も使い込んでしまった。ライフプランに従って抜け目なく世の中に適応するという生き方はしないし、できないのである。しかし賢しらな生き方をしないこのような人間こそが、生きることと死ぬことに対して豊かな感受性を有することができるのであり、そして己としっかり向き合うことができるのである。

著者は57歳を過ぎてから始めたラジオの帯番組(月~金)を十二年以上も続けてきた。しかし今になってもなお己の所在がつかめないと言う。とすると、「街のチンピラ」として職を転々とするだけで、何をしたくて生まれてきたのか分からなかった二十代くらいまでの時と基本的に変わっていないのである。私はラジオ以外のところでの大竹氏の活躍は知らないが、氏は著名な芸人として押しも押されもせぬ存在であるはずである。しかしそれにも拘わらず、高校を出てすぐに社会に飛び込んでしまった自分には若者に送る言葉はないと言い切る。これは決して謙遜や気取りではない。立派な言葉を語って聞かせるような“ひとかど”の人物にはならないという、(密かに)選択された生き方がそう言わせるのである。

ところで、人生というものが面白いのは、それがいわば弁証法的であることである。「あの時、負けて良かった」(第二章)という件りや、「弱者は弱者のまま終わらない」(第四章)という件りは実に印象的である。但し弱者は弱者のまま終わらないということは、弱者は弱者であることをやめて強者になるということではない。大竹氏は強者なのではなくて、弱者のまま終わらない弱者なのであり、あくまでも弱者なのである。但し単なる弱者ではない。弱者のまま終わらない弱者である。このような人間こそが弱者の気持ちが分かるのであり、真の「優しさ」を身につけているのである。

 

根本的両義性(12)――音楽と狂気

♦ 昨夜は「Folia スペイン、ポルトガル15世紀から伝わる情熱と狂喜の音楽」と題された演奏会に出かけた。プログラムの最後の方、コレッリのヴァイオリン・ソナタ「ラ・フォリア」の前あたりで男性のフラメンコ・ダンサーがサプライズ的に登場し会場は大いに盛り上がったが、数々の奥ゆかしくもの悲しい楽曲の演奏も素晴らしかった。

♦ さて、フォリアとはイベリア半島に起源を持つ舞曲のことだそうだが、演奏会を聴きながら思ったのは、フォリア=狂気は特定の音楽に限らずどの音楽にも本質的なものなのではないかということ、そして演奏家の才能というのはまさに「狂気する才能」なのではないかということである。狂気を感じさせない演奏はつまらないのである。しかし私がここで言う狂気とは如何なる狂気なのか・・・ 

♦ G.チェスタトンが言うには、狂人とは理性を失ってしまった人ではない。狂人とは理性を除く一切を失ってしまった人である。つまり狂人とは感情や感覚といったもの一切を失ってしまい、理屈や論理しか無くなってしまった人なのである。因みにチェスタトンは詩と理性を次のように対比している。「詩は正気である。というのも詩は無限に広がる大海原を楽々と浮遊するからである。ところが理性は、この無限の海を渡り切って無限を有限にしようとする。結果、精神は疲労困憊してしまうのである。」

♦ しかし私が言う狂気はもちろんチェスタトンが言うのとは別の狂気である。それは感情を排する狂気ではなくて、逆に感情を生み出す狂気である。それは不毛な狂気ではなくて豊穣な狂気である。プログラムの2曲目、ルバイリ「フォリーのパッサカイユ」の歌詞には、「私は狂気、私だけが唯一、皆に喜びも優しさも快楽ももたらすことができるのです」とあるが、この言葉にかこつけて言うと、私の言う狂気は我々が通常経験するのとは異なる感情をもたらす狂気であり、つまりは音楽を生み出す狂気である。

♦ しかし音楽を生み出す狂気である以上、それは論理性と無縁ではあり得ない。私は先に「狂気する才能」という言い方をしたが、演奏家は(あの高橋美千子さんにしても)実際に発狂するわけではない。しかしまた狂気を装うのでもない。演奏家は狂気を「表現する」のであり、そうである以上、演奏家は必然的に何らかの論理性に依拠するのである。

演奏家の狂気する才能とは狂気を表現する才能であり、即ち「狂気と論理」あるいは「感情と論理」を即興的かつ創造的に媒介し噛み合わせる才能である。円運動においては下降運動は上昇運動を引き起こし、上昇運動は下降運動を引き起こすが、優れた演奏においては、狂気と論理あるいは感情と論理は、そうした上昇運動と下降運動のように互いに引き起こし合うのである。

根本的両義性(11)――bodyとnobody 池田晶子をめぐって


禅宗に「父母未生(ぶもみしょう)以前」という言葉がある。私は小学校の何年生頃からだったか、時々不意に、「自分はどこから来たのか」という茫漠とした問いに襲われたのであるが、この問いにおける「自分」とは父母未生以前の自分(自分の父母が生まれる以前の自分)のことである。もちろん、さすがに子供の頃ははっきりとそのように認識できたわけではないが。
ところで、池田晶子は次のような話をしている。――我々は普通自分というものを名前とか肉体と同一視している。つまり自分とは誰それ(例えば池田晶子)であるとか、この肉体であるとか「と思っている」。しかし、では、「そう思っている自分」とは何なのか。それは誰なのか。自分は池田晶子である「と思っている自分」、それは池田晶子ではない。自分は誰それである「と思っている自分」、それは誰それではない。それは誰でもない。私というのはnobody(誰でもないもの)なのである。私は誰かなどということは絶対に分からない。しかし分からないそれが私であり自分なのである。
池田は父母未生以前の自分を問題にしているのであり、それがnobodyであることを強調しているのである。そのように言えるが、池田は続いてこう語る。――その分からない誰でもない自分が、しかしここで某(なにがし)をやっているのは、何故なのか。誰でもない自分が、某としてこの肉体をやっているこのおかしさ、これは何なのか。(『人生のほんとう』)
誰でもないnobodyである自分が例えば池田晶子としてその肉体をやっていること、これは偶然であり、また必然なのであるが、こうしたことに気づくと、名前や肉体と同一視される自分(通常の意味での自分)を相対化して見ることができるようになる。そうなると、生身が被る苦しみを消すことはできないとしても、苦しみの感情を味わう余裕さえ生まれるのである。nobodyという原点から人生を相対化して、「たかが人生ではないかと覚悟を決める」ことは、難しいことではあるが極めて大事なことである。それは人生を放棄することとは違う。それは世俗的な欲望の虜にならないための条件であり、真に幸福な生へとみずからを導くための条件なのである。
しかし池田自身指摘しているように、人生を生きるということは某の人生を生きることであって、誰でもない者として人生を生きることはできない。生きることはbodyとして生きることである。(因みにbodyは「人」と訳すこともできる言葉である。)私はnobodyであると言うことができるのは、あくまでも哲学的・宗教的に「観ずる」限りにおいてであって、実際に「行ずる」最中においては、我々は具体的な人間関係に巻き込まれる故に、自分だけではなくて人は皆bodyであることになるのである。nobodyによってbodyを相対化することは不可能である。
我々はbodyとnobodyとの間を往還するのでなければならないのだ。即ち行ずることと観ずることとの間を往復するのでなければならないのだ。池田は書物の執筆においては専ら観照(テオリア)に耽っているが、しかし池田が一般の哲学研究者と全然違うのは、つまりその言葉が信用できるのは、人間関係のトラブルや病気などの自身の経験を文字通り糧にして思索しているからである。デカルトは書斎の中で思弁(単なる理論)に勤しむ学者をひどく軽蔑したが、もちろん池田晶子もそうなのである。

フランクル『夜と霧』――「人生の意味」という問題

♦ 生きる意味があるということは、生きることに何か目的があることである。まずはそう考えることができる。例えばオリンピックでメダルという名誉を獲得することを目的に毎日練習に励んでいる選手は、練習の辛さや本番に関する不安が常にあるとしても、大きな目的がある限り、意味のある充実した人生を送っていると想像することができる。

♦ 対照的なのはナチス強制収容所に入れられた者である。被収容者は迫り来る死に怯えるだけで、将来に明確な目的を設定することなどできないのである。ただフランクルは、或る日現場監督が彼自身の朝食から取りおいておいた小さなパンを自分にそっとくれて、涙が止まらなかったという話をしている。この種のことがあるお陰で被収容者たちは何とか絶望し切ることを免れたのであろう。風前の灯火のようなものであるとしても、彼らはぎりぎり最低限の生きる意味を感じることができていたのかもしれない。一方、カポーと言われる、仲間のユダヤ人を裏切ってさえ自分だけ生き延びようとする者もいたが、その者にとっても収容所を抜け出すという目的を必ず実現することができるという保証はない。目的の実現はほとんど運次第である。

♦ ところで、その意味が偶然によって左右される人生――即ち運よく成功すれば意味を持つが、そうでなければ意味を持たない人生――は、そもそも生きるに値しない人生ではないであろうか。そう考えるフランクルは、「生きる意味という素朴な問題」からきっぱりと離れる。彼は生きる意味よりもむしろ死ぬ意味や苦しむ意味を問題にするのであり、また次のような転換を行なうのである。即ち彼は、

  (a)自分が人生から何を期待するのかを問題にするのではなくて、(b)逆に人生が自分から何を期待するのかを問題にするのであり、

言い換えると、

  (c)人生の意味について尋ねることを止めて、(d)その代わりに自分自身を人生によって尋問される者と看做すのである。

♦ (b)(d)は人生(Leben生)が主語になっているが、それぞれ、何か「自分を越えた」ところからの自分への期待であり尋問である。我々は例えば、自分に運命的に与えられた苦しみを自分の苦しみとして苦しみそれに耐えることを己れの責務としなければならないのであり、そうすることで己れの真価を発揮するのでなければならないのだ。――対して、人生から何かを期待することや、人生の意味について尋ねることには、成功という「自己中心的」な欲求が透けて見える。

♦ (a)→(b)、(c)→(d)という転換は我々にとっても必要である。この転換がなければ、我々の生が美しくなる可能性はないであろう。但し、強制収容所という過酷な状況に置かれているのでないのであれば、成功という価値を頭ごなしに否定することは戒めなければならない。必要なことは、件の転換を行なった上でみずからの生を改めて見つめ直すことである。そうすることで、「生きる意味」という問題は以前とは別のかたちで甦るであろう。

言葉のリズムと言葉の力


♦ 昨日の午後はオルフ祝祭合唱団演奏会を聴きに中野ゼロに赴き、生演奏ならではの醍醐味を味わった。曲目はオルフの「カトゥーリ・カルミナ」と、ストラヴィンスキーの「結婚」。プログラムによれば、二つとも独唱・混声合唱・4台のピアノ・打楽器アンサンブルという独特の編成で演奏される曲であり、またどちらもバレエを伴って上演されることを前提に作られた曲であるとのこと。


♦ ただ今回はバレエを伴わずに演奏された。が、しかしバレエの不在は不在とは感じられなかった。というのも、どちらの曲にあっても、音楽自体が実に“バレエ的”であり(当然のことかもしれないが)、そしてそうした音楽が、言葉――ラテン語およびロシア語の歌詞――とまさに一体になっているからであり、更にいえば、音楽のリズムと拍子が言葉を真に生き物たらしめ、言葉そのものの潜在的な力を引き出しているように感じられたからである。


♦ 歌詞はそれがただ読まれるだけであるならば、他愛のない言葉、陳腐な内容と受け取られかねない。我々はまず言葉の意味するところに注意を向ける習慣を捨てて、言葉そのものに集中しなければならない。そのようにすると、歌詞は音楽の拍子とリズムによって真正の「詩」になるのだ。ということは、生命の根源から離れてしまっている我々の普段の生活が、生命の根源に回帰するということである。例えば同じ音型やリズムの執拗な反復にしても、生命の根源と合致しようとする執拗な努力を表しているのである。

根本的両義性(10)――G.モローと神話の世界

 私は1986年の3月にはじめてフランスの地を踏んだのであるが、向こうの寮に着いてから真っ先に訪ねたのはパリのギュスターヴ・モロー美術館だった。ただ、この画家に関して漠然とした関心を抱いていたとはいえ、当時は絵画をじっくり味わい色々考えをめぐらす余裕はまったくなかった・・・・・。

昔日のそんな思い出を懐かしみながら、モローが描いたファンム・ファタール(魔性の女)をテーマとするNHKの番組を録画で観た。

「現実にはまるで聖女のような女性〔注:母親と恋人を指す〕を愛したモロー。しかし描いたのは〔聖書に出てくるサロメのような〕魔性の女、ファンム・ファタールでした。現実と非現実の二つの世界。まったく違うタイプの女性に惹かれたモローの心情はどのようなものだったのでしょう。」というナレーションが番組の中で流されたのであるが、ゲストの一人であるドイツ文学者の中野京子氏は、描かれた魔性の女は男の人が勝手に妄想したものであって、本当に現実味のないものである。従って女性が見れば余り妖艶ではない。そのようなことを述べたのであるが、それに対して、もう一人のゲスト精神科医きたやまおさむ氏は、現実に家の中の母子関係の中に〔幼少期における〕官能性と妖艶さが残っていたので、これだけ描けたのだと反論した。

しかしどうなのであろうか。そもそも神話の世界というのは現実味のない世界なのではないか。但し現実味がないということは妄想であるということでは必ずしもない。「女性というのは、その本質において、神秘的で未知なるものに夢中となる生き物であり、無意識のうちに邪悪で悪魔的な誘惑に取りつかれてしまう存在なのである。」というモローの言葉が番組の中で紹介されているが、女性の〈本質〉に関するこうした洞察はモローにとっては神話の世界としてしか描けないのである。ということはつまり、神話の世界には固有で独自のリアリティがあるということである。従って、精神分析学の方式によって神話の世界を現実の世界に何らか還元するような解釈にも、私は与することができない。

神を失い科学が過剰に信仰されている現代においては、神話は単なるお伽話になってしまっているのかもしれない。しかし眼に見える世界と並んで眼に見えない世界(神秘)が存在するのであり、見えるものを見る眼と並んで見えないものを見る眼が存在するのである。そして重要なのは二つがうまく組み合わされることである。そのことによって我々の精神は健全であることができるのである。現実の世界(の聖女)と神話の世界(の魔性の女)は、相反するものでありながら、モローという一つの人格の中で統合されている。二つは互いに求め合いながら共存しているのである。

東京で開催されているモロー展にはまだ行っていない。近いうちに足を運び、33年ぶりに作品に再会するつもりである。

根本的両義性(9)――マリアの純潔(下)

 

♦ マリアは言った。

  「主はその腕で力を振るい、

  思い上がる者を打ち散らし、

  権力ある者をその座から引き降ろし、

  身分の低い者を高く上げ、

  飢えた人を良い物で満たし、

  富める者を空腹のまま追い返されます。」

    (ルカ「マリアの賛歌」より)

マリアは社会悪に対して決して寛容であるわけではない。彼女は実に攻撃的である。しかしマリアをしてこのように言わしめるものは何なのであろうか。

先日の池袋の暴走事故をめぐって、事故を起こした人間が逮捕されないのは彼が“上級国民”だからだという憶測が出回っているそうである。世の中の理不尽な不公平、そしてそれを作り出しまた隠蔽する狡猾な欺瞞に対する怒りは至極尤もなものである。ただ、驕りたかぶる権力者・富者を非難する正義感が、良心あるいは良心の根っこにある信仰心(419日の投稿を参照)に基づくものである場合と、その正体がルサンチマンという歪んだ欲望・権力欲である場合とでは、大きな違いがある。一点だけ述べると、後者の場合には、非難する者の自己は他者を否定することによってしか成り立たない自己であり、常に他者によって限定され抑圧されている自己なのである。

しかしとはいえ、法や制度を変えることによって多少なりとも格差を是正することができるならば、即ち多少なりとも不幸を減少させることができるならば、非難の動機はどうでもよいのではないであろうか。然り、政治の観点からいえばその通りである。但し、不幸から救われることは幸福を得ることではないということを指摘しなければならない。幸福とは不幸ではないということではないのである。

幸福とは快適さではなくて、心の奥底にまで届く満足感である。

不幸(例えば貧困)を減少させることは政治の役目である。しかし幸福は政治の問題ではない。幸福は個人の問題であり、魂の問題である。政治の問題と魂の問題はあくまでも区別されなければならない。両者を混同することから思考や議論における混乱が生じるのである。但し両者を切り離してよいというわけではない。むしろ相容れない政治の問題と魂の問題は相互的・相補的であるべきなのであり、両者を然るべく統合することこそが我々の課題であるべきなのである。

マリアは言った。

  「わたしは主のはしためです。

  お言葉どおり、この身に成りますように。」

    (ルカ「イエスの誕生が予告される」より)

こうした神への絶対的服従は魂の絶対的純粋性を意味する。そして冒頭で示したマリアの攻撃性は、それと対立し矛盾するこの神への絶対的服従=魂の絶対的純粋性に基づく――と同時にそれを肉づけする――のである。

聖週間のフランス・バロック宗教音楽

 昨日は「聖週間のフランス・バロック~高橋美千子リサイタル」に出かけた。5人の器楽奏者(花井さん、丹沢さん、原田さん、島根さん、佐藤さん)の演奏も含めて、何か「完璧」という言葉を使いたくなるような演奏会だったのであるが、まずはプログラムの冒頭にある高橋さんの挨拶の最後の件りを引用したい。
   ・・・・・・私が10年もフランスで仕事をさせてもらっている
  ことや、これほど俗社会に溺れながらも宗教曲を歌う機会
  をたくさんいただいていることも、今日の演奏会を迎える
  ための過程だったように思えています。
   フランス・バロック宗教音楽を通して、どこまでそれを
  お伝えできるか未知数ですが、どうぞ最後までお聞きいた
  だいて、音楽と言葉が与える「何かを信じる力」=「愛」
  を感じ取っていただければ幸いです。
 今日の演奏会を迎えるための過程――
自分の来し方を振り返りつつ、自分の過去を、そしてこれから先の未来をも、この現在に結晶させるという意気込みで、高橋さんは共演者と共に演奏されたのである。真の音楽家は己れの人生そのものが一つの楽曲になるような生き方ができるのである。そしてそのような生き方ができるのも、信じる力と愛があればこそであろう。
 音楽と言葉が与える「何かを信じる力」=「愛」――
信じる力と愛とがイコールで結ばれているところが興味深い。信じることと愛することとは異なるが、しかし二つは切り離すことができないのである。そして恐らく、多くの場合、愛することが信じることに先行するのではないであろうか。(因みに、自分はカトリック無免許運転をしていると言っていた福田恆存が、昭和30年頃に、戦後日本人は「信じる力」を失ったという文章を書いている。わざわざ信じる「力」という言い方をしているのは、信じるということは懐疑を介する超越の運動だからである。)
 ともあれ、ここで高橋さんが言われていることは、音楽と言葉が与える信じる力=愛である。音楽と言葉は信じる力と愛を与えてくれるのである。昨日の演奏会は、自分は既に信じる力や愛を所有しているという思い込みのないすべての人に、あるいは自分は既に信じる力や愛がどのようなものであるのかを知っているという思い込みのないすべての人に、クープランシャルパンティエの曲を通して「信じる力」=「愛」を深く感じ取らせたはずである。

根本的両義性(8)――マリアの純潔(中)

 パリのノートルダム大聖堂の火災のニュースに接して、私は最初、フランスそのものが崩壊していくような錯覚を起こした。パリのノートルダムは私にとってまさにフランスの象徴であったということである。とはいえ、私は宗教というものを重んじているわけではない。私が何よりも重要と考えるのは、○○教とか△△教とかといった宗教ではなくて信仰心である。いわゆる“宗教”や“道徳”は生の表層を形づくるだけであるが、信仰心は生の最深部に発するのである。
 ところで、フランスを代表する哲学者ルネ・デカルトは独自の仕方で神の存在を証明した。そのことはよく知られているが、しかし彼は一方で、神は理解不可能なものであること、即ち神は合理性を無限に越えた不合理なものであることを強調したのであり、我々はこのことを見落としてはならない。実は、デカルトにあっては、この不合理な神への不合理な信仰こそが、神の存在の合理的な証明を可能にし、そしてそれを支えているのである。
 デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立しているとしても、あるいは表面上は信仰に依拠していないように見えるとしても、この哲学は実は善美なる神への生ける信仰によって実質的に根拠づけられている。それは黙せる篤き信仰心によってこそ実現され得ているのである。従ってデカルトの秘められた信仰心を感取せずにそれを等閑視するならば、彼の哲学を本当の意味で理解することはできない。即ち論語読みの論語知らずの如き、デカルト読みのデカルト知らずになってしまうのである。――こうしたことを、私はかつて幾つかの角度から示した。
 さて、前の投稿で取り上げたマリアの純潔(処女懐胎)ももちろん合理的ではない。それは不合理なのであるが、信仰は意志によって不合理を突破するのである。即ち意志によって疑わしさを突破するのである。ということは、疑いは信じることに本質的なものであるということである。疑わしさが消えた時に我々は神を信じるのではない。疑うことができるからこそ神は神なのであり、疑うことができるからこそ我々は神を信じるのである。神への信仰は両義的であり、この両義性は決して解消されない根本的なものである。

根本的両義性(7)――マリアの純潔(上)

 昨日の午後は小坂理江さん(歌、ハープ)と佐藤亜紀子さん(リュート)の演奏会を聴きに目白まで出かけた。
  「悦びの園に音楽ありき-15世紀の音楽の愉しみ方」
まさにこのタイトル通りの内容の、有益で楽しい演奏会であった。ここでは昨日のコンサートを想い起こしつつ私の関心事について少し述べてみることにしたい。
 プログラムの表紙にあるメッケネムの版画(上の写真)には庭の泉のそばでハープとリュートを奏でる人物が描かれているが、この図像は中世絵画の主題であった「閉ざされた庭」と関連があるとのことである。「閉ざされた庭」というのは旧約聖書の雅歌4.12に由来するが、それは聖母マリアの閉ざされた子宮、即ち穢れなき子宮を意味する。つまり、マリアの純潔を象徴する。改めて言うまでもなく、マリアは聖霊によって身ごもったのである。
  ・・・マリアは天使に言った。「どうして、そのような
  ことがありえましょうか。わたしは男の人を知りません
  のに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き
  方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
  神の子と呼ばれる。」(ルカによる福音書
 我々はこの聖霊による懐胎ということに驚くのでなければならない。驚くということは、それを狂信することでもなければ、逆に利口ぶって高をくくる態度を取ることでもない。聖霊による懐胎に驚くということは、それはとても分からないことであるということが分かることである。分からないということが分からない故に、即ち驚くことができない故に、人はカルトに陥り、あるいは逆に知的傲慢に陥るのである。真の信仰は驚きに基づく。驚きは、差別やハラスメントや暴力を生む権力欲という罪深い欲望から我々を解放するのである。
 ところで、イエスは単に「神の子」であるだけではない。イエスは聖なる「霊」の観点から見れば神の子であるが、「肉」の観点から見ればダビデの子孫から生まれたとされるのである。とすれば、マリアについても「霊」の観点と「肉」の観点の両方が必要なのではないか。更に言うと、アガペーとエロースの両方の観点が必要なのではないか。(続く)
  
  * 下の写真はエル・グレコの「受胎告知」

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根本的両義性(6)

 先日8日に、東京都庭園美術館で開催されている展覧会――『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』――に出かけた。テレビでの紹介を偶々見たことがきっかけである。岡上のコラージュ作品はすべて戦後間もない1950年から56年までのごく限られた期間に、東京で制作されたとのことである。
 下の写真は「廃墟の旋律Melody of the Ruins」(1951)である。死体の手首や白ネズミなども見られる廃墟の中で、美しい女性が楽譜を見ながら楽器を奏でている。彼方にまで広がる無残な廃墟(背景)と、楽器を奏でる女性(前景)とが、奇抜な仕方で貼り合わされているのである。対照的な前景と背景は水と油のように決して溶け合わない。しかし注意深く見てみると、何と楽器の頭には小さな髑髏が付いているのである。廃墟と旋律は秘かに繋がっているのだ。じっと見つめていると、廃墟そのものから旋律が立ちのぼってくるようにさえ見えてくる。因みに、コラージュのタイトルは「廃墟と旋律」ではなくて「廃墟の旋律」である。
 無残な廃墟と旋律を奏でる美しい女性は鮮やかな対照を成し、しかも調和しない。しかし両者は不思議にもやり取りし合っているのである。これが<現実>というものなのだ。現実というのは本質的に両義的なのである。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(梶井基次郎)というのはその通りなのである。
 東京大空襲・・・そして東日本大震災・・・。こういった悲劇は、たとえ復興が進もうとも、そっくりそのまま存在し続ける。取り繕うとしてはならない。廃墟なしには旋律はないのである。相反する二つは地と図のように分離不可能である。
 両義性を感受することができないと、現実は平板になり、人間は薄っぺらくなる。現実は現実性を失い、人間は人間性を失うのである。

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根本的両義性(5)――受肉(下)

 自分にとって不都合な発言を行なう者に対して、耳を傾けるどころか横柄な態度で発言を遮る人間の醜さは、例えば最近の首相官邸での官房長官会見において見られるが、しかしこの世にはそうした驕りたかぶる人間の醜さとまさに対極をなす美しさがある。十字架の美しさがそれである。その美しさは純粋な善の美しさである。先の投稿で、「受肉」はへりくだりを意味するということ、神こそは真に自分をむなしくすることができるということを述べたが、真に自分を無にすることのできる者のみが純粋な善の美しさを帯びることができるのである。
 なお、ここで言う純粋な善は決して観想(テオリア)の対象ではない。それは実践的なものである。我々はイエスのように自分を無にすることはできないが、しかし純粋な善は我々の生活(諸々の活動)の原動力であり得るのである。
 さて、殉教は自己犠牲であり美しい行為であるが、しかしその殉教でさえ十字架には遠く及ばない。無限に及ばない。シモーヌ・ヴェイユが言うには、殉教者は自分の召命の偉大さに酔っているのである。原始キリスト教の殉教者は、猛獣の放たれた闘技場に讃美歌を口ずさみながら入場した。彼らは嬉々として死を受容した。しかし彼らがそうすることができたのは、天の国で神の子キリストの右に座すという栄光を約束されていると信じていたからである。とすれば、殉教は善であるとしても純粋な善ではない。自分というものがむなしくなっていないからである。
 一方、打って変わって、イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだ。イエスは断末魔の苦しみを苦しみつつ、神からも人からも見捨てられた孤独を経験したのである。こうしたまったき絶望の中で行なわれる自己犠牲こそが真に自分を無にすることなのであり、それこそが純粋な善なのである。
イエス・キリストの両義性については別の機会に考察することにする。


根本的両義性(4)――受肉(中)


♦ 前の投稿では、魂の響きが〈肉〉耳に聞える音の響きとなることについて受肉という言葉を用いたが、受肉とは本来、「ロゴスが肉となった」(ヨハネ福音書)ことであり、即ち神のひとり子(イエス・キリスト)が人間となってこの世に現われたことである。このイエス・キリスト受肉ヒエロファニー(聖体示現)の最高のものであると言われるが、それは単なるヒエロファニーではなくて、イエス・キリストの数々の行ないと数々の言葉、そして十字架の死にいたる受難 Passion をも含むのである。
♦ ところで、着目したいのは、こうした受肉がへりくだりを意味することである。「フィリピの人々への手紙」にはこうある。
  キリストは神の身でありながら、
  神としてのあり方に固執しようとはせず、
  かえって自分をむなしくして、
  僕(しもべ)の身となり、
  人間と同じようになられました。
  その姿はまさしく人間であり、
  死に至るまで、十字架の死に至るまで、
  へりくだって従う者となられました。
  (he was humbler yet, even to accepting death, 
   death on a cross.)
♦ へりくだることは容易ではないように思われる。へりくだりは多くの場合、偽善であるか、あるいは自分は謙虚である(=偉い)という思い上がりであるか、どちらかなのではないであろうか。実は真の謙虚さには神々しさがある。つまり神こそが真にへりくだることができるのであり、神こそが真に自分をむなしくすることができるのである。十字架の死は無力と悲惨の極点であるが、それ故にそれはキリストが神であることの証しなのだ。イエス・キリスト人間性(人間であること)はその神性(神であること)を証しする。というのも、イエス人間性はその神性を前提するからである。
♦ ところで、人間も悔悛によって一瞬であれ真にへりくだることができるのではないか。有名な逸話を例に挙げよう。イエスは姦通の罪を犯した女が石打の刑(これは死刑である)に処せられるところを救ったのであるが、その時こう語ったのである。「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」と。そうすると年長者から順番に一人また一人と立ち去っていったのであるが、もし石を投げようとした人々のめいめいにわずかなりとも改悛の情が湧かなかったならば女は助からなかったであろう。しかし改悛というものも或る種の恩寵なのではないであろうか。(続く)