誠実と個性(承前)

 

♦ 検察官定年延長法案がもしかしてこのまま国会を通過してしまうかもしれない情勢なのであるが、私にとって何よりも耐えがたいのは、法案自体のことは別にして、権力者が然るべき理由なしに姑息なやり方で己れの権力の保持と拡大を図ることであり、また大方の与党議員や閣僚・官僚が忖度=損得勘定によってだんまりを決め込んでいることである。彼らは国を少しでもより良いものにしようという気持ちなど実は持ち合わせていないのではないか。国民のことなど本気で考えていないのではないか。口で何と言おうと私的利益という殻の中に閉じ籠ってしまっているのではないか。

♦ ところで、社会学者の宮台真司氏は或るところでほぼ次のように語っている。――昨今の日本人には損得に閉じ込められ、損得を越えられない「クズ」が多い。このことはグローバル化の潮流のさなかで個人を支えるべき共同体が日本では空洞化してしまっていることに原因があるのであるが、ともあれ、人々の政治への関心にしても多くの場合浅ましい損得勘定にのみ基づく故に、それはもっぱら失業率とか株価とかに向けられ、政治家や役人が嘘をつきまくることには向けられないのである。必要なのは正しい仲間づくり(これは共同体の復活ではない)である。仲間に恥ずかしい姿を見せたくない、仲間の恩義に報いたい、といった感情が、「個」を自立させるのである。――「損得で動く大人に育てるな!」

♦ 仲間がいれば、羞恥心を持つことができる。恩に報いるために身を犠牲にして戦うこともできる。つまり、私なりに言い換えると、損得を越えた超越的な価値に向かって自分を越えることができるのである。そして、先の投稿で述べたように、このような自己超越の運動が〈誠実〉ということの実現であり、この運動を通して形成されるのが各人のかけがえのない〈個性〉なのである。宮台氏は「個」の自立という言い方をしているが、ともあれ、人は基本的に誠実な生き方をすることによってしか本当の意味での個性personality / individuality たり得ないというのが私の主張である。保身や忖度に埋没し切った嘘つきには個性と言えるものは存在しないのである。

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♦ 念のため付言すると、私の言う「誠実」はサルトルの言う「くそまじめの精神」、つまり社会の秩序に無責任に「適応」する精神ではまったくないが、また単純なアウトローを指すのでもない。それは社会に対する微妙な距離を意味する。因みに、宮台氏は驚くべきことに、中学に入学した時点で既に、「実存が分からなければ社会は分からない」という感覚を有していたということである。映画を観る際も、ストーリーはそっちのけで、男の実存・女の実存、差別される者の実存・差別する者の実存・・・に反応したのであり、映画が描く権力や制度ではなくて、もっぱら劇中人物の体験に注目したのである。――「『正義から享楽へ』刊行記念インタビュー」

「科学者がいくら綿密に自然を研究しても、自然は元の自然のままであり、自分も元の自分のままである」(夏目漱石「中味と形式」)。しかし社会とかあるいは心理というものは、自然科学者にとっての自然と同様の純然たる客体なのではない。つまり人間社会や人間心理については、自然科学がそうであるような厳密な意味での客観的学問は原理的に成り立たないのである。「実存を通じて社会を見る」という方法に、私は学問的誠実さを感じる。

誠実と個性

♦ 昔高校生の時に少しかじったヒルティの『眠られぬ夜のために』(1935)の中に次のような一節がある。

「人間のあらゆる性質の中で最高のものは ≪誠実≫ Treue である。この誠実という性質は他のほとんどすべての性質を埋め合わせることができるが、それ自身は他のどんな性質によっても埋め合わせることができないのである。」

そう述べた後、ヒルティはこう続ける。

「しかし悲しいかな、この誠実という性質は人間にはかなり稀れにしか見られず、却って動物に頻繁に見られるのであり、実際のところこの肝腎な点で人間は動物を超えていないのである。」

♦ 更にヒルティは「感謝の念を抱く」ことも、高等動物と比べて人間においては稀れであると述べている。誠実や感謝の、巧妙な見せかけはよくあるかもしれない。しかし誠実にしても感謝にしても、本物は今日では稀れであるどころか、ほとんど失われてしまっているのではないであろうか。一つの象徴的な例を示すために、かつて梅原猛氏が新聞のコラム欄に書いた文章の一部を拝借することにする。

「私の六十年を超える学者としての人生においても、しばしば学者が表ではおべっかを言いながら裏では秘かに陰謀を試みたり、自分の欲望のために長年世話になった人を平気で裏切ったりするのを見て来た。」

♦ ところで、法隆寺金堂壁画を模写した鈴木空如(1873-1946)のことが先日の日曜美術館でも取り上げられていたが、古仏画の模写は極度の誠実(忠実)Treue を要求する故に、この画家に注目することで誠実ということについて考える緒が何か得られるような気がする。空如は誰かに依頼されたわけではないが高さが3メートル以上もある巨大な絵画をたった独りで実寸大模写したのであるが、紹介文に必ず書いてあるように、彼は画壇とは一切関わらなかった。展覧会にも出品しなかった。生涯を通じて地位も名誉も求めなかった。有名になろうともしなかった。――このような宗教的禁欲は極端で特殊な例であるが、事柄の本質をはっきりと示してくれる。前回の投稿(4/6)で私は自我(=自己愛)を問題にしたが、名誉欲などの自己愛を退けることこそが誠実であるための条件なのである。

日曜美術館では、「空如は無の境地で鉄線描を我がものにしていった」というナレーションがあった。鉄線描とは線に意味を持たせず、無になって均一な線を描き切る手法であるとのことである。邪念や怒りとか喜びとかといった感情があってはならないのである。――というわけで、誠実(忠実)とは自己愛を退け、無の境地に入ることによって実現されるものであると言うことができるが、ところで意味を持たせないように描かれた線とはどのような線なのであろうか。それは無意味な線なのではない。それはいわば人間的な意味(通常の感情)を超えた意味を帯びた線なのである。

♦ では、無になることによって誠実を実現するとはどういうことなのか。無になるということは自己愛が文字通り無くなってしまうということではない。そうではなくて、自己愛が変容するmetamorphoseということなのである。そして無になることによって誠実を実現するということは、何か超越的な価値に向かって自分が自分を超えることであり、つまりそれは自分というものが無くなってしまうことではなくて、本当の意味での〈自分〉が生まれるということなのである。本当の意味での〈自分〉とは、芸術活動などにおいて自分が自分を超える運動そのものなのであり、そしてそうした運動(誠実の実現)を通して作られてゆくのが各人のかけがえのない〈個性〉なのである。

自我は憎むべきものである―パスカル

 善と悪は対概念である。しかし私が経験したところでは、「善」は学生にとって殆どピンとこない言葉であった。ところが同じ抽象概念であっても「悪」は違う。恐らく多くの人にとって、悪は善と違って圧倒的なリアリティを持つのである。それはどうしてなのか。哲学的・神学的には善こそが最高にリアルなものなのであるが …

自死した犠牲者の痛ましい遺書が公表されたことで、(公文書を改竄させるという)自分たちの悪事を裏づける新たな事実が明るみに出されたのにも拘わらず、「再調査しない」と何ら躊躇することなしに言い切る。それはもちろん再調査されると大変なことになるからなのであるが、しかしそうである故に、「再調査しない」と言い放つことは自分たちの犯行を自白したも同然のことなのである。しかしながら権力者はそうしたことを気にも留めない。自分たちは決して逮捕されないと踏んでいるからである。

これほど冷酷で卑劣な人間はそうはいないであろう。とはいえ、自分の利益のことしか考えず、人を人とも思わぬこれと同類の人間は世の中のあちこちに存在するのではないか。我々は具体的な悪と具体的に戦うためにも、悪というものの根っこを探る努力をしなければならない。

さて、パスカルは自我には二つの性質があると言う。(なお、ここで言う≪自我 le moi≫は≪自己愛 l’amour-propre≫のことである。)

(a) 自我はそれ自身において「不正」である。というのも、自我はすべてのものの「中心」に成るからである。

(b) 自我は他の人々にとって「不快」である。というのも、自我は他の人々を「隷属」させようとするからである。各々の自我は他のすべての自我の敵なのであり、他のすべての自我に対して暴君であろうとするのである。

パスカルが言うには、我々は自我の「不快」な点(b)は取り除くことができるが、「不正」な点(a)は取り除くことができない。というのも、我々は他の人々に親切に振る舞うことによって自我(=自己愛)が他の人々を不快にすることは防ぐことはできるが、例えばそうした親切な振る舞いにおいても自我(=自己愛)の自己中心性は何の変化も受けないからである。但し我々は自我の自己中心性を取り除くことはできないが、それを「隠す」ことはできる。そして隠すか隠さないかは大きな違いであるが、より重要なことがある。それは自我の不正を憎むか憎まないかの違いである。

とりあえず以上を踏まえるとこうなる。

  • 悪の根っこは自我(=自己愛)に存する。
  • いわゆる悪人とは自我の不正を憎まない人間、「自我の内に己れの敵を見出さない」人間である。

パスカルの立場からすると、人間が人間という枠に留まる限りは決して自己中心性から脱することはできない。即ち我々が自我の不正から脱するにはイエス・キリストを信じるのでなければならない、ということになるであろう。しかし私はこうした門切り型の理解に満足することなく、稿を改めて自己中心性と自己超越性について別の仕方で考察することにしたい。

「肉は悲し」④

♦ よく晴れて青空が澄んだ昨日は、練馬区立美術館で開催されている「背く画家/津田青楓」の回顧展に出かけた。印象深かったのはやはり「犠牲者」(1933)だった。これはプロレタリア作家の小林多喜二(1903~33)の獄死(拷問死)に触発されて描かれたものであり、作者はこれを十字架のキリスト像にも匹敵するようなものにすることを望みつつ描いたとのことである。ただ、キリストの場合と多喜二の場合とでは、やはり犠牲ということの意味が異なるであろう。多喜二の犠牲は贖罪や復活の物語に連ならないが、しかしそれ故に却って純粋さと神々しさを感じさせる。

♦ この酸鼻をきわめる「犠牲者」には、人権を蹂躙する官憲への強烈な批判が込められていると解説にあるが、当時の官憲の強権ぶりは凄まじく、津田にしても警察によって検挙され転向を余儀なくされた。しかし古今東西を問わず権力欲は人間を腐敗させるものなのだ。権力欲に取りつかれた者は権力を誇示するために、また権力を維持し増大させるために、手段を選ばないからである。モラルの崩壊は必定である。昨今我が国で問題になっている官邸の赦しがたい嘘やごまかしもその一例である。

♦ しかし腐敗しているのは権力欲に囚われた者だけではない。権力者におもねり権力に与ろうとする者も同じである。ところで、「長い物には巻かれろ」式の奴隷根性は権威主義という形で学界にも蔓延している。研究者には既成の観念に≪根本的な≫疑問を抱くための志と気概が欠けている。つまり研究は受験勉強の延長でしかなく、業績は出世のための点数稼ぎでしかない。そう言っても恐らく言い過ぎではないであろう。論文には巧みな装飾が施されているが、真理や正義に対する責任感というものが感じられない。

しかしそれにしても権力というのは難しい問題である。そもそも何らかの権力なしには社会の秩序は成り立たない、つまり社会は成り立たない。やはり権力は必要なのである。また、権力者に歯向かえばそれでよい、あるいは権力欲を批判すればそれでよいというわけではない。権力欲を批判することそれ自体にも実は或る種の権力欲が働いていると言えなくはないのである。これは肉である人間の悲しさであるが、しかし権力欲は決して完全には乗り越えられないということを洞察することができるならば、我々は権力欲に自覚的になり、よって、必要な権力を見極め、権力を謙虚で健全なものに保つことができるようになるのではないであろうか。

「肉は悲し」③

♦ この前テレビのチャンネルを回していて「世界の子どもの未来のために」という番組に偶然出会った。カンボジアのスラム(寺院の敷地につくられたあばら家)に住む8歳の少女。父親が亡くなったため毎日、しかも朝5時から1日中働かなければならない。そうしなければ家族が食べていけないのである。危険な蓮沼で蓮の葉と実をバケツに入れ、それを街まで売りに行く仕事はかなり過酷である。しかし大好きだった父親が貧乏故に点滴を受けられずに死んでしまった大きな〈悲しみ〉は、学校にも通えていない8歳の少女に俗心と無縁な純真な夢と希望を抱かせる。

「大人になったら病気になった人たちを治療したい。」

「お医者さんになりたい。」

悲しみは無垢な希望を育む。悲しみは心を浄化するからである。そして清らか希望はそれ自体が清らかな喜びなのであり、そうであるからこそ、それは厳しい現実に耐えることを可能にするのである。

♦ 子供の夢に幼稚さを見ることは容易である。しかし健気な子供を見て大人はむしろ己れの不純さを恥じるべきではないのか。多くの大人が自分の堕落に気づきそれを悲しまない限り、社会問題としての貧困(極度の格差)の根本的な解決はあり得ないであろう。

♦ ところで先日、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」のヴァイオリン譜(ペータース版)を買ってきた。この有名な曲はカンタータBWV147の終曲であり、原題はJesus bleibet meine Freude(イエスは私の喜びであり続ける)である。従って上記の邦訳名は英訳名の"Jesus, Joy of Man's Desiring"に倣ったものであると考えられるが、注目したいのは人の望みの喜びということ、つまり望みが喜びであることである。望みが叶うことが喜びなのではない。そもそも望みを抱くこととは別に望みが叶うことがあるわけではない。望みdesiringそれ自体が喜びjoyなのである。そのような望みが存在するのだ。(デカルトやカントの言う「善なる意志」もそのような望みに相当するであろう。)

♦ そして加えて言うと、この喜びの歌を弾いたり聴いたりしていると何とも言えない悲しさが迫ってくる。別にキリスト教の物語を信者のようにそのまま受け入れていなくても、贖罪主イエスと結びつくことの純粋な喜びと、それと裏腹の関係にある、全人類の贖罪のための十字架刑の悲しさとを、音楽の力によって同時に感じ取ることができるのである。実は悲しさなしには喜びはない。楽園から追放される以前のアダムとエヴァには、労働の苦しさや死の恐怖はなかった。およそ不幸はなかった。従って彼らは悲しさを知らなかった。しかしそれ故に喜びも知らなかったのである。

♦ いつの時代でも多かれ少なかれそうだったのであろうが、今日では宗教はかなり堕落してしまっているのではないであろうか。個人的経験に基づいて言うと、自分の惨めさに気づかない故に悲しむことを知らず、口ばかり達者で(内心では)人を見下しているキリスト教徒は決して少なくないのではないか。

「肉は悲し」②

 

♦ 昨日は昼下がりに「セタガヤクォドリベット第5回演奏会」を聴きに出かけた。立錐の余地もない満席の会場で演奏されたのは、バッハのカンタータ4曲とモテット1曲であった。実は曲目の内容からして途中で退屈するのではないかと心配していたのであるが、どうしてどうして、2時間があっという間に過ぎてしまった。熱のこもった、しかも本格的な演奏に圧倒され続けたからである。

♦ どの曲も感動的だったが、前もって期待していたカンタータ第46番《目を凝らしそして見よ、かつてこれほどの痛みが》の第1曲は案の定すごかった。神の裁きによるSchmerz(痛み・悲しみ)を歌う合唱は聴く者をそれこそ震撼させるものであった。

♦ ところで、話は大きくなるが、このSchmerzぬきにはキリスト教はあり得ないということをここで強調したい。そもそも十字架は極度の苦悩を表すのである。キリスト教は、私に言わせれば、悲しみこそが幸いをもたらすことを教える宗教なのである。宗教のことはよく知らないが、このことに関して今度改めて論じてみたい。

 

  悲しみなさい、嘆きなさい、泣きなさい。

  笑いを嘆きに変え、喜びを悲しみに変えなさい。

  主の前にへりくだりなさい。

  そうすれば、主はあなた方を高めてくださいます。

            (ヤコブ書)

「肉は悲し」①

 

♦悲しみを知る者は決して戦争を起こさない。戦争を起こすのは悲しみを知らない者である。悲しむことができない者は謙虚であることができない者であり、人を尊重することができない者であるからである。ところで、悲しみは必ずしも喜びの反対物ではない。悲しみは必ずしも陰気な感傷ではない。愛の絆である悲しみも存在するのである。

♦元旦の日に柳宗悦の「妹の死」を読んだ。これは日本政府による三一独立運動弾圧を念頭に置いた「朝鮮の友に贈る書」(1920)が書かれた翌年に発表されたものである。柳の妹は6人目の子供を出産後まもなくして30歳を過ぎたばかりで亡くなったのであるが、女中たちなども含めた家族の一人ひとりに優しい別れの言葉を遺しながら死にゆく場面、そしてそこに流れる厳かな時間は、実に印象的である。しかし死に際が美しかったのは、故人が美しく生きた人だったからに他ならない。

「妹は正しき事を愛した人間であった。疚しい事や、歪んだ事や、心暗い行いを非常に嫌った。彼女は汚れていない光の多い真直な道をと選んで歩いた。」

このことに誤りがないと柳は言う。

♦しかしこのような妹を失った彼の悲しみはどのようなものだったのか。

「おお悲しみよ、汝がなかったなら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。・・・ 悲しみこそは愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾れに燃やすものが何処にあろう。悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒やしてくれる。」

♦特に注目すべきは、「死の悲哀」よりも強く「生命への愛」を燃やすものはないという逆説である。この逆説は、人間は自分が悲惨であることを知ることにおいて偉大であるというパスカル弁証法を彷彿させる。

美と超越――花の美しさ

♦ 人間は誰でも必ず過ちを犯す。しかし過ちを犯してその醜さが露呈してしまう人もいれば、たとえ過ちを犯しても決して醜くない人もいる。いや、美しい人さえいる。しかし今の世の中に、できる限り美しく生きることを無意識的にであれ心がけている人は一体どのくらいいるのであろうか・・・。せめて美しい国を創ると宣言している人には、美しい生の模範を身をもって示してもらいたいのであるが、しかし中身のある理念がまったくなく、ただ人を支配したい威張りたいというだけの人間は、美しいどころか非常に醜い。しかしこれからはますます美しい生への志が見失われた時代になってゆくのではないであろうか。そういう懸念を私はどうしても拭い去ることができない。――こうした深刻な思いが、私が美について考える深い動機である。

♦ 25歳で夭逝した詩人ジョン・キーツは親友の詩人に宛てた手紙の中で、「詩は崇高でかつ慎み深く great and unobtrusive なければならない」と述べたあと、続いて花の美しさについて次のように語っている。

   奥まったところに咲く花the retired flowersは何と美しいことか!

   もし花が人通りの多い道に押し掛けて、

   『私を褒めてください、私は菫です! 私を可愛がってください、

   私は桜草です!』と叫んだならば、

   花はどれだけその美しさを失ってしまうことだろう!」

♦ 人はこの件りを、奥ゆかしさを重んじる古典的な(陳腐な)価値観の焼き直しと見るかもしれない。しかしそれは表面的な見方であろう。花は慎みを忘れるとその美しさを失うこと、奥ゆかしさは花の美しさを構成すること、このことは美の超越性を象徴的に表すものであると私は見る。(芸術美に関しても別のアプローチでその超越性を指摘することができるであろう。)このように見ることによって、私はキーツの言う「消極的能力」(後述)という問題にやがて巡り会うことになるのである。

♦ では、美の超越性とは何か。それは美は我々の理解 comprehension を越えているということである。つまり美の分からなさということである。例えば政治理念であれば、それを言葉で規定し尽くすことは不可能ではないと思われる。しかし山道で遭遇する可憐な花々の美しさ、夜道で仰ぎ見る朧月の美しさは、まさに得も言われぬものである。美しさというのは誰しもが何となく分かっているつもりになっているものであるが、しかしいざそれについて考え始めると人は言葉に窮してしまい、美的感覚とか美的感情とかに訴えるしかなくなってしまう。美の超越性とはこうした、美は理解を越えたものであり分からないものであるということである。

♦ しかし実は、この「分からない」ということが大事なことなのである。つまり「分からないということが分かる」ということが大事なことなのである。美(例えば花の美しさ)は、分からないということが分かるという形で分かるものであり、しかもそれ以外の、またそれ以上の、分かり方は存在しないものである。美の超越性とは、改めて言い直すと、こうした<分かりかつ分からない>という両義性である。

♦ ところで、「分からないということが分かる」ということは、意外にもそう易々とできることではない。分からないことを分からないまま受け容れることは案外と難しい。しかし分からないことをそのまま受け容れる能力、即ち「消極的能力」 negative capability――これはキーツが最初に用いた言葉である――を身につけることは、美を深く味わう秘訣であるとともに、美しく生きる秘訣でもあると思われるのである。

ラモーの『プラテ』――「人間・この劇的なるもの」

 

♦ 昨日はフランスバロック・オペラ『プラテ』を観に池袋のBrillia HALLに出かけた。ジョイ・バレエ ストゥーディオの上演を観たのは一昨年の『レ・パラダン』に続いて二度目である。バレエも歌もすべて日頃の修練を感じさせる見事なものであったが、今回は特にオーケストラの充実ぶりに目を見張った。

♦ ところで、フォリーとアムールを熱演された高橋美千子さんが、何日か前にfacebookに、「皆が平等に 幸せになることはないが 皆が幸せであるように 願うことはできる それを第一の目的に 表現者として 自分を晒すことができたら 云々」と書いておられた。彼女は昨日もこの潔い志を確実に実現されていたのであるが、それはそうと、一般的な話として、芸術がもたらす「幸せ」とは一体どのようなものなのであろうか。この問題を少し考えてみるために、昔読んだ福田恆存の『人間・この劇的なるもの』を久しぶりに繙いてみた。

♦ 第一節の終わりにこうある。――

「劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、一個の芸術作品に仕たてあげたいということにほかならぬ。この欲望がなければ、芸術などというものは存在しなかったであろう。役者ばかりではない。人間存在そのものが、すでに二重性をもっているのだ。人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味わうこと、それを欲している。現実の生活とは別の次元に、意識の生活があるのだ。それに関らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ」と。

♦ 人間には現実の生活とは別の次元に意識の生活がある。そうである故に、人間はただ生きるだけではなくて、生きることを「味わう」ことができる。つまり劇的に生きることができるのであり、自分の生涯の全体あるいは一定期間を一個の芸術作品に仕立てることができるのである。世間ずれしていないおぼこのようなところのあるプラテを演じる役者も、エヴァをたぶらかした蛇のように狡猾なジュピテルを演じる役者も、そして更には役者たちだけではなくてオペラを鑑賞する者たちも、(生きることではなくて)生きることを「味わう」こと――例えば(怒ることではなくて)怒ることを「味わう」こと――への欲望を満たすのである。

♦ さて、福田は演戯(これは何かの振りをすることとしての演技と区別される)について次のように言う。「私たちの意識は、平面を横ばいする歴史的現実の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがろうとして、たえずあがいている。そのための行為が演戯である」と。芸術活動とは現実から遊離した夢の中を浮遊することではない。そうではなくて、日常的な現実が意識を自分の方に引き倒そうとすることに抗して、意識がその現実を拒絶しつつその上にすっくと立ち上がることなのである。従って芸術活動は決して現実からの逃避ではない。

♦ 日常の現実とのこうした緊張関係において、我々は(ただ生きるのではなくて)生きることを「味わう」のである。このことには人々が日常的に次々と消費して行く諸々の快楽――例えばおいしいものを味わう快楽――とはまったく異質な歓びがある。この歓びが芸術がもたらす「幸せ」である。

バッハと踊り、そしてメルロ=ポンティのこと

 

♦ 昨日の昼下がりは、「古楽の調べ」という催しに参加するために西国分寺に赴いた。チラシに、「バッハのメヌエットは、どのような踊りだったのでしょう?」とあったからである。取り上げられたのは、バッハのメヌエットそのものというより、バッハにおける舞曲の背景というかルーツ(クープラン、ダングルベール、等々)だったのであるが、Pas de menuet の実演をじかに観ることができたことなど色々収穫があった。

♦ ところで、当代随一のバッハ解釈者とも称されるアンジェラ・ヒューイットが、いつかテレビのインタビューの中で次のように語っていた。――舞曲であるメヌエットやガヴォットやプーレにおいてはもちろんのこと、インヴェンションやプレリュードやフーガにおいても、バッハは踊りのリズムを使っているのであるが、バッハの音楽がこれほど我々の胸に訴えるものであるのは、それが歓喜 great joy を踊りのリズムで表現しているからなのである、と。彼女は<踊り>と<バッハの内なる歓喜>とのコンビネーションを強調しているのである。

♦ 私が思うに、踊りという身体的動作は歓喜を表現するための単なる手段なのではない。むしろ歓喜は踊りという身体的動作と共に身体自身から湧き出るのである。身体の表現性は実に独特である。身体は予め身体とは別のところにある何かを表現するというより、身体はみずからそれが表現するもの(例えば歓喜)に成るという仕方で表現するのであり、つまり身体はいわば自己創造的に何かを表現するのである。そして、身体がそのようなものであるからこそ、踊りや音楽のみならずあらゆる表現活動が可能になるのである。

♦ ところで、フランス哲学は伝統的に身体を問題にしてきた(この点がフランス哲学とドイツ哲学との顕著な違いの一つである)のであるが、「身体」――表現としての身体――を哲学の原理に据えた哲学者はメルロ=ポンティをおいて他にいない。メルロ=ポンティに関しては取り分けフッサールサルトルからの影響が研究者によって取り沙汰されてきた。実際、メルロ=ポンティフッサールサルトルを、批判を交えつつも大いに援用しているのである。しかしフッサールの哲学とサルトルの哲学は、身体についてどれほど豊富に論じていようと、あくまでも「意識」を原理とする哲学である。つまりそれらは「身体」を原理とするメルロ=ポンティの哲学とは根本的に異なるのである。

♦ ついでに言うと、フッサールサルトルデカルトのコギト[=われ思う]を継承していることは、両者自身が率先して述べているところであるが、但しデカルトのコギトはフッサールサルトルが言う意味での「意識」とは異なる。デカルトのコギトは一方で「神の存在」という真実(信)を、そして他方で「心身の実体的合一」という真実(信)を、暗黙裏に前提しそれらと深く繋がっているのである。

『ハノン』と個性の問題

♦ 以前テレビでピアニストの伊藤恵さんが音階練習の『ハノン』について、この教本は「自分はどのような音を出したいのか」、「自分にとって感動する音というのはどのような音なのか」を「探す」のにとても役に立つものではないか、というようなことを話されていた。これはどういうことなのであろうか。――

シューベルトソナタでも何でもよい、何か楽曲を演奏する際に演奏者は一定の感情を抱いている。またその感情を表現するためには曲をどのように組み立てたらよいかを考えている。しかし『ハノン』を弾く場合はそうではない。無味乾燥で機械的な音階を弾くことは感情や思考を必要としない。というより、感情や思考を全部取り払うことを要求するのである。しかし音楽を形成する要素をすっかりそぎ落としたいわば音楽のゼロ地点に立つことは、却って、純粋に音そのものに向き合う絶好の機会であり得るのであり、つまり自分はどのような音を出したいのかを探究する絶好の機会であり得るのである。

♦ 伊藤さんの言葉を私なりに理解すると以上のようになる。ピアニストは『ハノン』を弾くことによって(別に『ハノン』でなくてもよいのであるが)、めいめい、自分にとって感動する音というのはどのような音なのかを探究するのである。これは自分の魂の中に潜在する美的感覚を掘り起こすことであり、それ故にそれは優れた意味での自己探究でもあるのであるが、ピアニストはめいめい孤独の中でこうした探究を行なうことによって、自分独自の音色を創っていき築いていき磨いていくのである。

♦ 個性とはこのようなものである。即ち個性とは何か他人と違う身体的特徴とか能力的特徴とかに関わるものではなくて、探究の努力を通して培っていくものなのである。従って演奏家それそれぞれの個性――即ち独自の美学――は、単なる趣味のような自閉的なものではなくて、普遍性の香りを漂わせている。それは極めて特殊なものでありながら普遍性の雰囲気を醸し出しているのである。例えばホロヴィッツの音色、リヒテルの音色・・・を考えてみればよい。

♦ ところで、私の最大の関心事は、美的次元の個性と倫理的次元の個性との統合ということである。ピアノの音色の美しさという問題は、人格と行為の美しさという問題から切り離されてはならないのである。

政治の問題と魂の問題

 

己れの魂に無頓着な人間が権力を持つと必ず権力に溺れる。このことは政治の世界に限らずどこにでも見られることであろうが、そのような人間にとっては自分の権力(歪んだ自尊心)を守ることだけが重要なのであって、事実などどうでもよいのである。――例えば、自分に都合の悪いことを指摘されると巧みに話をずらす。堂々と嘘をつく。意味不明なことを意味ありげに言って目眩ましを食らわせる。理不尽な言いがかりをつけて相手をやり込める。自分が間違えていたとは絶対に言わない。しかも厄介なことに、大多数の者は権力になびくのである。

己れの権力に酔いしれ己れの魂を気遣うことができない人間は、他人の身になって考えることなど毛頭できない。従ってそのような人間には権力の座から降りてもらわなければならないのであるが、しかし話せば分かるということが基本的にあり得ない以上、目的を果たすためには相手と同じ土俵に上がらなければならない。即ち自分の方も何らか権力を持たなければならない。例えば支持者あるいは支持政党を選挙で勝たせなければならないのである。この場合ソクラテスの言う「魂の世話」は役に立たない。個人がいくら己れの魂を気遣い大切にしても、そのことによって社会を改善することができるわけではないのである。社会正義の実現は魂の問題ではなくて政治の問題である。

どの世界もそうであるが、取り分け政治の世界は「力」があからさまにものを言う世界である。政治の世界は勝ち負けの世界であり、敵か味方かの世界である。議論は論戦でしかない。選挙に臨む場合にも正しいことを生真面目に述べ立てるだけでは意味がない。弁論力によって人々を説得し、多くの支持者を集めなければならないのである。また様々な駆け引きも行なわなければならないであろう。・・・ しかしこうしたことにかまけることは、魂の純粋さという観点から見ると危険なことである。また善政によって仮に社会的不正を是正することができたとしても、そのことによって個々人が幸福になるとは限らないということも指摘しなければならないであろう。

我々が真に誠実であることができるとすれば、それは行動から離れた孤独な反省においてである。私は1968年から70年にかけての大学紛争の顛末を目の当たりにして以来、行動が内省を伴わないならば、社会正義という基本理念からして平板で底の浅いものにとどまるのではないかとずっと見ている。行動と内省を、はっきり区別しつつ結合しなければならない。

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この内省に関連したこととして、次はマグダラのマリアの悔悛について考察したいと考えている。

根本的両義性(13)――アガペーとエロス

このところずっと日本と韓国との関係が大きな問題になっているが、報道に接してつくづく思うことことは、日本政府の韓国政府に対する対応と、アメリカ政府に対する対応とが余りにも違うということである。日本政府は両国政府に対して、できるだけ対等でフェアな交渉を行なおうと努めるのではなくて、いつのまにか植えつけられた――正当な根拠のない――優越感と劣等感に導かれて非常に稚拙な外交を展開しているように見えるのである(もちろん相手側にも問題があるのであろうが)。一般社会にも見られるように、自分の強さと偉さを誇示したがる人間というのは、相手が変わると豹変し極度に卑屈になるのである。要するに不当に差別的なのだ。

こうした優越感と劣等感、即ち不当な差別感情というのは、どうしようもないものなのであろうか。ところで有名な山上の垂訓にはこうある。

「天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5章)

天の父は如何なる差別もしない。その愛――アガペー――は悪人にも善人にも公平に注がれるのである。聖書のこの一節は近代の平等思想の起源であり根拠であると見ることができるが、それを繰り返し味わうことができるならば、病的で偏狭な感情は多少なりとも癒やされるのではないであろうか。

 さて、この無差別的な愛のことであるが、それはあらゆる局面において成り立ち得るものではない。例えば自分の恋人や友人、あるいは自分の家族や祖国は、我々にとって多かれ少なかれ「特別な」存在である。つまり我々は事実上、人あるいは集団を差別しているわけである。差別的な愛――エロス――は我々の生活の中で極めて重要な位置を占めている。但しそれは絶対化されてはならない。

ここで聖書の或る一節を取り上げてみよう。

或る時イエスが話をしていると、一人の女性が声高に言った。

「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

エスのような人から仰がれる者を自分の胎と乳房で産み育てたマリアはなんと幸いな者なのでしょう。そのように女性は叫んだわけであるが、イエスは直ぐさまこう応答する。

「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11章)

エスの母としてのマリアよりも、むしろ神の言葉を聞きそれを守る人こそが真に幸いなのだ。イエスはそう応じたわけである。こうしてイエスは血のつながりを神とのつながりによって相対化するのであるが、このことはエロスはアガペーによって包まれているのでなければならないということを意味する。

ところで、上に引いた箇所の少し前でイエスはこう述べている。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(ルカ8章)

このようにイエスは自分の母とか兄弟を血のつながりから解放して、神とのつながりによって定義し直している。但し、血のつながりを切り捨てているわけではない。それどころか、イエスは神の言葉を聞いて行う人たちを、母とか兄弟という言葉によって定義していると見ることもできるのである。このことは、アガペーはエロス的なものによって定義せざるを得ないことを意味する。

一方で肉的なエロスは霊的なアガペーによって包囲され、また他方で、(宗教家はこのことを決して認めないであろうが)アガペーはエロスに或る意味で依存する。二つの愛はあくまでも別のものであり対立し合うが、双方向的な関係にある。このよう仕方で二つを両立させることが我々の生きるべき道である。

 

解釈と理解

 

♦ 昨日は『亀井由紀子特別公開レッスン』を聴講するために目白のソルフェージスクールまで出かけた。亀井氏はかつてヤッシャ・ハイフェッツの助手を務めたヴァイオリニストであるが、決して偉そうに威張らない方である。楽器を構える姿勢は凜としていて、どこかハイフェッツを彷彿とさせるが、指導の仕方はハイフェッツのように(?)怖くはない。むしろ優しすぎる。また説明する際に歌うその歌声もなかなか美しい。

この日の私のお目当てはプログラムの二番目、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第三番の中のフーガだった。フーガのような対位法音楽をヴァイオリン一丁で演奏することは非常に難しいのである。私は学生の時からアウアー版やイザイ版といった古い版の楽譜(下の写真)を使ってきたが、最近は演奏法の研究の進歩により、バッハの無伴奏は以前よりもずっと近づき易いものになった。とはいえ、技術的困難が軽減されればスムーズに演奏できるようになるというわけではないのである。

昨日の公開レッスンで私が得た収穫は、何よりも重要なのは楽曲の「理解」であることを改めて会得したことである。亀井氏が秀でているのは、まさに理解――これには実は人間の品性が深く関わっている――ということにおいてなのであり、本当の意味でスムーズに弾けるためには、楽曲の全体および細部(全体と細部はもちろん連関している)の理解が何よりも大事なのである。

ところで、音楽の演奏に関してはしばしば「解釈」という言い方が用いられるが、解釈という言葉を使うとどうしても、解釈は自由であるとか、解釈は色々あり得るとかといった話になってくる。しかしそうなると我々は演奏の恣意性を排除することができなくなるのであり、つまり相対主義に陥ることを余儀なくされるのである。私が改めて思ったのは、理解ということが解釈ということの根底に置かれなければならないということである。独創的な解釈とは独創的な理解によって裏打ちされた解釈なのである。

音楽の場合に限らず、理解というのは単に学問や知識の問題ではない。理解の正しさと深さは、実は各人の生き方そのものに根ざすものなのである。

大竹まこと著『俺たちはどう生きるか』――強者にはならないという生き方

本書は著者が古希を迎えて上梓した小さな自伝とも言えるものであるが、ひとことで言うと、著者の「優しさ」の秘密をそこから読み解くことができる本である。

♦♦ 大竹氏は二〇歳から二年半、風間杜夫氏と一緒に住んでいたのであるが、ある日二人は麻雀で負けてスッテンテンにされ、朝の八時頃アパートがある祐天寺の駅を降りたところ、駅に向かう通勤客たちと出会い、それら仕事に行く人たちとは反対方向にボロアパートへ帰って行くことになった。そして二人は次のように言葉を交わす。

「毎日がこんなんだなあ。俺たち、どうするんだろ」・・・ ・・・ 

「いいんだヨ、これで、大竹」

いいんだヨ、これで。――このような生き方の選択ができたのは、時代のせいもあるかもしれないが、決してそれだけではないであろう。

氏は進学校の高校に通ったが、大学には行かなかった。行かなかったのか、それとも行けなかったのか。いずれにしても、少なくとも心の奥底では大学に行かないことが選択されていたのではないか。そもそも高校時代に勉強していなかったのであり、しかもわざわざ難しい一校しか受験しなかった。おまけに予備校の授業料も使い込んでしまった。ライフプランに従って抜け目なく世の中に適応するという生き方はしないし、できないのである。しかし賢しらな生き方をしないこのような人間こそが、生きることと死ぬことに対して豊かな感受性を有することができるのであり、そして己としっかり向き合うことができるのである。

著者は57歳を過ぎてから始めたラジオの帯番組(月~金)を十二年以上も続けてきた。しかし今になってもなお己の所在がつかめないと言う。とすると、「街のチンピラ」として職を転々とするだけで、何をしたくて生まれてきたのか分からなかった二十代くらいまでの時と基本的に変わっていないのである。私はラジオ以外のところでの大竹氏の活躍は知らないが、氏は著名な芸人として押しも押されもせぬ存在であるはずである。しかしそれにも拘わらず、高校を出てすぐに社会に飛び込んでしまった自分には若者に送る言葉はないと言い切る。これは決して謙遜や気取りではない。立派な言葉を語って聞かせるような“ひとかど”の人物にはならないという、(密かに)選択された生き方がそう言わせるのである。

ところで、人生というものが面白いのは、それがいわば弁証法的であることである。「あの時、負けて良かった」(第二章)という件りや、「弱者は弱者のまま終わらない」(第四章)という件りは実に印象的である。但し弱者は弱者のまま終わらないということは、弱者は弱者であることをやめて強者になるということではない。大竹氏は強者なのではなくて、弱者のまま終わらない弱者なのであり、あくまでも弱者なのである。但し単なる弱者ではない。弱者のまま終わらない弱者である。このような人間こそが弱者の気持ちが分かるのであり、真の「優しさ」を身につけているのである。