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デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 5

デカルト研究者でさえ、デカルトの問題性を摑めていない。

否、デカルト研究者はデカルト研究者である故に、デカルトの問題性が掴めないのである。

本ブログの最初の記事(2016.9.12)でも関連することを述べたが、

哲学研究は学問的であろうとすればするほど、皮肉にも、哲学そのものから乖離するのである。

 

デカルトは『省察』の「読者への序言」で、

「自分と共に本気で(真剣に)省察する」ことを読者に求めているが、

デカルト研究者に欠けているのは、まさにこの「真剣さ」である。

 

別の言い方をすると、

デカルトは当然、哲学に対して責任を持っている(それ故に哲学者なのである)が、

デカルト研究者はそうではない。哲学に対する責任感がないのである。

そうであるからこそ、例えば、デカルトについての本を出した後に、平気で、次にスピノザについての本を出したりするのである。

 

更に別の言い方をしよう。

デカルトにとっては哲学は「理論」ではないが、

デカルト研究者にとっては哲学は「理論」である。 

しかし哲学は「理論」であるということは、哲学は「人」そのものから切り離されるということであり、

つまり、哲学は責任感の対象にはならないということなのである。

 

 

 

 

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 4

繰り返し述べたように、 デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない。

但し、デカルトの問題性を的確に摑むことはそれ自体非常に難しいことである。

実際、デカルト研究者--彼らは基本的に哲学史家であって哲学者ではない--からして、デカルトの問題性を的確に摑めていない。

 

そしてデカルトの問題性が掴めていない故に、メルロ=ポンティに好意的なデカルト研究者でさえ、メルロ=ポンティがまるで分かっていない。

例えばデカルト研究の権威であった故ロディス・レヴィスはその著『デカルトと合理主義』の序で、メルロ=ポンティの『シーニュ』から合理主義に関する二つの文章を引用しているが、この引用はメルロ=ポンティに対する無理解をよく表している。

 

そして悲しいかな、研究業績を作るために翻訳・紹介に勤しむ我が国の研究者は、ロディス・レヴィスによる件の引用を無断でそのまま自分の論文の中で引用している(これは一種の剽窃であろう)のである。

こうした「哲学に対する責任感」をまったく欠いた者、即ち「哲学とは何か」という根本的な問いを問うことのない者に、デカルトの問題性を摑めるはずはなく、従ってメルロ=ポンティが分かるわけがない。

  

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 3

メルロ=ポンティの哲学は単なる心身合一の立場ではない。

デカルトには「心身の区別」と「心身の合一」という二つの面があるが、メルロ=ポンティはこのデカルト的二面性を引き受けているのである。

(但し、これら二つの面がどのように結ばれるのかがまさに問題であり、デカルトの場合とメルロ=ポンティの場合とではその結ばれ方は同じではない。)

 

ところで、メルロ=ポンティの哲学は単なる「心身合一の立場」ではないということ、言い換えれば単なる「非反省的なものの立場」ではないということは、この哲学は単なる「現象の記述」ではないということである。

「現象の現象」とか「現象学現象学」といったことが語られるが、

メルロ=ポンティの哲学は「現象の記述」としての現象学であると同時に、現象学現象学でもあり、そしてこれら「現象学」と「現象学現象学」とは不可分である。つまり後者なしには前者はあり得ず、前者なしには後者はあり得ないのである。

デカルトの場合には二つの面の結合はここまでは徹底されていない。)

 

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 2

私は在外研究で、ジャン・マリー・ベイサード教授(パリ大学第十大学)の授業に参加しつつ、教授の主著デカルトの第一哲学:形而上学の〈時間と整合性〉』をノートをとりながら繰り返し繰り返し読んだ。

その間、考え続けたのはもっぱら「デカルトの循環」という問題であるが、この問題を考え詰めてゆくうちに、メルロ=ポンティにおける循環の問題を「再発見」した。

パリでのデカルト経験なしには、2000年における『メルロ=ポンティ 超越の根源相』の出版にいたる道のりはあり得なかったと言える。

 

ただ、パリでのデカルト経験といっても、私はベイサードなどの代表的なデカルト研究者の言うことを鵜呑みにしたわけではない。

また、権威あるデカルト研究史に依拠してデカルトを考えたわけではない。

そうした(アカデミズムを基準にすることはしないという)姿勢を、私は帰国後年々強めてゆき、森有正小林秀雄デカルト考などを熟読しながら、デカルトの哲学を「生のあり方としての哲学」として読む読み方を確立していった。

そしてそれは同時に、「デカルトの循環」の深層(真相)に迫ることでもあった。

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 1

メルロ=ポンティデカルト論をいくら読んでもデカルトは分からない。

しかしデカルトを読めばメルロ=ポンティは分かる。

というより、デカルトの問題性が掴めなければメルロ=ポンティは分からないのである。

これが1986年度におけるパリ大学での在外研究を経て、そしてその後の30年間の思索を経て、私が確言できることである。

 

時間と永遠について言うと、

デカルト省察は時間の中で行なわれる。

この「時間の中で」という条件を外して省察を理解することはできない。

例えばコギト(我れ思う、故に我れあり)とは、時間の中で時間を突破し永遠(つまり真理)に達する企ての到達点なのである。

 

このことを押さえると、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』とは何であるのかが分かる。

それは時間と永遠との結合なのである。

但し、メルロ=ポンティの哲学はデカルトの哲学とまったく同じであるというわけではない。メルロ=ポンティの場合はデカルトの場合よりもより荒技的に時間と永遠とは結合される(これは永遠が時間に還元されるということではない)のである。

拙著『メルロ=ポンティ 超越の根源相』(創文社)の、例えば第1章第2節「一種の永遠」を参照されたい。

「都立大哲学会と倫理問題」2017.01.28

         都立大哲学会と倫理問題

        ――発会60周年を迎えて――

                         実川 敏夫

  

他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは哲学会という名に恥じることのない、品格のある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対してかねてより違和感を覚えている。要するに、理念性・倫理性が感じられないのである。今までは自重していて、このことについて学会ではほとんど発言しておらず、もう既に遅きに失しているのかもしれないが、ともあれ、本学会は今年ちょうど発会60周年(人間でいうと還暦)を迎えるということがあるので、これを機会として、僭越ながら学会の将来に向けて提言を行なうことにしたい。

 

     Ⅰ『哲学誌』について

 

(a) 『哲学誌』に審査制を導入する議決が為されたのは19765の総会においてであり(この時は編集委員とは独立に新たに選考委員が設けられた)、そしてこの歴史的な変革の立役者は坂井秀寿・久保元彦という二人の助教授だったのであるが、両助教授がみずから選考委員を買って出る姿勢をも示したのは、まさに哲学に関して或る志を持っていたからである。当時博士課程に在学していた私は坂井邸を訪ねた際にお二人の志にインスパイアーされ、そしてそのお陰で私はこれまでずっと哲学を続けてこられたのであるが、ここで言う志とは「個人的な趣味・教養としての哲学」や「党派的なイデオロギーとしての哲学」といったタコツボ主義が決定的に欠いている「哲学に対する責任感」であり、そしてこれは教員にとっては論文の査読に対する(つまり学生に対する)責任感でもある。私は『哲学誌』の今の査読の仕方に、あとでその内容を偶々知って以来、事あるごとに疑義を呈したが、それは哲学に本質的な倫理(=美)であると言える「哲学に対する責任感」に駆られて『哲学誌』に初めて審査制を導入した二人の哲学者を裏切るようなやり方を、黙って見過ごすことができなかったからである。

 

  • (注1) 今の査読の仕方は指導教官の評価を徹底的に排除することを狙うもののようであるが、学生の論文を最もよく理解していると考えられる――それ故に卒論・修論・博論の審査では主査を務める――者を、どうして徹底的に締め出さなければならないのか(“Schule”といったものは存在せず、また採否を決定する権限はもっぱら編集委員に存していたのにも拘わらず)。そもそもそのことが不可解なのであるが、仮に百歩譲って指導教官の評価を絶対的に排斥しなければならないのだとしても、このことは外部委託という責任放棄的なやり方をしなければならない理由にはならないのではないか。 【ここで念のため断っておくと、私は指導教官が査読すべしと主張したいのではない。教育者として学生に対して責任を持つべき本学の現役教員が査読の役目を負うべしというのが私の主張である。但し、必要に応じて臨機応変に、指導教官にも、あるいは信頼できる外部の研究者にも、見解を聞かなければならないと考えている。】

 

  • (注2) 聞くところによると、科学論文の場合でさえ客観的な査読が行なわれるとは限らないらしい。というのも、査読は専門が同じか近い研究者たちによって行なわれるが、彼らは論文提出者のいわば競争相手competitorでもあるので、そのことが評価を歪めることが多いからである。こうした例からも分かるように、指導教官を外しさえすればフェアな審査が行なわれると見るのは余りにも楽観的過ぎる。哲学界は公平無私な人格者だけで占められているわけではないのである。 【もう一度念を押すと、私は指導教官が査読すべしと主張したいのではない。】

 

(b) 一般的に言って、外との交わり(海外留学など)は大事なことである。従って応募論文について言うと、もちろん他大学に信頼できる人がいれば(そういう人を見つけるのは実は容易ではないが)、その人にを読んでもらうのはよいことである。「これはよい論文だから是非あの人にも読んでもらいたい」という人がもしいれば、その人に論評を仰ぐべきである。しかし丸投げのようなやり方はよくない。一体、他の大学でも紀要の査読を外部に委託しているのであろうか。それは知らないが、都立大哲学会は学会といっても母体を持たない全国学会とは違って、本学を母体とし本拠とする学会であり、しかも査読の対象となるのは実際には本学の在学生だけであるということからしても、修士論文や博士論文の評価・合否判定と同様に、応募論文の査読・採否決定は本学の現役教員が責任を負うのが当然である。出過ぎたことを言うようであるが、本学の教員には、坂井・久保両助教授のように気概と気骨を行動で示してほしい。

 

(c) 責任の所在を曖昧にすることは倫理に悖ることである。しかしそれだけではない。本学の教員の責任感が疑われるようなことがもしあれば、それは決して得なことではないのである。都立大(首都大)の教員はそんなにも責任感がないのか、そんなにも的確な評価を行なう自信がないのか、そんなにも相互信頼がないのか、そんなにも世間からの信用がないのか、そんなにも権威がないのか、などと思われるならば、本学の教員が評価・合否判定の責任者となっている修士号や博士号の世間的価値もそれによって影響を蒙ることになるであろう。

 

(d) ところで、1976年5月の総会に関する記録には、『哲学誌』の質を高めるために論文は厳選するという旨が記されているが、査読を専門家に委ねるというようなことは坂井・久保両助教授の念頭にはまったくなかった。両氏の念頭あったのはむしろ逆のことである。問題とされていたのは、私が了解したところでは、専門主義=タコツボ主義の弊害である。思うに、タコツボに潜り込むということは、根本的な問題を締め出してしまうということであり、既定の枠組みの中でしか思考しないということである。従ってタコツボの中に埋没した者は自分のやっていることの意味がよく分からない。それをやらなければならない必然性がよく分からない。ただそれをやりたいからやっているだけである。そのような者の書いた論文は専門家の間では、即ち仲間内では、評価されることがあるかもしれないが、専門外の者に評価されることは恐らくないのではないか。というのも、その哲学的意味が不明だからであり、つまり哲学論文としての普遍性を持たないからである。

 

(e) というわけで、論文の質を高めるためには専門主義=タコツボ主義を問題にしなければならない。但し、何かを専門にすること自体が悪いことであるというわけではもちろんない。肝腎なのは根本的な疑問を抱くこと(これこそが真の知性の働きであろう)ができるか否かであり、言い換えれば哲学に対して責任感を持つことができるか否かである。例えば久保元彦氏はカントしか論じなかったが、つまりカントを専門にしていたが、しかし常に「哲学とは何か」という問いを最重要視し、この根本的な問いを思索の糧にしていた。これは感受性を要することであり、指示されてただちにできることではないが、そのようにすることが専門を究めオリジナルな研究を生み出すための条件であると考えられる。

 

(f) そこで『哲学誌』が全国で最も水準が高くまたユニークな紀要となることを願って、憚りながら以下のような提案をしたい。――①編集委員は選考委員を兼ねる。②必要な場合には委員以外の人(専門家など)にも応募論文を読んでもらうとしても、査読・採否決定の責任者はあくまでも編集委員である。③編集委員の仕事として特に重要なのは、(枝葉の問題は二の次にして)大所高所から根本的な指摘を行なうことである。④委員は本学の現役教員から3名選出する。

「デカルトの循環」 (i) ~死の問題へ

繰り返し述べたことであるが、「デカルトの循環」と呼ばれる循環は循環論法の循環ではない。というのも、それは超越関係における循環だからである。

ところで、循環は超越関係における循環であるということは、この場合の超越関係とは循環関係であるということである。

再度、神と聖書の例で考えてみよう。

[A]神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。

   ーーではどうして聖書を信じることができるのか。

[B]聖書を信じることができるのは、聖書は神から授けられたものであるからである。

  • 神は聖書を超越しているのであるが、上の[B]はその超越性を表している。
  • しかし[A]は神は聖書に依存することを意味する。神は聖書によって己れを示さなければならないのである。

つまり超越とは単なる超越ではなくて超越と依存(=非超越)との矛盾であり、また神と聖書の間の循環である。

 

ところで、こうした神と聖書との関係は、精神と身体との関係でもある。

デカルトにおいては、精神は身体を超越していると同時に、身体に依存しているのである。

言い換えると、精神は身体から区別されると同時に、身体と一つになっている(心身合一)のである。

精神は身体を越えたものであると同時に、身体なしにはあり得ない。

こうしたデカルト矛盾は詩人の洞察によっても裏づけられる。

 [1]肉体をうしなって あなたは一層 あなたになった       

   純粋の原酒(モルト)になって 一層わたしを酔わしめる   

   恋に肉体は不要なのかもしれない

[2]けれど今 恋いわたるこのなつかしさは 

   肉体を通してしか ついに得られなかったもの

[3]どれほど多くのひとびとが 潜って行ったことでしょう

   かかる矛盾の門を 惑乱し 涙し          

          茨木のり子『歳月』「恋唄」

 番号はもちろん引用者が便宜上付したものであるが、デカルト的に言うと、

[1]は純粋精神の立場に立つ言葉であり、

[2]は心身合一の立場に立つ言葉である。

そして純粋精神と心身合一という矛盾した二つが同時に問題になるのは、上の詩人の場合もそうであるが、とりわけ「死」においてなのである。

というのも、

一方、死は精神が身体から離れて純粋精神になることを可能にするが、

しかし他方、死はそもそも心身合一体にとってしか存在しないからである。

 

「デカルトの循環」(h)

前の12月1日の記事で、信じることと疑うことの矛盾に言及したが、この矛盾について少し考えてみよう。

「上から」見れば丸いが「横から」見れば三角形である(つまり丸くない)、そのようなものがあるとして、これについて矛盾を指摘する者はいないであろう。

円錐形をしたものは、そのように見えなければならないのであり、そのように見えなければ、それこそ(円錐形の定義に)矛盾するのである。

ところで、既に見たように、コギトや神の存在も、それらが現在の明証であることをやめて過去の明証になると、疑い得るものとなる。つまり、それらは「現在の明証」である場合は信じざるを得ないが、「過去の明証」になると疑い得るのである。

しかしこの「信」と「疑」の矛盾は、上から見れば「丸い」が横から見れば「丸くない」という矛盾とは異なる。「丸い」と「丸くない」は自己同一的な事物の必然的な現われであるが、「信」と「疑」は違う。というのも、11月24日の記事で述べたように、現在の明証と過去の明証の区別は、結局のところ、「神」と「明証の規則」との間の次元の違い、即ち創造者と被造物との間の超越関係を意味するからである。

ということは、超越において「信」と「疑」という矛盾した二つは結ばれるということである。

 しかも信と疑は互いに絡み合っている。

  1. デカルトは 2+3=5 を疑うために「欺く神」を想定したが、「欺く神」を想定するためには「欺く神」という明証の真理性を信じなければならない。つまり疑うことはそれ自体信じることなのである。
  2. しかし、「欺く神」という明証への信頼は、やはり、明証一般に対す懐疑であらざるを得ない。つまり信じることはそれ自体疑うことなのである。

この例はコギトや神の存在に対する信と疑の関係を直接説明するものではないが、〕このようにして信じることと疑うことは絡み合っているのであり、「疑うことは信じることであり、信じることは疑うことである」という循環が存在するのである。

このような循環こそが本当の「デカルトの循環」である。

これはデカルトが実際に語っている論理ではない。そうではなくて、デカルトが実際に生きている論理である。

我々はデカルトの言葉の整合化ばかりに拘ってはならない。肝腎なのはデカルトの思考的生の実体を明らかにすることである。

 

「デカルトの循環」(g) ・・・ デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑧

デカルトの循環」(e)で見たように、

我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを我々が確信する」ためには、その事物を「明晰に認識したことを我々が想起する」だけでは十分ではない。更に、「神は存在し神は欺くことはないということを我々が知っているのでなければ」ならないのである。

ということは、神は存在し神は欺くことはないという明証、つまり神の存在と誠実性という明証も、それが過去の明証となった場合には、即ちそれが想起の対象となった場合には、「神は存在し神は欺くことはない」ということの知を必要とするということである。つまり神的保証を必要とするのである。

しかし神の存在と誠実性という明証の真理性を保証する「神は存在し神は欺くことはない」ということの知それ自体も、それが過去の明証となった場合には保証を必要とするということに我々は気づかなければならない。

つまり、明証の規則の正しさが神の存在と誠実性によって保証されるのは、神の存在と誠実性が現在の明証である限りにおいてなのである。それが過去の明証である場合には、明証の規則は確乎たるものではあり得ないのである。

ということは、神の存在と誠実性が証明された後も、懐疑の可能性は残る(実際には疑わないとしても)ということである。

デカルトは、(例えば 2+3=5 を)疑う根拠として「欺く神」を持ち出し、次いで神は存在し神は欺く者ではない(誠実である)ことを証明して、「欺く神」という懐疑の根拠を否定し却下する。しかし、神の存在と誠実性も、それが過去の明証となるならば、「欺く神」は生き返る。つまりそれも疑い得るものになるのである。

デカルト研究者はこのことを決して理解しない。デカルトの懐疑は懐疑の可能性を決定的に抹殺するためのもの、つまり方法的懐疑であると信じ込んでいるのである。しかし、少し考えれば分かるように、絶対に疑い得ないことなどあるわけがないのである。実際、デカルトは「絶対に疑い得ない」などという言い方は、『方法序説』においても『省察』においてもしていない。

第三省察の冒頭でいわゆる明証の一般規則を仮に立てた後、デカルトは例えば 2+3=5 という明証は、それが現在の明証である場合にはその真理性を信じざるを得ず、それが過去の明証である場合にはその真理性を疑うことができるということを語っている。

つまり信じることと疑うことの矛盾を示しているのであるが、こうした矛盾・二重性はあってはならないものではなくて、それこそが深く了解すべき真のデカルト的問題であり、真の哲学的問題なのである。

この矛盾にはいずれまた触れることにして、我々はここで改めてデカルトの懐疑は方法的懐疑ではないということを確認したわけである。 

「デカルトの循環」(f)

前回見たように、デカルトは循環論法の疑惑に対して、現在の明証と過去の明証とを区別し、(即ち現に明らかであることと、かつて明らかであったこととを区別し、)現在の明証は保証を必要としないが、過去の明証は保証を必要とした。

つまり、こういうことである。

  1. 明証が現在的なものである限りでは、明証の規則は保証を必要としない。そこでまずデカルトは、明証の規則に立脚して神の存在と誠実性を証明する。★これは「神の存在を信じなければならないのは、神が存在することは聖書において教えられているからである」ということに対応する。
  2. しかし明証が現在的であることをやめて過去の明証(想起の対象)となると、明証は保証を必要とする。そこでデカルトは明証の規則の正しさは神が保証するとする。★これは「聖書を信じなければならないのは、聖書は神から授けられたものであるからである」ということに対応する。

さて、現在の明証と過去の明証との区別は、循環論法の嫌疑を晴らす役割をするわけであるが、では、現在の明証と過去の明証との区別はどうしてそのような役割を果たすことができるのであろうか。

  1. 明証の現在性は「明証の規則」から「神」へ(聖書から神へ)の上昇を可能にし、
  2. 明証の過去性は「神」から「明証の規則」へ(神から聖書へ)の下降を可能にする。

つまり、現在の明証と過去の明証との区別は、結局のところ、「神」と「明証の規則」との間の次元の違い、即ち創造者と被造物との間の超越関係を意味するのである。(但し、この超越関係は概念的なものではなくて、信仰の光に照らされたものでなければならない。)

そうである故に、現在の明証と過去の明証との区別は、デカルトをして循環論法から免れさせるのである。

 

「デカルトの循環」(e)

最初から話を始めることにしよう。「デカルトの循環」について論じるためには、まずはデカルトの答弁そのものを正確に理解しなければならない。では、循環論法の嫌疑に対してデカルトはどのように答えたのか。『省察』「第四答弁」を見てみよう。

(a)明晰判明に認識されることが真であることが我々にとって確定されるのは、神が存在するからに他ならず、また、(b)神が存在することが我々にとって確定されるのは、そのことが明晰に認識されるからに他ならないと、そのように私が述べた時、私は循環論法を犯していない。

デカルトはそのように答弁している。では、どうして循環論法を犯していないと言うことができるのであろうか。デカルトの言い分は次の通りである。

  1. まず(b)の方に関してであるが、「最初に神が存在することが我々にとって確定されるのは、神が存在することを証明する根拠に我々が注意を向けているからである」。つまり、神の存在は「我々が実際に明晰に認識すること」であるからである。
  2. しかし、我々はいつまでも根拠に注意を向けているわけにはいかない。では、「その後は」どうなのであろうか。今度は(a)の方に関してであるが、我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを我々が確信する」ためには、その事物を「明晰に認識したことを我々が想起する」だけでは十分ではない。更に、「神は存在し神は欺くことはないということを我々が知っているのでなければ」ならないのである。

明証の規則が神的保証を必要とするのは明証が過去のものとなった場合(即ち私は神が存在することをかつて明晰に認識したという場合)だけであって、最初に神の存在を証明する際には、即ち明証が現在のものである際には、明証の規則は神的保証を必要としない。つまり、(b)は(a)を前提しない。それ故に自分は循環論法を犯していない。――デカルトの言い分は要するにそういうことである。

しかしこの答弁は多くの者にとって納得のできるものではないであろう。というのも、「神が存在することは明らかである」という明証は、それが現在的なものである場合も、想起の対象となっている場合も、内容に変わりはないからである。

しかし問題は、明証が現在のものであろうと過去のものであろうと、その内容は変わりない、という見方それ自体なのである。多くの者は明証から時間性を奪う。ということは、デカルトの証明を単なる証明としてしか見ないということである。デカルトの証明を単なる証明としてしか見ないから、明証を無時間的なものと看做す。つまり現在の明証と過去の明証とを区別することの意味を理解することができない。しかしその場合には、デカルトを循環論法の嫌疑から救い出すことは不可能である。

「デカルトの循環」(d)

デカルトの循環」と呼ばれる問題は、デカルト研究の歴史において過去最も多く取り上げられた問題の一つであるが、それは簡単に言うと、

神が存在し神が欺瞞者ではない(誠実である)ことは、明証の規則(明晰判明なことはすべて真であるという規則)に従って証明されることであり、また、明証の規則が正しいことは神によって保証されていることである、

という循環である。

デカルトは「循環論法」を犯しているのではないかという指摘は、既にA.アルノーなどデカルトの同時代の学者によって行なわれ、また後世においてはこの指摘をめぐって数多のデカルト研究者が様々な議論が試みたが、しかし我々は研究者たちの煩瑣な議論をいちいちフォローする必要はないと考えている。

どうして循環論法という批判が出てくるのか。それは要するに、哲学を信仰から完全に切り離されたものと看做すからである。即ち、(信仰において感知される)神の超越性を度外視して、「神」と「明証の規則」とを同列に置くからである。そのようにする限り、デカルトを循環論法という非難から救うことは決してできない。弁明や釈明を行なうことしかできない。あるいは、デカルトは循環論法を犯していないことを独断的に前提することしかできない。

「神」と「明証の規則」との間の循環は、実は、以前に取り上げた「神」と「聖書」との間の循環と同種のものである。「明証の規則」の正しさは、(神の存在が証明される第三省察において何度か現われる言葉で言い換えると)「自然の光」による認識の正しさということであるが、「自然の光」とはまさに「神から我々に与えられた認識能力」(『哲学原理』I-30)であり、或る意味で「聖書」に対応するものなのである。

「神」と「明証の規則」との間の循環は、「神」と「聖書」との間の循環と同種のものであり、つまり確かに循環ではあるが、しかし循環論法ではない。

では、循環論法の循環ではない循環とは何なのであろうか。どうしてそのような循環が存在するのであろうか。

 

「デカルトの循環」(c)

デカルトの循環に関する話を先に進める前に、念のため「デカルトと信仰」について確認しておきたい。

以下、2016年9月19日に本ブログに掲載した拙稿から抜粋する。

筆者は前稿「デカルトと死の修練」において、デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立しているとしても、あるいは表面上は信仰に依拠していないように見えるとしても、この哲学は実は神への生ける信仰によって実質的に根拠づけられているのではないか、それは黙せる篤き信仰心によってこそ実現され得ているのではないか、従ってデカルトの秘められた信仰心を感取せずにそれを等閑視するならば、その哲学を本当の意味で理解することはできないのではないか――論語読みの論語知らずの如き「デカルト読みのデカルト知らず」になってしまうのではないか――という旨のことを述べ、そのことを「懐疑」「証明」「観念」「方法」をめぐって示した(・・・)

  拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルデカルト〕」【序】

 

 そしてまたデカルトはれっきとした信仰者であることも確認しておきたい。パスカルデカルト批判は余りにも有名であるが、しかし『ド・サシ氏との対話』におけるパスカルモンテーニュ批判をそのまま信じてはならないのと同じように、パスカルが書き残したデカルトに関する断片的な批判を絶対化してもならない。もちろんデカルトキリスト教の擁護を主眼として哲学したわけではないし、パスカルと同種の信仰を有したわけではない。しかし哲学史が築き上げた “合理主義者デカルト” というイメージ(巨大な虚像)を払拭し、哲学史的偏見を排して虚心坦懐にデカルトの言葉に耳を傾けなければならない。デカルトは例えば、神への信仰が我々に何も教えていない事柄は別として、それ以外のことについては超自然的な光を自然の光よりも優先させなければならない、恩寵の光を理性の光よりも優先させなければならないと言っているのであるが、これを啓示に対する単なるお決まりの敬意表明と受け取ってはならないのである。

そして受肉とか三位一体といった「信仰の真理」以外の真理、即ち自然の光によって認識される真理も、実は信仰の光に照らされていることを察しなければならない。そのことを感じ取らなければならない。確かに理性と信仰とは区別される。しかし区別されるということは切り離されるということではない。理性と信仰とは不可分なのである。デカルトにあっては、信仰は理性の内奥に潜み理性を活動させている。つまり信仰は理性の内に浸透している。そのことは特に「神の観念」によく表れているが、しかし神の観念は例外的なものではない。デカルト的明証は超自然的な光から切り離されるならば貧しく無力なものとなってしまうのである。

  拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルデカルト〕」【5】

それでは、「デカルトの循環」に話を戻すことにしよう。

 

「デカルトの循環」(b)

前の記事で、次のような神と聖書の循環を取り上げた。神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。では、どうして聖書を信じることができるのか。それは聖書は神から授けられたものであるからである。

ここには明らかに循環がある。しかしデカルトが言うには、この循環を循環論法と見るのは信仰のない者である。信仰がある者はこの循環を循環論法とは見ない。

では、それはどうしてなのか。それは信仰とは超越への関わりであるからであり、つまり(超越的な)神と聖書とはいわば次元の異なるものであるからである。逆に言うと、信仰のない者がそうするように上の循環を信仰から独立した純然たる証明と見るならば、即ち神と聖書とを同一平面に並べるならば、上の循環は循環論法であることになるのである。

例えばAという人がBの言うことは正しいと言い、BがAの言うことは正しいと言うという循環は、AとBが同じ人間として同一次元に置かれる限り、悪しき循環(循環論法)なのである。

しかしデカルト省察は循環的ではあるが、それは循環論法を犯しているわけではない。我々が上で指摘した次元の違いということは、デカルトの答弁にも実は示されているのである。

 

「デカルトの循環」(a)

省察』に付された「ソルボンヌ宛書簡」の中で、デカルトは循環論法のよく知られた例を取り上げている。

神の存在を信じなければならないというのは本当である。というのも、神が存在することは聖書において教えられているからである。また逆に、聖書を信じなければならないというのは本当である。というのも、聖書は神から授けられたものであるからである。

ここには明らかに循環がある。しかしこれは循環論法なのであろうか。デカルトが言うには、ここに「論理学者が循環論法と呼ぶ過ち」を見出すのは「信仰を持たない者」である。ということは、デカルト自身も含めて信仰を持つ者は、この循環を循環論法とは看做さないということである。つまり、信仰がなければ分からない、循環論法とは異なる循環が存在するのである。

しかし、研究者たちの中にそのことを洞察した者は果たしているのであろうか。「デカルトの循環」と言われる難問(これについては後述する)は、かつてデカルト研究においてさかんに論じられたものであるが、この難問に取り組んだ数多くの研究者たちの中に、循環論法とは異なる循環を問題にした者は果たしているのであろうか。むしろ殆どの者は、デカルトによる神の存在の証明は信仰から独立した純然たる証明であるという思い込みから自由ではなかったのではないであろうか。つまり殆どの者は、デカルトは神の存在の証明において循環論法という論理的過ちを犯しているのかいないのか、ということだけを専ら問題にしたのではないであろうか。