「肉は悲し」③

♦ この前テレビのチャンネルを回していて「世界の子どもの未来のために」という番組に偶然出会った。カンボジアのスラム(寺院の敷地につくられたあばら家)に住む8歳の少女。父親が亡くなったため毎日、しかも朝5時から1日中働かなければならない。そうしなければ家族が食べていけないのである。危険な蓮沼で蓮の葉と実をバケツに入れ、それを街まで売りに行く仕事はかなり過酷である。しかし大好きだった父親が貧乏故に点滴を受けられずに死んでしまった大きな〈悲しみ〉は、学校にも通えていない8歳の少女に俗心と無縁な純真な夢と希望を抱かせる。

「大人になったら病気になった人たちを治療したい。」

「お医者さんになりたい。」

悲しみは無垢な希望を育む。悲しみは心を浄化するからである。そして清らか希望はそれ自体が清らかな喜びなのであり、そうであるからこそ、それは厳しい現実に耐えることを可能にするのである。

♦ 子供の夢に幼稚さを見ることは容易である。しかし健気な子供を見て大人はむしろ己れの不純さを恥じるべきではないのか。多くの大人が自分の堕落に気づきそれを悲しまない限り、社会問題としての貧困(極度の格差)の根本的な解決はあり得ないであろう。

♦ ところで先日、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」のヴァイオリン譜(ペータース版)を買ってきた。この有名な曲はカンタータBWV147の終曲であり、原題はJesus bleibet meine Freude(イエスは私の喜びであり続ける)である。従って上記の邦訳名は英訳名の"Jesus, Joy of Man's Desiring"に倣ったものであると考えられるが、注目したいのは人の望みの喜びということ、つまり望みが喜びであることである。望みが叶うことが喜びなのではない。そもそも望みを抱くこととは別に望みが叶うことがあるわけではない。望みdesiringそれ自体が喜びjoyなのである。そのような望みが存在するのだ。(デカルトやカントの言う「善なる意志」もそのような望みに相当するであろう。)

♦ そして加えて言うと、この喜びの歌を弾いたり聴いたりしていると何とも言えない悲しさが迫ってくる。別にキリスト教の物語を信者のようにそのまま受け入れていなくても、贖罪主イエスと結びつくことの純粋な喜びと、それと裏腹の関係にある、全人類の贖罪のための十字架刑の悲しさとを、音楽の力によって同時に感じ取ることができるのである。実は悲しさなしには喜びはない。楽園から追放される以前のアダムとエヴァには、労働の苦しさや死の恐怖はなかった。およそ不幸はなかった。従って彼らは悲しさを知らなかった。しかしそれ故に喜びも知らなかったのである。

♦ いつの時代でも多かれ少なかれそうだったのであろうが、今日では宗教はかなり堕落してしまっているのではないであろうか。個人的経験に基づいて言うと、自分の惨めさに気づかない故に悲しむことを知らず、口ばかり達者で(内心では)人を見下しているキリスト教徒は決して少なくないのではないか。

「肉は悲し」②

 

♦ 昨日は昼下がりに「セタガヤクォドリベット第5回演奏会」を聴きに出かけた。立錐の余地もない満席の会場で演奏されたのは、バッハのカンタータ4曲とモテット1曲であった。実は曲目の内容からして途中で退屈するのではないかと心配していたのであるが、どうしてどうして、2時間があっという間に過ぎてしまった。熱のこもった、しかも本格的な演奏に圧倒され続けたからである。

♦ どの曲も感動的だったが、前もって期待していたカンタータ第46番《目を凝らしそして見よ、かつてこれほどの痛みが》の第1曲は案の定すごかった。神の裁きによるSchmerz(痛み・悲しみ)を歌う合唱は聴く者をそれこそ震撼させるものであった。

♦ ところで、話は大きくなるが、このSchmerzぬきにはキリスト教はあり得ないということをここで強調したい。そもそも十字架は極度の苦悩を表すのである。キリスト教は、私に言わせれば、悲しみこそが幸いをもたらすことを教える宗教なのである。宗教のことはよく知らないが、このことに関して今度改めて論じてみたい。

 

  悲しみなさい、嘆きなさい、泣きなさい。

  笑いを嘆きに変え、喜びを悲しみに変えなさい。

  主の前にへりくだりなさい。

  そうすれば、主はあなた方を高めてくださいます。

            (ヤコブ書)

「肉は悲し」①

 

♦悲しみを知る者は決して戦争を起こさない。戦争を起こすのは悲しみを知らない者である。悲しむことができない者は謙虚であることができない者であり、人を尊重することができない者であるからである。ところで、悲しみは必ずしも喜びの反対物ではない。悲しみは必ずしも陰気な感傷ではない。愛の絆である悲しみも存在するのである。

♦元旦の日に柳宗悦の「妹の死」を読んだ。これは日本政府による三一独立運動弾圧を念頭に置いた「朝鮮の友に贈る書」(1920)が書かれた翌年に発表されたものである。柳の妹は6人目の子供を出産後まもなくして30歳を過ぎたばかりで亡くなったのであるが、女中たちなども含めた家族の一人ひとりに優しい別れの言葉を遺しながら死にゆく場面、そしてそこに流れる厳かな時間は、実に印象的である。しかし死に際が美しかったのは、故人が美しく生きた人だったからに他ならない。

「妹は正しき事を愛した人間であった。疚しい事や、歪んだ事や、心暗い行いを非常に嫌った。彼女は汚れていない光の多い真直な道をと選んで歩いた。」

このことに誤りがないと柳は言う。

♦しかしこのような妹を失った彼の悲しみはどのようなものだったのか。

「おお悲しみよ、汝がなかったなら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。・・・ 悲しみこそは愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾れに燃やすものが何処にあろう。悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒やしてくれる。」

♦特に注目すべきは、「死の悲哀」よりも強く「生命への愛」を燃やすものはないという逆説である。この逆説は、人間は自分が悲惨であることを知ることにおいて偉大であるというパスカル弁証法を彷彿させる。

美と超越――花の美しさ

♦ 人間は誰でも必ず過ちを犯す。しかし過ちを犯してその醜さが露呈してしまう人もいれば、たとえ過ちを犯しても決して醜くない人もいる。いや、美しい人さえいる。しかし今の世の中に、できる限り美しく生きることを無意識的にであれ心がけている人は一体どのくらいいるのであろうか・・・。せめて美しい国を創ると宣言している人には、美しい生の模範を身をもって示してもらいたいのであるが、しかし中身のある理念がまったくなく、ただ人を支配したい威張りたいというだけの人間は、美しいどころか非常に醜い。しかしこれからはますます美しい生への志が見失われた時代になってゆくのではないであろうか。そういう懸念を私はどうしても拭い去ることができない。――こうした深刻な思いが、私が美について考える深い動機である。

♦ 25歳で夭逝した詩人ジョン・キーツは親友の詩人に宛てた手紙の中で、「詩は崇高でかつ慎み深く great and unobtrusive なければならない」と述べたあと、続いて花の美しさについて次のように語っている。

   奥まったところに咲く花the retired flowersは何と美しいことか!

   もし花が人通りの多い道に押し掛けて、

   『私を褒めてください、私は菫です! 私を可愛がってください、

   私は桜草です!』と叫んだならば、

   花はどれだけその美しさを失ってしまうことだろう!」

♦ 人はこの件りを、奥ゆかしさを重んじる古典的な(陳腐な)価値観の焼き直しと見るかもしれない。しかしそれは表面的な見方であろう。花は慎みを忘れるとその美しさを失うこと、奥ゆかしさは花の美しさを構成すること、このことは美の超越性を象徴的に表すものであると私は見る。(芸術美に関しても別のアプローチでその超越性を指摘することができるであろう。)このように見ることによって、私はキーツの言う「消極的能力」(後述)という問題にやがて巡り会うことになるのである。

♦ では、美の超越性とは何か。それは美は我々の理解 comprehension を越えているということである。つまり美の分からなさということである。例えば政治理念であれば、それを言葉で規定し尽くすことは不可能ではないと思われる。しかし山道で遭遇する可憐な花々の美しさ、夜道で仰ぎ見る朧月の美しさは、まさに得も言われぬものである。美しさというのは誰しもが何となく分かっているつもりになっているものであるが、しかしいざそれについて考え始めると人は言葉に窮してしまい、美的感覚とか美的感情とかに訴えるしかなくなってしまう。美の超越性とはこうした、美は理解を越えたものであり分からないものであるということである。

♦ しかし実は、この「分からない」ということが大事なことなのである。つまり「分からないということが分かる」ということが大事なことなのである。美(例えば花の美しさ)は、分からないということが分かるという形で分かるものであり、しかもそれ以外の、またそれ以上の、分かり方は存在しないものである。美の超越性とは、改めて言い直すと、こうした<分かりかつ分からない>という両義性である。

♦ ところで、「分からないということが分かる」ということは、意外にもそう易々とできることではない。分からないことを分からないまま受け容れることは案外と難しい。しかし分からないことをそのまま受け容れる能力、即ち「消極的能力」 negative capability――これはキーツが最初に用いた言葉である――を身につけることは、美を深く味わう秘訣であるとともに、美しく生きる秘訣でもあると思われるのである。

ラモーの『プラテ』――「人間・この劇的なるもの」

 

♦ 昨日はフランスバロック・オペラ『プラテ』を観に池袋のBrillia HALLに出かけた。ジョイ・バレエ ストゥーディオの上演を観たのは一昨年の『レ・パラダン』に続いて二度目である。バレエも歌もすべて日頃の修練を感じさせる見事なものであったが、今回は特にオーケストラの充実ぶりに目を見張った。

♦ ところで、フォリーとアムールを熱演された高橋美千子さんが、何日か前にfacebookに、「皆が平等に 幸せになることはないが 皆が幸せであるように 願うことはできる それを第一の目的に 表現者として 自分を晒すことができたら 云々」と書いておられた。彼女は昨日もこの潔い志を確実に実現されていたのであるが、それはそうと、一般的な話として、芸術がもたらす「幸せ」とは一体どのようなものなのであろうか。この問題を少し考えてみるために、昔読んだ福田恆存の『人間・この劇的なるもの』を久しぶりに繙いてみた。

♦ 第一節の終わりにこうある。――

「劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、一個の芸術作品に仕たてあげたいということにほかならぬ。この欲望がなければ、芸術などというものは存在しなかったであろう。役者ばかりではない。人間存在そのものが、すでに二重性をもっているのだ。人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味わうこと、それを欲している。現実の生活とは別の次元に、意識の生活があるのだ。それに関らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ」と。

♦ 人間には現実の生活とは別の次元に意識の生活がある。そうである故に、人間はただ生きるだけではなくて、生きることを「味わう」ことができる。つまり劇的に生きることができるのであり、自分の生涯の全体あるいは一定期間を一個の芸術作品に仕立てることができるのである。世間ずれしていないおぼこのようなところのあるプラテを演じる役者も、エヴァをたぶらかした蛇のように狡猾なジュピテルを演じる役者も、そして更には役者たちだけではなくてオペラを鑑賞する者たちも、(生きることではなくて)生きることを「味わう」こと――例えば(怒ることではなくて)怒ることを「味わう」こと――への欲望を満たすのである。

♦ さて、福田は演戯(これは何かの振りをすることとしての演技と区別される)について次のように言う。「私たちの意識は、平面を横ばいする歴史的現実の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがろうとして、たえずあがいている。そのための行為が演戯である」と。芸術活動とは現実から遊離した夢の中を浮遊することではない。そうではなくて、日常的な現実が意識を自分の方に引き倒そうとすることに抗して、意識がその現実を拒絶しつつその上にすっくと立ち上がることなのである。従って芸術活動は決して現実からの逃避ではない。

♦ 日常の現実とのこうした緊張関係において、我々は(ただ生きるのではなくて)生きることを「味わう」のである。このことには人々が日常的に次々と消費して行く諸々の快楽――例えばおいしいものを味わう快楽――とはまったく異質な歓びがある。この歓びが芸術がもたらす「幸せ」である。

バッハと踊り、そしてメルロ=ポンティのこと

 

♦ 昨日の昼下がりは、「古楽の調べ」という催しに参加するために西国分寺に赴いた。チラシに、「バッハのメヌエットは、どのような踊りだったのでしょう?」とあったからである。取り上げられたのは、バッハのメヌエットそのものというより、バッハにおける舞曲の背景というかルーツ(クープラン、ダングルベール、等々)だったのであるが、Pas de menuet の実演をじかに観ることができたことなど色々収穫があった。

♦ ところで、当代随一のバッハ解釈者とも称されるアンジェラ・ヒューイットが、いつかテレビのインタビューの中で次のように語っていた。――舞曲であるメヌエットやガヴォットやプーレにおいてはもちろんのこと、インヴェンションやプレリュードやフーガにおいても、バッハは踊りのリズムを使っているのであるが、バッハの音楽がこれほど我々の胸に訴えるものであるのは、それが歓喜 great joy を踊りのリズムで表現しているからなのである、と。彼女は<踊り>と<バッハの内なる歓喜>とのコンビネーションを強調しているのである。

♦ 私が思うに、踊りという身体的動作は歓喜を表現するための単なる手段なのではない。むしろ歓喜は踊りという身体的動作と共に身体自身から湧き出るのである。身体の表現性は実に独特である。身体は予め身体とは別のところにある何かを表現するというより、身体はみずからそれが表現するもの(例えば歓喜)に成るという仕方で表現するのであり、つまり身体はいわば自己創造的に何かを表現するのである。そして、身体がそのようなものであるからこそ、踊りや音楽のみならずあらゆる表現活動が可能になるのである。

♦ ところで、フランス哲学は伝統的に身体を問題にしてきた(この点がフランス哲学とドイツ哲学との顕著な違いの一つである)のであるが、「身体」――表現としての身体――を哲学の原理に据えた哲学者はメルロ=ポンティをおいて他にいない。メルロ=ポンティに関しては取り分けフッサールサルトルからの影響が研究者によって取り沙汰されてきた。実際、メルロ=ポンティフッサールサルトルを、批判を交えつつも大いに援用しているのである。しかしフッサールの哲学とサルトルの哲学は、身体についてどれほど豊富に論じていようと、あくまでも「意識」を原理とする哲学である。つまりそれらは「身体」を原理とするメルロ=ポンティの哲学とは根本的に異なるのである。

♦ ついでに言うと、フッサールサルトルデカルトのコギト[=われ思う]を継承していることは、両者自身が率先して述べているところであるが、但しデカルトのコギトはフッサールサルトルが言う意味での「意識」とは異なる。デカルトのコギトは一方で「神の存在」という真実(信)を、そして他方で「心身の実体的合一」という真実(信)を、暗黙裏に前提しそれらと深く繋がっているのである。

『ハノン』と個性の問題

♦ 以前テレビでピアニストの伊藤恵さんが音階練習の『ハノン』について、この教本は「自分はどのような音を出したいのか」、「自分にとって感動する音というのはどのような音なのか」を「探す」のにとても役に立つものではないか、というようなことを話されていた。これはどういうことなのであろうか。――

シューベルトソナタでも何でもよい、何か楽曲を演奏する際に演奏者は一定の感情を抱いている。またその感情を表現するためには曲をどのように組み立てたらよいかを考えている。しかし『ハノン』を弾く場合はそうではない。無味乾燥で機械的な音階を弾くことは感情や思考を必要としない。というより、感情や思考を全部取り払うことを要求するのである。しかし音楽を形成する要素をすっかりそぎ落としたいわば音楽のゼロ地点に立つことは、却って、純粋に音そのものに向き合う絶好の機会であり得るのであり、つまり自分はどのような音を出したいのかを探究する絶好の機会であり得るのである。

♦ 伊藤さんの言葉を私なりに理解すると以上のようになる。ピアニストは『ハノン』を弾くことによって(別に『ハノン』でなくてもよいのであるが)、めいめい、自分にとって感動する音というのはどのような音なのかを探究するのである。これは自分の魂の中に潜在する美的感覚を掘り起こすことであり、それ故にそれは優れた意味での自己探究でもあるのであるが、ピアニストはめいめい孤独の中でこうした探究を行なうことによって、自分独自の音色を創っていき築いていき磨いていくのである。

♦ 個性とはこのようなものである。即ち個性とは何か他人と違う身体的特徴とか能力的特徴とかに関わるものではなくて、探究の努力を通して培っていくものなのである。従って演奏家それそれぞれの個性――即ち独自の美学――は、単なる趣味のような自閉的なものではなくて、普遍性の香りを漂わせている。それは極めて特殊なものでありながら普遍性の雰囲気を醸し出しているのである。例えばホロヴィッツの音色、リヒテルの音色・・・を考えてみればよい。

♦ ところで、私の最大の関心事は、美的次元の個性と倫理的次元の個性との統合ということである。ピアノの音色の美しさという問題は、人格と行為の美しさという問題から切り離されてはならないのである。

政治の問題と魂の問題

 

己れの魂に無頓着な人間が権力を持つと必ず権力に溺れる。このことは政治の世界に限らずどこにでも見られることであろうが、そのような人間にとっては自分の権力(歪んだ自尊心)を守ることだけが重要なのであって、事実などどうでもよいのである。――例えば、自分に都合の悪いことを指摘されると巧みに話をずらす。堂々と嘘をつく。意味不明なことを意味ありげに言って目眩ましを食らわせる。理不尽な言いがかりをつけて相手をやり込める。自分が間違えていたとは絶対に言わない。しかも厄介なことに、大多数の者は権力になびくのである。

己れの権力に酔いしれ己れの魂を気遣うことができない人間は、他人の身になって考えることなど毛頭できない。従ってそのような人間には権力の座から降りてもらわなければならないのであるが、しかし話せば分かるということが基本的にあり得ない以上、目的を果たすためには相手と同じ土俵に上がらなければならない。即ち自分の方も何らか権力を持たなければならない。例えば支持者あるいは支持政党を選挙で勝たせなければならないのである。この場合ソクラテスの言う「魂の世話」は役に立たない。個人がいくら己れの魂を気遣い大切にしても、そのことによって社会を改善することができるわけではないのである。社会正義の実現は魂の問題ではなくて政治の問題である。

どの世界もそうであるが、取り分け政治の世界は「力」があからさまにものを言う世界である。政治の世界は勝ち負けの世界であり、敵か味方かの世界である。議論は論戦でしかない。選挙に臨む場合にも正しいことを生真面目に述べ立てるだけでは意味がない。弁論力によって人々を説得し、多くの支持者を集めなければならないのである。また様々な駆け引きも行なわなければならないであろう。・・・ しかしこうしたことにかまけることは、魂の純粋さという観点から見ると危険なことである。また善政によって仮に社会的不正を是正することができたとしても、そのことによって個々人が幸福になるとは限らないということも指摘しなければならないであろう。

我々が真に誠実であることができるとすれば、それは行動から離れた孤独な反省においてである。私は1968年から70年にかけての大学紛争の顛末を目の当たりにして以来、行動が内省を伴わないならば、社会正義という基本理念からして平板で底の浅いものにとどまるのではないかとずっと見ている。行動と内省を、はっきり区別しつつ結合しなければならない。

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この内省に関連したこととして、次はマグダラのマリアの悔悛について考察したいと考えている。

根本的両義性(13)――アガペーとエロス

このところずっと日本と韓国との関係が大きな問題になっているが、報道に接してつくづく思うことことは、日本政府の韓国政府に対する対応と、アメリカ政府に対する対応とが余りにも違うということである。日本政府は両国政府に対して、できるだけ対等でフェアな交渉を行なおうと努めるのではなくて、いつのまにか植えつけられた――正当な根拠のない――優越感と劣等感に導かれて非常に稚拙な外交を展開しているように見えるのである(もちろん相手側にも問題があるのであろうが)。一般社会にも見られるように、自分の強さと偉さを誇示したがる人間というのは、相手が変わると豹変し極度に卑屈になるのである。要するに不当に差別的なのだ。

こうした優越感と劣等感、即ち不当な差別感情というのは、どうしようもないものなのであろうか。ところで有名な山上の垂訓にはこうある。

「天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5章)

天の父は如何なる差別もしない。その愛――アガペー――は悪人にも善人にも公平に注がれるのである。聖書のこの一節は近代の平等思想の起源であり根拠であると見ることができるが、それを繰り返し味わうことができるならば、病的で偏狭な感情は多少なりとも癒やされるのではないであろうか。

 さて、この無差別的な愛のことであるが、それはあらゆる局面において成り立ち得るものではない。例えば自分の恋人や友人、あるいは自分の家族や祖国は、我々にとって多かれ少なかれ「特別な」存在である。つまり我々は事実上、人あるいは集団を差別しているわけである。差別的な愛――エロス――は我々の生活の中で極めて重要な位置を占めている。但しそれは絶対化されてはならない。

ここで聖書の或る一節を取り上げてみよう。

或る時イエスが話をしていると、一人の女性が声高に言った。

「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

エスのような人から仰がれる者を自分の胎と乳房で産み育てたマリアはなんと幸いな者なのでしょう。そのように女性は叫んだわけであるが、イエスは直ぐさまこう応答する。

「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11章)

エスの母としてのマリアよりも、むしろ神の言葉を聞きそれを守る人こそが真に幸いなのだ。イエスはそう応じたわけである。こうしてイエスは血のつながりを神とのつながりによって相対化するのであるが、このことはエロスはアガペーによって包まれているのでなければならないということを意味する。

ところで、上に引いた箇所の少し前でイエスはこう述べている。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(ルカ8章)

このようにイエスは自分の母とか兄弟を血のつながりから解放して、神とのつながりによって定義し直している。但し、血のつながりを切り捨てているわけではない。それどころか、イエスは神の言葉を聞いて行う人たちを、母とか兄弟という言葉によって定義していると見ることもできるのである。このことは、アガペーはエロス的なものによって定義せざるを得ないことを意味する。

一方で肉的なエロスは霊的なアガペーによって包囲され、また他方で、(宗教家はこのことを決して認めないであろうが)アガペーはエロスに或る意味で依存する。二つの愛はあくまでも別のものであり対立し合うが、双方向的な関係にある。このよう仕方で二つを両立させることが我々の生きるべき道である。

 

解釈と理解

 

♦ 昨日は『亀井由紀子特別公開レッスン』を聴講するために目白のソルフェージスクールまで出かけた。亀井氏はかつてヤッシャ・ハイフェッツの助手を務めたヴァイオリニストであるが、決して偉そうに威張らない方である。楽器を構える姿勢は凜としていて、どこかハイフェッツを彷彿とさせるが、指導の仕方はハイフェッツのように(?)怖くはない。むしろ優しすぎる。また説明する際に歌うその歌声もなかなか美しい。

この日の私のお目当てはプログラムの二番目、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第三番の中のフーガだった。フーガのような対位法音楽をヴァイオリン一丁で演奏することは非常に難しいのである。私は学生の時からアウアー版やイザイ版といった古い版の楽譜(下の写真)を使ってきたが、最近は演奏法の研究の進歩により、バッハの無伴奏は以前よりもずっと近づき易いものになった。とはいえ、技術的困難が軽減されればスムーズに演奏できるようになるというわけではないのである。

昨日の公開レッスンで私が得た収穫は、何よりも重要なのは楽曲の「理解」であることを改めて会得したことである。亀井氏が秀でているのは、まさに理解――これには実は人間の品性が深く関わっている――ということにおいてなのであり、本当の意味でスムーズに弾けるためには、楽曲の全体および細部(全体と細部はもちろん連関している)の理解が何よりも大事なのである。

ところで、音楽の演奏に関してはしばしば「解釈」という言い方が用いられるが、解釈という言葉を使うとどうしても、解釈は自由であるとか、解釈は色々あり得るとかといった話になってくる。しかしそうなると我々は演奏の恣意性を排除することができなくなるのであり、つまり相対主義に陥ることを余儀なくされるのである。私が改めて思ったのは、理解ということが解釈ということの根底に置かれなければならないということである。独創的な解釈とは独創的な理解によって裏打ちされた解釈なのである。

音楽の場合に限らず、理解というのは単に学問や知識の問題ではない。理解の正しさと深さは、実は各人の生き方そのものに根ざすものなのである。

大竹まこと著『俺たちはどう生きるか』――強者にはならないという生き方

本書は著者が古希を迎えて上梓した小さな自伝とも言えるものであるが、ひとことで言うと、著者の「優しさ」の秘密をそこから読み解くことができる本である。

♦♦ 大竹氏は二〇歳から二年半、風間杜夫氏と一緒に住んでいたのであるが、ある日二人は麻雀で負けてスッテンテンにされ、朝の八時頃アパートがある祐天寺の駅を降りたところ、駅に向かう通勤客たちと出会い、それら仕事に行く人たちとは反対方向にボロアパートへ帰って行くことになった。そして二人は次のように言葉を交わす。

「毎日がこんなんだなあ。俺たち、どうするんだろ」・・・ ・・・ 

「いいんだヨ、これで、大竹」

いいんだヨ、これで。――このような生き方の選択ができたのは、時代のせいもあるかもしれないが、決してそれだけではないであろう。

氏は進学校の高校に通ったが、大学には行かなかった。行かなかったのか、それとも行けなかったのか。いずれにしても、少なくとも心の奥底では大学に行かないことが選択されていたのではないか。そもそも高校時代に勉強していなかったのであり、しかもわざわざ難しい一校しか受験しなかった。おまけに予備校の授業料も使い込んでしまった。ライフプランに従って抜け目なく世の中に適応するという生き方はしないし、できないのである。しかし賢しらな生き方をしないこのような人間こそが、生きることと死ぬことに対して豊かな感受性を有することができるのであり、そして己としっかり向き合うことができるのである。

著者は57歳を過ぎてから始めたラジオの帯番組(月~金)を十二年以上も続けてきた。しかし今になってもなお己の所在がつかめないと言う。とすると、「街のチンピラ」として職を転々とするだけで、何をしたくて生まれてきたのか分からなかった二十代くらいまでの時と基本的に変わっていないのである。私はラジオ以外のところでの大竹氏の活躍は知らないが、氏は著名な芸人として押しも押されもせぬ存在であるはずである。しかしそれにも拘わらず、高校を出てすぐに社会に飛び込んでしまった自分には若者に送る言葉はないと言い切る。これは決して謙遜や気取りではない。立派な言葉を語って聞かせるような“ひとかど”の人物にはならないという、(密かに)選択された生き方がそう言わせるのである。

ところで、人生というものが面白いのは、それがいわば弁証法的であることである。「あの時、負けて良かった」(第二章)という件りや、「弱者は弱者のまま終わらない」(第四章)という件りは実に印象的である。但し弱者は弱者のまま終わらないということは、弱者は弱者であることをやめて強者になるということではない。大竹氏は強者なのではなくて、弱者のまま終わらない弱者なのであり、あくまでも弱者なのである。但し単なる弱者ではない。弱者のまま終わらない弱者である。このような人間こそが弱者の気持ちが分かるのであり、真の「優しさ」を身につけているのである。

 

根本的両義性(12)――音楽と狂気

♦ 昨夜は「Folia スペイン、ポルトガル15世紀から伝わる情熱と狂喜の音楽」と題された演奏会に出かけた。プログラムの最後の方、コレッリのヴァイオリン・ソナタ「ラ・フォリア」の前あたりで男性のフラメンコ・ダンサーがサプライズ的に登場し会場は大いに盛り上がったが、数々の奥ゆかしくもの悲しい楽曲の演奏も素晴らしかった。

♦ さて、フォリアとはイベリア半島に起源を持つ舞曲のことだそうだが、演奏会を聴きながら思ったのは、フォリア=狂気は特定の音楽に限らずどの音楽にも本質的なものなのではないかということ、そして演奏家の才能というのはまさに「狂気する才能」なのではないかということである。狂気を感じさせない演奏はつまらないのである。しかし私がここで言う狂気とは如何なる狂気なのか・・・ 

♦ G.チェスタトンが言うには、狂人とは理性を失ってしまった人ではない。狂人とは理性を除く一切を失ってしまった人である。つまり狂人とは感情や感覚といったもの一切を失ってしまい、理屈や論理しか無くなってしまった人なのである。因みにチェスタトンは詩と理性を次のように対比している。「詩は正気である。というのも詩は無限に広がる大海原を楽々と浮遊するからである。ところが理性は、この無限の海を渡り切って無限を有限にしようとする。結果、精神は疲労困憊してしまうのである。」

♦ しかし私が言う狂気はもちろんチェスタトンが言うのとは別の狂気である。それは感情を排する狂気ではなくて、逆に感情を生み出す狂気である。それは不毛な狂気ではなくて豊穣な狂気である。プログラムの2曲目、ルバイリ「フォリーのパッサカイユ」の歌詞には、「私は狂気、私だけが唯一、皆に喜びも優しさも快楽ももたらすことができるのです」とあるが、この言葉にかこつけて言うと、私の言う狂気は我々が通常経験するのとは異なる感情をもたらす狂気であり、つまりは音楽を生み出す狂気である。

♦ しかし音楽を生み出す狂気である以上、それは論理性と無縁ではあり得ない。私は先に「狂気する才能」という言い方をしたが、演奏家は(あの高橋美千子さんにしても)実際に発狂するわけではない。しかしまた狂気を装うのでもない。演奏家は狂気を「表現する」のであり、そうである以上、演奏家は必然的に何らかの論理性に依拠するのである。

演奏家の狂気する才能とは狂気を表現する才能であり、即ち「狂気と論理」あるいは「感情と論理」を即興的かつ創造的に媒介し噛み合わせる才能である。円運動においては下降運動は上昇運動を引き起こし、上昇運動は下降運動を引き起こすが、優れた演奏においては、狂気と論理あるいは感情と論理は、そうした上昇運動と下降運動のように互いに引き起こし合うのである。

根本的両義性(11)――bodyとnobody 池田晶子をめぐって


禅宗に「父母未生(ぶもみしょう)以前」という言葉がある。私は小学校の何年生頃からだったか、時々不意に、「自分はどこから来たのか」という茫漠とした問いに襲われたのであるが、この問いにおける「自分」とは父母未生以前の自分(自分の父母が生まれる以前の自分)のことである。もちろん、さすがに子供の頃ははっきりとそのように認識できたわけではないが。
ところで、池田晶子は次のような話をしている。――我々は普通自分というものを名前とか肉体と同一視している。つまり自分とは誰それ(例えば池田晶子)であるとか、この肉体であるとか「と思っている」。しかし、では、「そう思っている自分」とは何なのか。それは誰なのか。自分は池田晶子である「と思っている自分」、それは池田晶子ではない。自分は誰それである「と思っている自分」、それは誰それではない。それは誰でもない。私というのはnobody(誰でもないもの)なのである。私は誰かなどということは絶対に分からない。しかし分からないそれが私であり自分なのである。
池田は父母未生以前の自分を問題にしているのであり、それがnobodyであることを強調しているのである。そのように言えるが、池田は続いてこう語る。――その分からない誰でもない自分が、しかしここで某(なにがし)をやっているのは、何故なのか。誰でもない自分が、某としてこの肉体をやっているこのおかしさ、これは何なのか。(『人生のほんとう』)
誰でもないnobodyである自分が例えば池田晶子としてその肉体をやっていること、これは偶然であり、また必然なのであるが、こうしたことに気づくと、名前や肉体と同一視される自分(通常の意味での自分)を相対化して見ることができるようになる。そうなると、生身が被る苦しみを消すことはできないとしても、苦しみの感情を味わう余裕さえ生まれるのである。nobodyという原点から人生を相対化して、「たかが人生ではないかと覚悟を決める」ことは、難しいことではあるが極めて大事なことである。それは人生を放棄することとは違う。それは世俗的な欲望の虜にならないための条件であり、真に幸福な生へとみずからを導くための条件なのである。
しかし池田自身指摘しているように、人生を生きるということは某の人生を生きることであって、誰でもない者として人生を生きることはできない。生きることはbodyとして生きることである。(因みにbodyは「人」と訳すこともできる言葉である。)私はnobodyであると言うことができるのは、あくまでも哲学的・宗教的に「観ずる」限りにおいてであって、実際に「行ずる」最中においては、我々は具体的な人間関係に巻き込まれる故に、自分だけではなくて人は皆bodyであることになるのである。nobodyによってbodyを相対化することは不可能である。
我々はbodyとnobodyとの間を往還するのでなければならないのだ。即ち行ずることと観ずることとの間を往復するのでなければならないのだ。池田は書物の執筆においては専ら観照(テオリア)に耽っているが、しかし池田が一般の哲学研究者と全然違うのは、つまりその言葉が信用できるのは、人間関係のトラブルや病気などの自身の経験を文字通り糧にして思索しているからである。デカルトは書斎の中で思弁(単なる理論)に勤しむ学者をひどく軽蔑したが、もちろん池田晶子もそうなのである。

フランクル『夜と霧』――「人生の意味」という問題

♦ 生きる意味があるということは、生きることに何か目的があることである。まずはそう考えることができる。例えばオリンピックでメダルという名誉を獲得することを目的に毎日練習に励んでいる選手は、練習の辛さや本番に関する不安が常にあるとしても、大きな目的がある限り、意味のある充実した人生を送っていると想像することができる。

♦ 対照的なのはナチス強制収容所に入れられた者である。被収容者は迫り来る死に怯えるだけで、将来に明確な目的を設定することなどできないのである。ただフランクルは、或る日現場監督が彼自身の朝食から取りおいておいた小さなパンを自分にそっとくれて、涙が止まらなかったという話をしている。この種のことがあるお陰で被収容者たちは何とか絶望し切ることを免れたのであろう。風前の灯火のようなものであるとしても、彼らはぎりぎり最低限の生きる意味を感じることができていたのかもしれない。一方、カポーと言われる、仲間のユダヤ人を裏切ってさえ自分だけ生き延びようとする者もいたが、その者にとっても収容所を抜け出すという目的を必ず実現することができるという保証はない。目的の実現はほとんど運次第である。

♦ ところで、その意味が偶然によって左右される人生――即ち運よく成功すれば意味を持つが、そうでなければ意味を持たない人生――は、そもそも生きるに値しない人生ではないであろうか。そう考えるフランクルは、「生きる意味という素朴な問題」からきっぱりと離れる。彼は生きる意味よりもむしろ死ぬ意味や苦しむ意味を問題にするのであり、また次のような転換を行なうのである。即ち彼は、

  (a)自分が人生から何を期待するのかを問題にするのではなくて、(b)逆に人生が自分から何を期待するのかを問題にするのであり、

言い換えると、

  (c)人生の意味について尋ねることを止めて、(d)その代わりに自分自身を人生によって尋問される者と看做すのである。

♦ (b)(d)は人生(Leben生)が主語になっているが、それぞれ、何か「自分を越えた」ところからの自分への期待であり尋問である。我々は例えば、自分に運命的に与えられた苦しみを自分の苦しみとして苦しみそれに耐えることを己れの責務としなければならないのであり、そうすることで己れの真価を発揮するのでなければならないのだ。――対して、人生から何かを期待することや、人生の意味について尋ねることには、成功という「自己中心的」な欲求が透けて見える。

♦ (a)→(b)、(c)→(d)という転換は我々にとっても必要である。この転換がなければ、我々の生が美しくなる可能性はないであろう。但し、強制収容所という過酷な状況に置かれているのでないのであれば、成功という価値を頭ごなしに否定することは戒めなければならない。必要なことは、件の転換を行なった上でみずからの生を改めて見つめ直すことである。そうすることで、「生きる意味」という問題は以前とは別のかたちで甦るであろう。

言葉のリズムと言葉の力


♦ 昨日の午後はオルフ祝祭合唱団演奏会を聴きに中野ゼロに赴き、生演奏ならではの醍醐味を味わった。曲目はオルフの「カトゥーリ・カルミナ」と、ストラヴィンスキーの「結婚」。プログラムによれば、二つとも独唱・混声合唱・4台のピアノ・打楽器アンサンブルという独特の編成で演奏される曲であり、またどちらもバレエを伴って上演されることを前提に作られた曲であるとのこと。


♦ ただ今回はバレエを伴わずに演奏された。が、しかしバレエの不在は不在とは感じられなかった。というのも、どちらの曲にあっても、音楽自体が実に“バレエ的”であり(当然のことかもしれないが)、そしてそうした音楽が、言葉――ラテン語およびロシア語の歌詞――とまさに一体になっているからであり、更にいえば、音楽のリズムと拍子が言葉を真に生き物たらしめ、言葉そのものの潜在的な力を引き出しているように感じられたからである。


♦ 歌詞はそれがただ読まれるだけであるならば、他愛のない言葉、陳腐な内容と受け取られかねない。我々はまず言葉の意味するところに注意を向ける習慣を捨てて、言葉そのものに集中しなければならない。そのようにすると、歌詞は音楽の拍子とリズムによって真正の「詩」になるのだ。ということは、生命の根源から離れてしまっている我々の普段の生活が、生命の根源に回帰するということである。例えば同じ音型やリズムの執拗な反復にしても、生命の根源と合致しようとする執拗な努力を表しているのである。