知性と品格

♦ 今年の夏私は、或る学会の会員の方々に向かって、せめてこの学会だけは「知性と品格」を感じさせる学会であってほしいということを述べたのであるが、この知性と品格というのは実は互いに切り離すことのできないものである。つまり、知性はあるが品格はないということはあり得ないのである。

♦ 品格とは生き方の美しさであるとひとまず言っておこう。では、知性とは何なのか。知性があるとは、才気煥発であるとか博覧強記であるとかといったことではまったくない。知性とは疑う能力である。即ち、自分が(いつのまにか)正しいと信じていることが本当に正しいのかどうかを吟味する能力である。自分の意見の正しさを敢えて疑い吟味する余裕(謙虚さ)を持たないことこそは、思考の停止であり知性の欠落である。

♦ 但し、自己懐疑・自己吟味は信じることをやめることではない。逆である。例えばデカルトは、自分は疑うために疑うのではなくて、確信を得るために疑うのであると語っているが、疑うことによって信念は新たにされるのであり、洗練した深みのある信念、寛容な信念へと成長するのである。ということはつまり、知性はそのまま品格につながるということである。

♦ 確信のある人は美しい。信念のある人には品格がある。但しこの場合の信念は自己吟味を容れる本物の信念である。

音楽的表現について

♦ 先日、バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」の楽譜を購入した。第4番(BWV 1017)の第1楽章シチリアーノを弾きたくなったからである。この曲は元はマタイ受難曲の中のアリア「憐れみ給え、わが神よ」なのであろうか。ともあれ、この曲において表現されている深い悲しみは、人間の感情の一つというより、まさに我々の生vieの最深の深みであるように思われる。では、この深い悲しみはどのように表現されているのであろうか。一般に、音楽的表現とは如何なるものなのであろうか。

♦ 音楽が流れるという言い方がある。一つの音は次の音に取って代わられ、そして次の音はその次の音に取って代わられ・・・というようにして、様々な音が次から次に流れ去ってゆく。これは月日が流れるのと似ている。但し、音楽はただ単に流れるのではない。音楽は流れつつ流れないのである。これはどういうことであろうか。

♦ 音楽を演奏している時、あるいるは身を入れて音楽を聴いている時、曲の中の一つ一つの音は孤立した音ではない。それは直前の音を受け継ぎつつ(保ちつつ)、同時に直後の音を予想(先取り)するのである。そしてこのことはすべての音について言えることであるので、継起する個々の音には、直前と直後の音だけではなくて、他のすべての音が秘かに侵入しているのである。様々「異なる」音が入れ替わり立ち替わり現れても、奏でられているのは常に「同一の」曲であり続ける所以がここにある。

♦ 曲は移りゆきつつ移りゆかない。継起するすべての音は或る意味で同時的である。というわけで、音楽は流れつつ流れないのである。ところで、音楽において表現されるもの――例えば件の深い悲しみ――とは、「流れないもの」である。但し、流れないものは流れから独立したものではない。それは流れと不可分である。つまり音楽の表現性・表現力は、演奏者が時間の只中で「流れ」をどのように作ってゆくかによって決まるのである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その12 「考える葦」(下)

デカルトは自叙伝『方法序説』の中で学生時代のことを振り返りつつ、「私は多くのことを知れば知るほど、ますます自分は何も知らないということを思い知った」というようなことを語っているが、デカルトは決して知識におぼれるような人間ではなかった。彼は若い時から、「知る」ということはどういうことなのかという強烈な問題意識を抱いていたのである。

♦ しかしデカルト研究の長い歴史の中で、デカルトにおける知の問題はごく表面的にしか捉えられてこなかったと言わざるを得ない。一般に研究者には、みずから根本的なところから考えるというまさに哲学(者)的な姿勢が欠如しているのである。人々は例えばデカルト的懐疑について、それは方法的懐疑であると頭から信じ込み、デカルト的懐疑に関する伝統的理解についてデカルト的に疑ってみるということを決してしないのである。

♦ ところで、デカルトは第三省察のはじめのところで、我々が明晰判明に認識すること(例えば2+3=5ということ)でさえ疑うことができる(どうしてかはここでは省略する)という主張と、我々が明晰判明に認識することは真であるという主張とを、つまり互いに否定し合う二つの主張を、順次行なっているのであるが、面倒な議論をいっさい抜きにして言うと、是非指摘しなければならないことは、「可能な懐疑を取り払うことができるならば我々は確実な知を獲得することができる」という素朴な考え方を、デカルト解釈に持ち込んではならないということである。

♦ 普通我々は、疑いの可能性は我々を半信半疑に陥らせるだけであると考えている。しかしそのようなことが言えるのは、知の対象が超越性(神秘性)を持たない場合である。つまり、何が言いたいのかというと、疑いの可能性は知を〈超越的なものへの信〉たらしめることができるのである。疑うことができるということは知の有限性を、つまり人間の「弱さ」を意味するが、しかし疑いの可能性は、翻って考えると、神とか美といったいわゆる形而上学的なものだけではなくて、2+3=5ということをも、超越的(神秘的)なものにすることができるのである。

♦ このように、人間の本質的な弱さは逆説的にも人間に崇高さ、ディニテdignité――尊厳(品格)――を与える。一般にデカルトパスカルは対照的なイメージで見られているが、前の記事で示した「考える葦」における「弱さと尊さの弁証法」は、実はデカルトにも存するのである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その11 「考える葦」(中)

パスカルは「考える葦」に関する断章の中で次のように語っている。

(a) 〔自然の中で最も弱い葦に過ぎない〕人間を押しつぶすのに、宇宙全体が武装する必要はない。蒸気や一滴の水だけでも、人間を殺すのに十分である。

(b) しかし宇宙が人間を殺すとしても、人間は人間を殺すものよりも尊い noble であろう。なぜなら〔考える葦である〕人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優勢であることを『知っている』からである。宇宙はそうしたことについて何も知らない。

♦ しかし、自分が死ぬことを知っていることが、どうして人間が尊いものであることの理由になるのであろうか。我々は子供の時から、親や教師に教えられて、あるいは書物やメディアを通じて、あるいは身近な人も含めた多くの人の死に接することで、人間は誰でも死ぬものであり、従って自分もいずれは死ぬということを「知っている」。しかしパスカルの言う「知っている」はそのような知ではないであろう。というのも、そのような知(言葉の上の理解)が、人間が noble なもの――尊いもの、高邁なるもの――であることの理由であるとは到底思えないからである。

♦ そこで、自分が死ぬことを知っているという知を、自分の弱さを感受し認めること(前回9/5の記事を参照)として捉えてみよう。そうすると或る弁証法が発動するのである。――どうして人間は自身の弱さを感受し認めることができるのか。それは自分自身の中に何か〈弱さを越えたもの〉があるからであり、それを基準にして自身を見るからである。どうして人間は自分の惨めさを鋭敏にかつ確乎として感じ取ることができるのか。それは自分自身の中に何か偉大なものがあることを鋭敏にかつ確乎として感じ取るからである。惨めさは偉大さの証しなのだ。卑小な人間は自分の惨めさを感受し認めることができない。

♦ 人間とは死すべき mortel ものである。しかしそれ故にこそ〈死を越えたもの〉でもある。人間とはこの矛盾である。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その10 「考える葦」(上)

♦ 「考える葦」はパスカルの言葉として余りにも有名であるが、しかしその内実は必ずしも知られていないように思われる。そもそも、パスカルは単に「人間は考える葦である」と言っているのではない。「人間は〔自然の中で最も弱い〕葦に過ぎない。しかし考える葦である」と書いているのである。そして指摘しなければならないことは、(a)葦に過ぎないことと、(b)考える葦であることとは相反することであり、しかも(a)は(b)によって乗り越えられてしまうのではないということである。結論から言ってしまうと、(a)「〔自然の中で最も弱い〕葦に過ぎない」ことが、(b)「考える葦である」ことの条件なのである。つまり、弱いものであるからこそ考えることができるのである。では、この場合の弱さとは何なのであろうか。

パスカルが自然の中で最も弱いと形容する葦、この葦は田辺保氏によると、マタイ福音書12章(イザヤ書42章)における「彼は傷ついた葦を折らず」に由来する。このことをも踏まえて、私は問題の弱さfaiblesseを、傷つきやすさvulnérablitéという意味での弱さと解したいと思う。どうしてかと言うと、傷つきやすさは或る種の感受性を含意するからである。いくら人間は弱いものであると言っても、その弱さを人間自身が感受し認めなければ意味がないのである。

♦ ところで、現代の深刻なしかも根本的な問題は、傷つきやすさという感受性を失っている人たちが昔よりも顕著に見られることである。これは政治家だけの問題ではない。「子どもの悪態にさえ傷ついてしまう 頼りない生牡蠣のような感受性」(茨木のり子)を持たない人間の醜悪さ(横柄・厚顔無恥・狡猾・権力欲・暴力・・・)は至る所に見られる。

「初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人とも思わなくなったとき 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました」(「汲む―Y・Yに―」)

♦ しかし、人間は傷つきやすいということに留まるものではない。(続く)

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(4)

♦ 一昨日の27日はソプラノの高橋美千子さん主催のコンサートに出かけた。演奏の素晴らしさをここで具体的に語ることはできないが、ともあれ、この演奏会は私にとってとても有益であった。「歌詞=詩それ自体の音楽性」そして「音楽に本質的な沈黙」について、改めて考えるきっかけを与えてくれたからである。

♦ 「私が『花 une fleur!』と言う。そうすると、どんな花束にも無い花が音楽的に musicalement 立ちのぼるのである。」――詩人マラルメはそのようなことを語っていた。

通常の言葉の使用においては、どんな花束にも無い花が音楽的に立ちのぼるというようなことは起こらない。通常は、「花」という言葉は現実の花を指し示す。あるいは花の概念を意味するが、この概念は現実の花に帰着すべきものである。つまり、通常の言葉の意味作用には創造性が欠けているのである。そしてこれは、音楽性が欠けているということである。

♦ ところが、詩の言葉としての「花」という言葉は、現実の花を意味するのではなくて、現実の花とは異なる花――マラルメは花の甘美なる観念そのものという言い方をしている――を湧出させるのである。詩の言葉の意味作用は創造的であり音楽的である。詩の言葉は通常の言葉のように語るのではない。詩の言葉は語らない。それはいわば語らないという仕方で語るのである。それは沈黙せる言葉la parole silencieuseである。

♦ 詩の言葉は黙せる言葉であり、そして実は音楽も同じなのである。そもそも、詩も音楽も沈黙が発する声、即ち沈黙の声 les voix du silence に耳を傾けることから生まれるのである。

因みに、ピレシュは若者たちに送るメッセージとして次のように色紙に書いていた。

Listen to your heart, listen to your soul.

Remember what music and Art does to you …

Pay attention to silence and Nature …

Don’t let you influenced by others on this matter、

Be honest and let things happen the way they come ・・・

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その9  ~伊集院静氏の言葉~

♦ 「孤独を学べ。孤独を知ることは、他人を知ることだ。」――私と同世代の伊集院静氏の本を或る偶然がきっかけではじめて開いたのであるが、この言葉は私の心に強く響いた。氏は次のように語っている。「大人になるために何からはじめるか。私はこう思う。自分は何のために生まれてきたか。自分はどんな人になりたいか。それを考えることだ。考えること、その答えを探すことには不可欠なものがひとつある。それは一人で考え、一人で歩き、一人で悩むことだ。孤独を学べ。孤独を知ることは、他人を知ることだ。」(『贈る言葉』)

♦ 私は青年デカルトのことを思う。デカルトは当時としては最高水準の学問が教えられていたエリート校に入学し、そこでありとあらゆる学問を学んだ。いずれ教師として学校に留まることを約束されてもおかしくないほど、デカルトは抜群に勉強ができた。しかし学業を終えるや、彼は学校の勉強というものを完全に棄てたのである。そして「世間という大きな書物」を読むために、旅に出る決心をした。青年デカルトは宮廷や軍隊を見たり、様々な身分、様々な気質の人と交わったりして、そのことから学校の勉強からは得られない真理を見出した。学者が書斎で行なう推論は所詮虚栄心を満たすためのものに過ぎないのである。

♦ しかしデカルトは「世間という書物の中で」研究しただけではない。同時に「私自身の中で」も研究したのである。これら二つのこと、つまり世間という書物の中で研究することと、自分自身の中で(即ち孤独の中で)研究することとは、実は密接に結びついている。前者なしには後者はなく、後者なしには前者はないのである。私はかつて、「デカルト/生の循環性」という論文(本ブログ2017/10/27に掲載)でそのことを詳細に論じた。

♦ 高邁な人とは孤高の人である。但し5月20日の投稿で示したように、最も高邁な者は最も謙虚な者である。高邁な人は自分だって他の人が犯した過ちを犯し得ること、また他の人も自分と同じように意志を善く用いることができることを、十分に心得ているのである。孤高の人こそ、自分を他人より優位に置いたりしない。つまり本当の意味で他人をよく理解しているのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(3)

今回は体(body)に関するピレシュ言葉を取り上げることにする。メルロ=ポンティは『眼と精神』の中で、「画家は自分の体を世界に貸し与えることによって世界を絵に変えるのである」というヴァレリーの言葉を引いているが、ではピアニストはどうなのであろうか。

なお、字幕の翻訳では話を正確に捉えることは無理なので、今回は元の言葉に即した訳を試みることにする。

♦ ピレシュいわく。――今日ではピアノは大ホールで大きく響くように作られています。つまりピアノという楽器は独りでに(by themselves)音を出すように作られているのです。近頃私はピアノを弾くのが以前よりずっと難しく感じるようになったのですが、それは年を取ってキャパシティが低下したせいだけではなくて、ピアノが奏者に依存しない楽器になってしまったことにその原因があります。かつては、誰もが自分で響きや色彩を創出するのでなければなりませんでした。歌いながら音を生み出し音を伝えるには、どのように自分の体を使ったら良いのかを学ぶ(learn how to use your body)のでなければならなかったのです。

♦ ピレシュはまた次のようにも語っている。――音は天からやって来るものではないし、頭脳からやって来るものでもありません。音は自分の体から(from your body)やって来るのです。従って、私たちの体はそれぞれ違っているので、私たちの音はそれぞれ違うのです。私たちは楽器で音を生み出すのではありません。そうではなくて、歌手と同じように自分の体で(with our body)音を生み出すのです。とはいえ、内部に楽器を持つ歌手とは異なり私たちは外部に楽器を持つので、楽器とコミュニケーションすることによって自分自身の音が楽器を通して存在するようにすることを学ぶのでなければならないのです。

♦ さて、以上のようにピレシュは、音は自分の体からやってくるのであり、ピアニストは歌手のように自分の体で音を生み出すのであると語っているわけであるが、これは自分の体が楽器になり、楽器が自分の体になるということである。とすれば、「ピアニストは自分の体を楽器に(そして世界に)貸し与えることによって、世界を音楽に変えるのである」と言うことができるであろう。(続く)

(追記)

顔の表情やバレエやダンスのことを考えると最も分かり易いのであるが、身体というのは表現体(何かを表現するもの)であり、しかも、それによって他のものが表現体となり得る基本的な表現体である。つまり、自分の体で何かを表現することのできない人は、音楽を演奏したり美術作品を制作したりすることができないと考えられるのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(2)

今回は自由と制限をめぐるピレシュの言葉を取り上げることにする。

♦ (ピレシュいわく)「完全な自由か完全な秩序(completely free or completely strict)。どちらかの選択ではない。一定の秩序を保ちながら自由にしていいの。楽譜に書かれた制限を理解していれば、その中で常に自由でいられる。人生もそうよね。節度を守れば好きにしていいの。楽譜という制限を受け入れ、作曲家に敬意を払い、作曲家が求めているものを守れば、あとは自由。なんでもできる。」

 【コメント】これは実際に若者を指導する中でのピレシュの発言であるが、字幕の翻訳からその意味するところを正確に読み取ることができるかどうかは大いに疑問である。ピレシュは何を言っているのか。

♦ 演奏者はきちんと楽譜通りに弾くべきなのか、それとも自分の思いのままに弾くべきなのか。strict(厳格)であるべきなのか、それともfree(自由)であるべきなのか。――ピレシュが言うには、全面的にfreeであるか、全面的にstrictであるか、どちらを選ぶかが問題なのではない。「制限=楽譜を正確に知る(know exactly)」ならば、自由に演奏することができるのである。   

♦ これは逆に言うと、制限=楽譜を正確に知るのでなければ、自由に演奏することはできないということである。strictであることは自由を犠牲にすることなのではない。それはむしろfreeであることの条件なのである。一般に、自由であることは制限が課せられないことであると考えられているが、しかし良く考えてみよう。制限がなければ自由は空転してしまうのである。制限があるからこそ、自由は内容を持つことができるのであり、内容を深めることができるのである。

♦ ところで、そもそも制限を守るとはどういうことなのであろうか。それは単に、楽譜を勝手に書き換えたりしないということなのではない。では、どういうことなのか。ピレシュは「制限=楽譜を受け入れ、作曲家に尊敬の念を抱く(respect)ならば」という言い方をしている。制限=楽譜を遵守することは、実は作曲家との人格的・内面的な交わりなのである。ということは、制限を守ることは、それ自体、自由が深い内容を持つことなのである。         

♦ 創造的な演奏においては、このように自由と制限とが合一する。そして、自由と制限とのこうした合一こそが、本来の意味でのフォルム、即ち生けるフォルムなのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(1)

 ♦ ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(1944生)が、6月10日のNHKの番組に登場した。1970年代にモーツァルトのレコードを聴いて以来ピレシュ(昔はピリスと呼んでいた)のことは一応知っていたが、彼女は特に気になるピアニストではなかった。ところが、今回の放送を視聴して、認識をまったく新たにしたのである。

♦ ピアノの演奏と音楽に関する話。前者は後者の理解を助け、後者は前者の理解を助けるものであった。そして分かったのは、彼女にあっては「音楽する」ことがそのまま「哲学する」ことになっているということである。真の音楽家は必然的に哲学者になるのである。

♦ そこで、彼女の言葉の幾つかを、それらに簡単なコメントを加えつつ紹介することにしたい。なお、テレビの字幕は読みやすさを最優先にした訳であって、元の言葉を忠実に再現するものではないが、ここでは字幕に従うことにする。

♦ (ピレシュ)「今は音楽ビジネスやコンクールばかりが注目されます。芸術の存在余地がない、表面的なものばかりです。若者たちはそこから逃れられないと思い込んでいます。でも、そんなことはない。彼らは自らの本質(their own nature)をとことん探るべきなのです。芸術や創造の源、つまり音楽の根源を探求せねばならないのです。」

 

【コメント】商業主義の世界においては、多くの人に受けるものしか求められない。また競争主義の世界では点数化し得るものしか問題になり得ない。そこで若者たちも、世間の尺度や評価者の基準に良く合致する演奏をしようとする。しかしこのような演奏は、たとえ表面的には面白く個性的なものであろうと、創造的な演奏ではあり得ない。他人の眼の奴隷になり、自分を飾ることしか考えず、自分自身の魂に問いかけることのない演奏が、創造的な演奏であるわけがないのである。というのも、創造の源、即ち音楽や芸術の源(source)は、他ならぬ自分自身の自然本性(nature)であるからである。

ピレシュは、自分を見失ってしまっている若者たちを何とか覚醒させようとしているのである。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その8

♦ いつでも好きな時に透明人間になることのできる魔法の指輪を使って、一介の羊飼い(ギュゲス)がついに王にまで上り詰めるという「ギュゲスの魔法の指輪」の話は、プラトンの『国家』篇に出てくるのであるが、人目を逃れ懲罰を免れさえすれば何をしてもよいのだという思いは、もしかして太古の昔から少なからぬ人間の本心なのであろうか。そうであると軽々しく断定することはできないが、しかしそれはともあれ、今の日本国政府では、悪事が暴かれ嘘がばれても平気の平左である、ギュゲスの上手を行く恥知らずが権力をほしいままにしているということは確かであろう。

♦ 恥を知らないということは神を畏れないということであり、神を畏れないということは倫理を無意味なものとしか感じないということである。前回の投稿(6/1)で「神は死んだ」という言葉に触れたが、神というのは倫理や価値の超越的な要石なのであって、神が死んでしまえば倫理は死んでしまう。即ち倫理は近代法と同じく単なる人間どうしの取り決めであることになってしまい、人の生き方の根本に関わるもの(魂の問題)ではなくなってしまうのである。(因みに、私はかつて大学で研究倫理委員会の委員を務めたことがあるが、この委員会では何と研究倫理は個人情報の保護等の問題でしかなかった。大学においても倫理はとうに死んでいるのである。)

♦ とはいえ、神を殺さなければそれでよいというわけではない。無自覚的で無批判的な信仰は必ず党派的な信仰になり、権力闘争と結びついて必ず戦争を引き起こす。実際、宗教は歴史上大きな戦争を何度も巻き起こしたのである。日本人は気安く無神論という言葉を使うが、無神論とは本来、神との壮絶な闘いであり、覚悟を要する賭けである。が、無神論のことはともかくとして、科学万能主義にかぶれた人間による浅薄な宗教批判とは異なる、まっとうな宗教批判が為されなければならない。(人は実は神を欲しがっているのであり、神と対立する民主主義という理念も、かつての天皇のように神格化され盲信される恐れがある。)

♦ というわけで、信仰と宗教批判とを何とか両立させなければならない。超越と超越批判、別の言葉を使うと他律と自律は、如何にして両立させることができるのか。――私はこのような問題意識の下にデカルトの「高邁」を考えているのであるが、ここで一つ指摘したいことは、デカルト形而上学における「神の観念」は、〈私〉の内にあるものでありながら、同時に〈私〉を無限に超え出るものであるということである。(続く)

 

古楽をめぐって:音楽と時間

昨夜はマラン・マレの生誕を祝うコンサートを聴きに出かけた。茗荷谷のラ・リールは音が柔らかく響き、余韻まではっきり聞こえる、とても良い会場だった。演奏者の方々もバロック音楽の醍醐味を十分に味わわせてくれた。

♦ さて、ここからは哲学的考察である。――私にとって古楽の魅力はその高雅さにある。高雅さというのは超越が生きていた時代、神が生きていた時代にしか存在しないものである。やがて、「神は死んだ」(ニーチェ)という余りにもよく知られた言葉によって象徴される、神は虚構であるとする超越に対する批判がヨーロッパを席巻することになり、芸術には高雅さが見られなくなるのである。しかし、歴史の流れとしてそれは仕方のないことであるとして、私は超越批判は超越の単なる否定ではないという観方をしたい。即ち、超越を批判することは、超越を単に殺すことではなくて、新たに/改めて超越を生きさせる(即ち我々が超越によって生きさせてもらう)ことへの契機である、という観方をしたいのである。

古楽の魅力は高雅さと共にその古さにある。古い音楽は取り分け、時計によって計られる時間とは異なる本来的な時間を経験させてくれるのである。それはどういうことなのか。私はもちろんマラン・マレが生きていた時代には生きていなかった。しかし我々は音楽によって、一度も体験したことのない古い時代へと立ち返ることができるのである。では、バロック時代のような古い時代へと立ち返るとはどのようなことなのであろうか。それは年表に向けられた眼差しを左方向に水平移動させることではない。我々は例えばマラン・マレを聴きながら、現在から(懐かしい)過去へと垂直方向に降りて行くのである。

♦ そして、バロック音楽を演奏したり聴いたりすることは、現在から過去へと下降することであるだけではなくて、同時に、過去から現在へと上昇することでもある。現実態としての音楽表現は、現在から過去へと下降し、過去から現在へと上昇する、現在と過去との間の往還である。

♦ ところで、こうした過去との交流、即ち垂直的時間=本来的な時間を可能にするのは、脳ではない。脳というのは物質であり、物質というのは、過去を保持する(記憶する)ことをせず、常にその瞬間その瞬間にしか存在しないのである。過去との交流が可能なのは、我々の生が――我々の意識が、と言ってもよい――絶えず過去を過去として保持しつつ(未来を目指して)新たな現在を迎えるからなのである。

森有正「パリに住んで:思考を深めた21年間」

森有正(1911~76)という人はオルガンでバッハなどを演奏していた哲学者であり、「思索の源泉としての音楽」というレコードもあるが、どうして急にこのような話を始めたのかと言うと、机の引き出しの中を整理していたら、茶色に変色した一片の新聞の切り抜きが出てきたからである。切り抜きは森有正の「パリに住んで:思考を深めた21年間」というコラム記事である。新聞の日付は1971年9月23日となっている。私は森有正の著作は割と最近になってから少し身を入れて読んだのであるが、この半世紀近く昔の切り抜きを改めて読んで驚いたのは、自分の趣向と感受性が基本的に若い時から少しも変わっていないことである。

哲学についてほとんど何も分かっていなかった学部生の時に気に入ったこの記事から、幾つかの言葉を書き抜いてみる。

♦ 私にとって重要なことは、このパリ滞在の間に、《私自身》の思索が始まったということである。

♦ あのけたたましいジャーナリズムやスノビズムの渦巻きから完全に隔離されて、考え、思索を深めることが出来たのは、私にとって決定的なことであり、私の精神的《かたち》は揺るがしえないほどしっかりと確立されたと思っている。

♦ 専門のフランス十七世紀哲学の研究は思ったようには進まなかったが、デカルトパスカルをみる目が全然変化した。そういう古典的大家が分解し始め、自分の経験が思想に転化する過程に吸収され始めて来た。これは私にとって重大なことであった。・・・それは我々の中に見出され勝ちな一辺倒的考え方の逆であり、自分の「経験」を生かす道である。一辺倒的考え方は、他に傾倒するようでありながら、実は他に依存して自分を支えようとする態度であり、また他によって自分を飾ろうとすることでもある。

♦ 今日(九月十九日)、ICUの大学の教会で、チェコオルガニスト、パウケルト氏の「フーガの技法」(バッハ)をきいた。私は、人間の「経験」というものは、思想でも、音楽でも、《どこでも》同じ道をたどるものだということを深く感じた。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その7

 人を蔑んではならない。人を差別してはならない。そのように言われる。しかし差別意識を無くすにはどうすれば良いのであろうか。差別意識には原因がある。即ち差別意識は(例えば或る特定の国に関する)偏見=歪んだ認識から生まれるのである。従って、この偏見を是正するならば差別意識を無くすことができる。確かにそうである。しかしすんなりと自分の誤解を認めてあっさりと差別をやめてしまう麗しい人間は少ないと思われる。多くの者はむしろ自分の偏見にあくまでも固執するのではないか。それは何故かと言うと、多くの者の場合、偏見が差別意識の原因なのではなくて、逆に差別意識が偏見の原因になっているからである。
 差別意識を克服することは生易しいことではない。人間には、他人を蔑むことによって自分の優位性を確認したいという、やみ難い衝動があるからである。従って、傲慢な人間になるのは容易いが、謙虚な人間になることは難しい。謙虚を装うのは難しくないが。
 さて、人間は気高く生きなければならないというのが、デカルトからのメッセージである。但し、気高さ(高邁さ)とは傲慢さではない。気高く生きることは謙虚に生きることに他ならないのである。『情念論』155節でデカルトは、最も高邁な者は最も謙虚な者であると述べ、そして続いて高邁な者の謙虚さについて次のように語る。
人間の本性(ほんせい)の弱さについて反省し、自分がかつて犯し得た過ちあるいは将来犯し得る過ち(これらは他の人々が犯し得る過ちよりも小さくはない)について反省することによって、他の誰に対しても自分の方を優位に置くpréférerことをせず、他の人も自分と同じく自由意志を持つのであるから、自分と同じく自由意志を善く用いることができる〔つまり高邁であり得る〕と考える、――このことにのみ、高邁な者の謙虚さ、即ち徳としての謙虚さが存するのである、と。
 デカルトは人間というものを信じていた。つまりは神を信じていた。但し、この信仰はあくまでも誠実な懐疑を経由した信仰である。(続く)