デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 3

メルロ=ポンティの哲学は単なる心身合一の立場ではない。

デカルトには「心身の区別」と「心身の合一」という二つの面があるが、メルロ=ポンティはこのデカルト的二面性を引き受けているのである。

(但し、これら二つの面がどのように結ばれるのかがまさに問題であり、デカルトの場合とメルロ=ポンティの場合とではその結ばれ方は同じではない。)

 

ところで、メルロ=ポンティの哲学は単なる「心身合一の立場」ではないということ、言い換えれば単なる「非反省的なものの立場」ではないということは、この哲学は単なる「現象の記述」ではないということである。

「現象の現象」とか「現象学現象学」といったことが語られるが、

メルロ=ポンティの哲学は「現象の記述」としての現象学であると同時に、現象学現象学でもあり、そしてこれら「現象学」と「現象学現象学」とは不可分である。つまり後者なしには前者はあり得ず、前者なしには後者はあり得ないのである。

デカルトの場合には二つの面の結合はここまでは徹底されていない。)

 

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 2

私は在外研究で、ジャン・マリー・ベイサード教授(パリ大学第十大学)の授業に参加しつつ、教授の主著デカルトの第一哲学:形而上学の〈時間と整合性〉』をノートをとりながら繰り返し繰り返し読んだ。

その間、考え続けたのはもっぱら「デカルトの循環」という問題であるが、この問題を考え詰めてゆくうちに、メルロ=ポンティにおける循環の問題を「再発見」した。

パリでのデカルト経験なしには、2000年における『メルロ=ポンティ 超越の根源相』の出版にいたる道のりはあり得なかったと言える。

 

ただ、パリでのデカルト経験といっても、私はベイサードなどの代表的なデカルト研究者の言うことを鵜呑みにしたわけではない。

また、権威あるデカルト研究史に依拠してデカルトを考えたわけではない。

そうした(アカデミズムを基準にすることはしないという)姿勢を、私は帰国後年々強めてゆき、森有正小林秀雄デカルト考などを熟読しながら、デカルトの哲学を「生のあり方としての哲学」として読む読み方を確立していった。

そしてそれは同時に、「デカルトの循環」の深層(真相)に迫ることでもあった。

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 1

メルロ=ポンティデカルト論をいくら読んでもデカルトは分からない。

しかしデカルトを読めばメルロ=ポンティは分かる。

というより、デカルトの問題性が掴めなければメルロ=ポンティは分からないのである。

これが1986年度におけるパリ大学での在外研究を経て、そしてその後の30年間の思索を経て、私が確言できることである。

 

時間と永遠について言うと、

デカルト省察は時間の中で行なわれる。

この「時間の中で」という条件を外して省察を理解することはできない。

例えばコギト(我れ思う、故に我れあり)とは、時間の中で時間を突破し永遠(つまり真理)に達する企ての到達点なのである。

 

このことを押さえると、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』とは何であるのかが分かる。

それは時間と永遠との結合なのである。

但し、メルロ=ポンティの哲学はデカルトの哲学とまったく同じであるというわけではない。メルロ=ポンティの場合はデカルトの場合よりもより荒技的に時間と永遠とは結合される(これは永遠が時間に還元されるということではない)のである。

拙著『メルロ=ポンティ 超越の根源相』(創文社)の、例えば第1章第2節「一種の永遠」を参照されたい。

「デカルトの循環」 (i) ~死の問題へ

繰り返し述べたことであるが、「デカルトの循環」と呼ばれる循環は循環論法の循環ではない。というのも、それは超越関係における循環だからである。

ところで、循環は超越関係における循環であるということは、この場合の超越関係とは循環関係であるということである。

再度、神と聖書の例で考えてみよう。

[A]神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。

   ーーではどうして聖書を信じることができるのか。

[B]聖書を信じることができるのは、聖書は神から授けられたものであるからである。

  • 神は聖書を超越しているのであるが、上の[B]はその超越性を表している。
  • しかし[A]は神は聖書に依存することを意味する。神は聖書によって己れを示さなければならないのである。

つまり超越とは単なる超越ではなくて超越と依存(=非超越)との矛盾であり、また神と聖書の間の循環である。

 

ところで、こうした神と聖書との関係は、精神と身体との関係でもある。

デカルトにおいては、精神は身体を超越していると同時に、身体に依存しているのである。

言い換えると、精神は身体から区別されると同時に、身体と一つになっている(心身合一)のである。

精神は身体を越えたものであると同時に、身体なしにはあり得ない。

こうしたデカルト矛盾は詩人の洞察によっても裏づけられる。

 [1]肉体をうしなって あなたは一層 あなたになった       

   純粋の原酒(モルト)になって 一層わたしを酔わしめる   

   恋に肉体は不要なのかもしれない

[2]けれど今 恋いわたるこのなつかしさは 

   肉体を通してしか ついに得られなかったもの

[3]どれほど多くのひとびとが 潜って行ったことでしょう

   かかる矛盾の門を 惑乱し 涙し          

          茨木のり子『歳月』「恋唄」

 番号はもちろん引用者が便宜上付したものであるが、デカルト的に言うと、

[1]は純粋精神の立場に立つ言葉であり、

[2]は心身合一の立場に立つ言葉である。

そして純粋精神と心身合一という矛盾した二つが同時に問題になるのは、上の詩人の場合もそうであるが、とりわけ「死」においてなのである。

というのも、

一方、死は精神が身体から離れて純粋精神になることを可能にするが、

しかし他方、死はそもそも心身合一体にとってしか存在しないからである。

 

「デカルトの循環」(h)

前の12月1日の記事で、信じることと疑うことの矛盾に言及したが、この矛盾について少し考えてみよう。

「上から」見れば丸いが「横から」見れば三角形である(つまり丸くない)、そのようなものがあるとして、これについて矛盾を指摘する者はいないであろう。

円錐形をしたものは、そのように見えなければならないのであり、そのように見えなければ、それこそ(円錐形の定義に)矛盾するのである。

ところで、既に見たように、コギトや神の存在も、それらが現在の明証であることをやめて過去の明証になると、疑い得るものとなる。つまり、それらは「現在の明証」である場合は信じざるを得ないが、「過去の明証」になると疑い得るのである。

しかしこの「信」と「疑」の矛盾は、上から見れば「丸い」が横から見れば「丸くない」という矛盾とは異なる。「丸い」と「丸くない」は自己同一的な事物の必然的な現われであるが、「信」と「疑」は違う。というのも、11月24日の記事で述べたように、現在の明証と過去の明証の区別は、結局のところ、「神」と「明証の規則」との間の次元の違い、即ち創造者と被造物との間の超越関係を意味するからである。

ということは、超越において「信」と「疑」という矛盾した二つは結ばれるということである。

 しかも信と疑は互いに絡み合っている。

  1. デカルトは 2+3=5 を疑うために「欺く神」を想定したが、「欺く神」を想定するためには「欺く神」という明証の真理性を信じなければならない。つまり疑うことはそれ自体信じることなのである。
  2. しかし、「欺く神」という明証への信頼は、やはり、明証一般に対す懐疑であらざるを得ない。つまり信じることはそれ自体疑うことなのである。

この例はコギトや神の存在に対する信と疑の関係を直接説明するものではないが、〕このようにして信じることと疑うことは絡み合っているのであり、「疑うことは信じることであり、信じることは疑うことである」という循環が存在するのである。

このような循環こそが本当の「デカルトの循環」である。

これはデカルトが実際に語っている論理ではない。そうではなくて、デカルトが実際に生きている論理である。

我々はデカルトの言葉の整合化ばかりに拘ってはならない。肝腎なのはデカルトの思考的生の実体を明らかにすることである。

 

「デカルトの循環」(g) ・・・ デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑧

デカルトの循環」(e)で見たように、

我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを我々が確信する」ためには、その事物を「明晰に認識したことを我々が想起する」だけでは十分ではない。更に、「神は存在し神は欺くことはないということを我々が知っているのでなければ」ならないのである。

ということは、神は存在し神は欺くことはないという明証、つまり神の存在と誠実性という明証も、それが過去の明証となった場合には、即ちそれが想起の対象となった場合には、「神は存在し神は欺くことはない」ということの知を必要とするということである。つまり神的保証を必要とするのである。

しかし神の存在と誠実性という明証の真理性を保証する「神は存在し神は欺くことはない」ということの知それ自体も、それが過去の明証となった場合には保証を必要とするということに我々は気づかなければならない。

つまり、明証の規則の正しさが神の存在と誠実性によって保証されるのは、神の存在と誠実性が現在の明証である限りにおいてなのである。それが過去の明証である場合には、明証の規則は確乎たるものではあり得ないのである。

ということは、神の存在と誠実性が証明された後も、懐疑の可能性は残る(実際には疑わないとしても)ということである。

デカルトは、(例えば 2+3=5 を)疑う根拠として「欺く神」を持ち出し、次いで神は存在し神は欺く者ではない(誠実である)ことを証明して、「欺く神」という懐疑の根拠を否定し却下する。しかし、神の存在と誠実性も、それが過去の明証となるならば、「欺く神」は生き返る。つまりそれも疑い得るものになるのである。

デカルト研究者はこのことを決して理解しない。デカルトの懐疑は懐疑の可能性を決定的に抹殺するためのもの、つまり方法的懐疑であると信じ込んでいるのである。しかし、少し考えれば分かるように、絶対に疑い得ないことなどあるわけがないのである。実際、デカルトは「絶対に疑い得ない」などという言い方は、『方法序説』においても『省察』においてもしていない。

第三省察の冒頭でいわゆる明証の一般規則を仮に立てた後、デカルトは例えば 2+3=5 という明証は、それが現在の明証である場合にはその真理性を信じざるを得ず、それが過去の明証である場合にはその真理性を疑うことができるということを語っている。

つまり信じることと疑うことの矛盾を示しているのであるが、こうした矛盾・二重性はあってはならないものではなくて、それこそが深く了解すべき真のデカルト的問題であり、真の哲学的問題なのである。

この矛盾にはいずれまた触れることにして、我々はここで改めてデカルトの懐疑は方法的懐疑ではないということを確認したわけである。 

「デカルトの循環」(f)

前回見たように、デカルトは循環論法の疑惑に対して、現在の明証と過去の明証とを区別し、(即ち現に明らかであることと、かつて明らかであったこととを区別し、)現在の明証は保証を必要としないが、過去の明証は保証を必要とした。

つまり、こういうことである。

  1. 明証が現在的なものである限りでは、明証の規則は保証を必要としない。そこでまずデカルトは、明証の規則に立脚して神の存在と誠実性を証明する。★これは「神の存在を信じなければならないのは、神が存在することは聖書において教えられているからである」ということに対応する。
  2. しかし明証が現在的であることをやめて過去の明証(想起の対象)となると、明証は保証を必要とする。そこでデカルトは明証の規則の正しさは神が保証するとする。★これは「聖書を信じなければならないのは、聖書は神から授けられたものであるからである」ということに対応する。

さて、現在の明証と過去の明証との区別は、循環論法の嫌疑を晴らす役割をするわけであるが、では、現在の明証と過去の明証との区別はどうしてそのような役割を果たすことができるのであろうか。

  1. 明証の現在性は「明証の規則」から「神」へ(聖書から神へ)の上昇を可能にし、
  2. 明証の過去性は「神」から「明証の規則」へ(神から聖書へ)の下降を可能にする。

つまり、現在の明証と過去の明証との区別は、結局のところ、「神」と「明証の規則」との間の次元の違い、即ち創造者と被造物との間の超越関係を意味するのである。(但し、この超越関係は概念的なものではなくて、信仰の光に照らされたものでなければならない。)

そうである故に、現在の明証と過去の明証との区別は、デカルトをして循環論法から免れさせるのである。

 

「デカルトの循環」(e)

最初から話を始めることにしよう。「デカルトの循環」について論じるためには、まずはデカルトの答弁そのものを正確に理解しなければならない。では、循環論法の嫌疑に対してデカルトはどのように答えたのか。『省察』「第四答弁」を見てみよう。

(a)明晰判明に認識されることが真であることが我々にとって確定されるのは、神が存在するからに他ならず、また、(b)神が存在することが我々にとって確定されるのは、そのことが明晰に認識されるからに他ならないと、そのように私が述べた時、私は循環論法を犯していない。

デカルトはそのように答弁している。では、どうして循環論法を犯していないと言うことができるのであろうか。デカルトの言い分は次の通りである。

  1. まず(b)の方に関してであるが、「最初に神が存在することが我々にとって確定されるのは、神が存在することを証明する根拠に我々が注意を向けているからである」。つまり、神の存在は「我々が実際に明晰に認識すること」であるからである。
  2. しかし、我々はいつまでも根拠に注意を向けているわけにはいかない。では、「その後は」どうなのであろうか。今度は(a)の方に関してであるが、我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを我々が確信する」ためには、その事物を「明晰に認識したことを我々が想起する」だけでは十分ではない。更に、「神は存在し神は欺くことはないということを我々が知っているのでなければ」ならないのである。

明証の規則が神的保証を必要とするのは明証が過去のものとなった場合(即ち私は神が存在することをかつて明晰に認識したという場合)だけであって、最初に神の存在を証明する際には、即ち明証が現在のものである際には、明証の規則は神的保証を必要としない。つまり、(b)は(a)を前提しない。それ故に自分は循環論法を犯していない。――デカルトの言い分は要するにそういうことである。

しかしこの答弁は多くの者にとって納得のできるものではないであろう。というのも、「神が存在することは明らかである」という明証は、それが現在的なものである場合も、想起の対象となっている場合も、内容に変わりはないからである。

しかし問題は、明証が現在のものであろうと過去のものであろうと、その内容は変わりない、という見方それ自体なのである。多くの者は明証から時間性を奪う。ということは、デカルトの証明を単なる証明としてしか見ないということである。デカルトの証明を単なる証明としてしか見ないから、明証を無時間的なものと看做す。つまり現在の明証と過去の明証とを区別することの意味を理解することができない。しかしその場合には、デカルトを循環論法の嫌疑から救い出すことは不可能である。

「デカルトの循環」(d)

デカルトの循環」と呼ばれる問題は、デカルト研究の歴史において過去最も多く取り上げられた問題の一つであるが、それは簡単に言うと、

神が存在し神が欺瞞者ではない(誠実である)ことは、明証の規則(明晰判明なことはすべて真であるという規則)に従って証明されることであり、また、明証の規則が正しいことは神によって保証されていることである、

という循環である。

デカルトは「循環論法」を犯しているのではないかという指摘は、既にA.アルノーなどデカルトの同時代の学者によって行なわれ、また後世においてはこの指摘をめぐって数多のデカルト研究者が様々な議論が試みたが、しかし我々は研究者たちの煩瑣な議論をいちいちフォローする必要はないと考えている。

どうして循環論法という批判が出てくるのか。それは要するに、哲学を信仰から完全に切り離されたものと看做すからである。即ち、(信仰において感知される)神の超越性を度外視して、「神」と「明証の規則」とを同列に置くからである。そのようにする限り、デカルトを循環論法という非難から救うことは決してできない。弁明や釈明を行なうことしかできない。あるいは、デカルトは循環論法を犯していないことを独断的に前提することしかできない。

「神」と「明証の規則」との間の循環は、実は、以前に取り上げた「神」と「聖書」との間の循環と同種のものである。「明証の規則」の正しさは、(神の存在が証明される第三省察において何度か現われる言葉で言い換えると)「自然の光」による認識の正しさということであるが、「自然の光」とはまさに「神から我々に与えられた認識能力」(『哲学原理』I-30)であり、或る意味で「聖書」に対応するものなのである。

「神」と「明証の規則」との間の循環は、「神」と「聖書」との間の循環と同種のものであり、つまり確かに循環ではあるが、しかし循環論法ではない。

では、循環論法の循環ではない循環とは何なのであろうか。どうしてそのような循環が存在するのであろうか。

 

「デカルトの循環」(c)

デカルトの循環に関する話を先に進める前に、念のため「デカルトと信仰」について確認しておきたい。

以下、2016年9月19日に本ブログに掲載した拙稿から抜粋する。

筆者は前稿「デカルトと死の修練」において、デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立しているとしても、あるいは表面上は信仰に依拠していないように見えるとしても、この哲学は実は神への生ける信仰によって実質的に根拠づけられているのではないか、それは黙せる篤き信仰心によってこそ実現され得ているのではないか、従ってデカルトの秘められた信仰心を感取せずにそれを等閑視するならば、その哲学を本当の意味で理解することはできないのではないか――論語読みの論語知らずの如き「デカルト読みのデカルト知らず」になってしまうのではないか――という旨のことを述べ、そのことを「懐疑」「証明」「観念」「方法」をめぐって示した(・・・)

  拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルデカルト〕」【序】

 

 そしてまたデカルトはれっきとした信仰者であることも確認しておきたい。パスカルデカルト批判は余りにも有名であるが、しかし『ド・サシ氏との対話』におけるパスカルモンテーニュ批判をそのまま信じてはならないのと同じように、パスカルが書き残したデカルトに関する断片的な批判を絶対化してもならない。もちろんデカルトキリスト教の擁護を主眼として哲学したわけではないし、パスカルと同種の信仰を有したわけではない。しかし哲学史が築き上げた “合理主義者デカルト” というイメージ(巨大な虚像)を払拭し、哲学史的偏見を排して虚心坦懐にデカルトの言葉に耳を傾けなければならない。デカルトは例えば、神への信仰が我々に何も教えていない事柄は別として、それ以外のことについては超自然的な光を自然の光よりも優先させなければならない、恩寵の光を理性の光よりも優先させなければならないと言っているのであるが、これを啓示に対する単なるお決まりの敬意表明と受け取ってはならないのである。

そして受肉とか三位一体といった「信仰の真理」以外の真理、即ち自然の光によって認識される真理も、実は信仰の光に照らされていることを察しなければならない。そのことを感じ取らなければならない。確かに理性と信仰とは区別される。しかし区別されるということは切り離されるということではない。理性と信仰とは不可分なのである。デカルトにあっては、信仰は理性の内奥に潜み理性を活動させている。つまり信仰は理性の内に浸透している。そのことは特に「神の観念」によく表れているが、しかし神の観念は例外的なものではない。デカルト的明証は超自然的な光から切り離されるならば貧しく無力なものとなってしまうのである。

  拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルデカルト〕」【5】

それでは、「デカルトの循環」に話を戻すことにしよう。

 

「デカルトの循環」(b)

前の記事で、次のような神と聖書の循環を取り上げた。神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。では、どうして聖書を信じることができるのか。それは聖書は神から授けられたものであるからである。

ここには明らかに循環がある。しかしデカルトが言うには、この循環を循環論法と見るのは信仰のない者である。信仰がある者はこの循環を循環論法とは見ない。

では、それはどうしてなのか。それは信仰とは超越への関わりであるからであり、つまり(超越的な)神と聖書とはいわば次元の異なるものであるからである。逆に言うと、信仰のない者がそうするように上の循環を信仰から独立した純然たる証明と見るならば、即ち神と聖書とを同一平面に並べるならば、上の循環は循環論法であることになるのである。

例えばAという人がBの言うことは正しいと言い、BがAの言うことは正しいと言うという循環は、AとBが同じ人間として同一次元に置かれる限り、悪しき循環(循環論法)なのである。

しかしデカルト省察は循環的ではあるが、それは循環論法を犯しているわけではない。我々が上で指摘した次元の違いということは、デカルトの答弁にも実は示されているのである。

 

「デカルトの循環」(a)

省察』に付された「ソルボンヌ宛書簡」の中で、デカルトは循環論法のよく知られた例を取り上げている。

神の存在を信じなければならないというのは本当である。というのも、神が存在することは聖書において教えられているからである。また逆に、聖書を信じなければならないというのは本当である。というのも、聖書は神から授けられたものであるからである。

ここには明らかに循環がある。しかしこれは循環論法なのであろうか。デカルトが言うには、ここに「論理学者が循環論法と呼ぶ過ち」を見出すのは「信仰を持たない者」である。ということは、デカルト自身も含めて信仰を持つ者は、この循環を循環論法とは看做さないということである。つまり、信仰がなければ分からない、循環論法とは異なる循環が存在するのである。

しかし、研究者たちの中にそのことを洞察した者は果たしているのであろうか。「デカルトの循環」と言われる難問(これについては後述する)は、かつてデカルト研究においてさかんに論じられたものであるが、この難問に取り組んだ数多くの研究者たちの中に、循環論法とは異なる循環を問題にした者は果たしているのであろうか。むしろ殆どの者は、デカルトによる神の存在の証明は信仰から独立した純然たる証明であるという思い込みから自由ではなかったのではないであろうか。つまり殆どの者は、デカルトは神の存在の証明において循環論法という論理的過ちを犯しているのかいないのか、ということだけを専ら問題にしたのではないであろうか。

 

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑦

我々は実生活においてしばしば疑心暗鬼に陥るが、デカルトの懐疑は不安に陥ることによる疑いとはまったく異なるものである。では、それは故意に疑うことなのであろうか。そのように言えないこともないが、しかし「ではやっみろ」と言われて易々と実践できるものではない。 我々はここで、自分は本当の意味で疑うことができるのかと自問してみる必要がある。

ところで、 キルケゴールは絶望について次のように語っている。 

もし絶望していないということが、ただ絶望していないというだけのことで、それ以上の意味も以下の意味も持たないならば、それこそまさしく絶望していることなのである。絶望していないということは、絶望してありうるという可能性が絶滅されたことを意味するのでなければならない。

      【「死にいたる病」(桝田啓三郎訳)】

人は誰でも絶望的な気分を味わったことがあるであろう。しかし真に絶望したことのある者はどのくらいいるのであろうか。実は、たいていの人間は「 絶望してありうるという可能性が絶滅された」状態にあるのではないであろうか。

だが、例えばフランクルの『夜と霧』を読むと分かるように、人間は真に絶望することができてはじめて絶望を越えることができる。逆に言うと、絶望し得るという可能性を絶たれている者、即ち「ただ絶望していないというだけ」という意味で絶望していない者は、まさに「絶望している」のであり、つまり絶望を越える可能性を絶たれているのである。

同様に、次のように言うことができる。我々は様々なことに疑いを抱きつつ日常生活を送っている。しかし実は、本当の意味では疑ってはいないのではないであろうか。ほとんどの人間は疑うことができるという可能性を絶たれているのではないであろうか。即ちただ疑っていないというだけという意味で疑っていないのではないであろうか。しかしそのような意味で疑っていないということは、まさに疑っているということなのであり、つまり疑いを越える可能性を絶たれているということなのである。

本当の意味で疑うことができなければ、疑いを越えること(これは疑いを壊滅させることではない)はできない。つまり信じることはできないのであり、確信を持つことはできないのである。但し、確信は懐疑と不可分である。即ち確実性は懐疑の自己犠牲において生まれるのではない。懐疑が死ねば確実性も死ぬのである。

 

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑥

デカルトの懐疑は世界の外に出る企てであることは、果たして一般に理解されているのであろうか。例えば、いくら世界の外部ということを声高に述べても、世界の外部についてただ単に知的・観念的に論じるだけでは、世界の外部を真に理解しているとは言えないのである。

デカルトは第一省察の締めくくりとして、牢獄に繋がれた囚人の話をしている。囚人は自分が牢獄から解放されて自由の身になっている夢を見ていた。ところが、そのうち目を覚ましかける。そこで、その囚人は快い夢の中に戻るために、もう一度眠りに入ろうとするのである。

この囚人は結局安楽への欲求に負けてしまうのかもしれない。しかしそうであるとしても、快い夢――即ち天と地が存在するとか、2に3を加えると5になるといったことがそこに属する、慣れ親しんだ「この世(=信念世界)」――を拒む苦しみを、少なくとも一瞬味わっている。しかし世界の外部をただ単に知的に論じるだけの学者は、世界の内部で安穏として2+3=5 を疑う学者と同様に、やはり手をぽっぽに入れているのではないであろうか。

では、デカルトはどうして快い夢の誘惑に打ち克ち、苦しみに耐えることができるのであろうか。懐疑に身を投じることは暗黒の中に身を投じることであるかのように思えるが、しかし光がまったく見えていないということはあり得ないであろう。デカルトは確実に超越を感知している。即ち形而上学的欲求に目覚めている。そうでなければ、世界の外に出ることを実際に企てることはできないのであり、従ってまた世界の外部を真に理解することもできないのである。

 

 

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑤

どうして、2+3=5 とか、四角形は四つの辺を持つといった算術や数学の真理は疑い得るのに、コギト(考える私が存在するということ)は疑い得ないのか。――そのような疑義を人は呈する。しかしそれはデカルトの懐疑の基本を理解していないからである。

デカルトの懐疑は、いわば、世界の外に出る企てなのである。

2+3=5 が疑い得るのは、2+3=5 が世界内に属することだからである。世界内に属することである限りにおいて、数学的明証は世界の外に出る企てである懐疑によって越えられてしまう。つまり2+3=5 は疑い得る。

それに対して、コギトは世界内のことではなくて、世界外のこと、即ち形而上学的なことである故に、世界の外に出る企てである懐疑はコギトの明証に直面してその目的に達する。つまりコギトの明証は懐疑を停止させる(但し壊滅させるのではない)。

我々は 2+3=5 を疑うことに非常に大きな困難を覚える。それはほとんど不可能なように我々には思える(屁理屈をこねて疑うふりをすることはできるが)。しかしそれは、デカルトの懐疑は世界の外に出る企てであることを理解していないからであり、相変わらず世界にぬくぬくと安住しているからである。研究者たちはデカルト「と一緒に本気で」(『省察』読者への序言)懐疑を遂行するのではなくて、手をぽっぽに入れたまま膨大な論議を作り出してきた。

デカルトはそのような形而上学的に怠惰な読者を見越していたようである。