デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その2

 別にどこかの総理大臣のことを念頭に置いているわけではないが、傲慢な人間というのは相手に応じて傲慢であったり逆に卑屈であったりする。傲慢は本当の自信を伴わない自尊心である故に、そういうことになるのである。本当の自信を伴う自尊心は決して卑屈に転じることはない。それは(卑屈に転じるのではなくて)それ自体が謙虚さでもあるのである。では、この真の自信を伴う自尊心、それ自体が謙虚さでもある自尊心とは、如何なるものなのであろうか。それを明らかにするために、デカルトの言う「高邁」なるものについて考察を試みることにしたい。
人はどのような理由で自尊心を抱くのであろうか。総理大臣だからであろうか、有名大学を出ているからであろうか、頭がいいからであろうか、特殊な技能を有するからであろうか、勲章を受章したからであろうか、資産家だからであろうか、容姿が美しいからであろうか・・・。デカルトは財産とか名誉とか知力とか知識とか美しさを例に挙げるのであるが、何とデカルトによればこうした価値は(それを所有する人に属すると言えば属するのであるが)本当にその人自身に属するのではないのである。ということは、名誉や知力といった価値は本当の自信を人に与えるものではないということであり、そうした価値は自尊心を抱く正当な理由ではないということである。
では、本当にその人自身に属するものとは何なのであろうか。本当の自信を人に与える価値とは何なのであろうか。自尊心を抱く正当な理由とは何なのであろうか。――それは或る<確乎不変の決意>なのである。(続く)

魂の響き

 ♦ 思いがけなくチケットをいただき、昨夜はロラン・ドガレイユのヴァイオリンを聴きに紀尾井ホールに出かけた(ピアノはジャック・ルヴィエ)。ドガレイユ Daugareil 氏はパリ管弦楽団コンサートマスター、そしてパリ国立高等音楽院の教授であり、かのサン=テクジュペリが所有していた1708年製のストラディヴァリウスを使用しているとのことである。演奏されたのは、プーランクラヴェルドビュッシー、フランクのVnソナタで、いずれも馴染みの曲だったが、これらがこんなに素晴らしい曲であるとは ・・・ 知らなかった。特にsotto voceで歌うところが印象的で、まさにフランス音楽の神髄を教えてくれるコンサートだった。

♦ チラシには大きな文字で「魂の響き」とある。これはありふれたフレーズかもしれないが、この言葉について少し考えるために、パリ在住のピアニスト船越清佳氏によるドガレイユ氏への独占インタヴュ(2015年9月)記事を参照してみよう。このインタヴュでドガレイユ氏は、コンサートマスターとして若い頃から数々の世界的指揮者と共に演奏したことに言及し、彼らから音楽的なアドヴァイスを受けたことを強調している。指揮者というのは楽器の演奏家と違って、「演奏の技術ではなくて、音楽そのものを尊重する耳を持っている」と氏は述べているが、(ヴァイオリンの巨匠のレッスンからは得られない)音楽的なアドヴァイスこそが、氏にとって貴重なものなのである。氏が言いたいのは、音楽に奉仕する心、音楽に対する謙虚な姿勢である。

ドガレイユ氏が言うには、まずテクニックの問題を解決し、その次にテクニックが及ぶ範囲で音楽的探求を行なうというのは「本末転倒」である。「感動」よりも技術的な確実さを優先させてはならない。感動というのは「自由さ、大胆さ、ファンタジーからこそ生まれる」からである。ドガレイユ氏に代わって私の考えを述べると、演奏技術が進歩することによって感動が生まれるということはあり得ない。もちろん感動を血肉化する(あるいは呼び起こす)ためには然るべき相応の演奏技術が要求されるのであるが、自己目的化した技術から音楽が生まれることはあり得ないのである。技術優先の姿勢からは音楽なき演奏、「魂の響き」なき演奏しか生まれないのである。

♦ 実は哲学研究についても同じようなことが言える。哲学研究者は哲学そのものにはまるで関心がないかのようである。つまり自分の研究にはどのような哲学的意味があるのかを大所高所から問うことをまったくせずに、専門領域というタコツボの中でテクニカルな(即ち専門的=技術的な)研究に勤しんでいるのである。しかし「哲学とは何か」という根本的な問いから逃避し続け、哲学というものに対する責任感を欠いている限り、哲学なき論文、「魂の響き」なき論文しか生み出すことができないことは言うまでもない。 

♦ 私は昨年、或る研究計画に関して次のような論評を書いた。――ヘーゲルの論理学における「概念は規範性をもつ」という主張を再構成するというようなことは、テクニカルな課題であって、哲学的な課題ではない。哲学的な課題とは、最近の研究動向、学会の動向(流行)に迎合するようなことは一切せず、また他人のふんどしで相撲を取るようなことは一切せずに、みずからの力と責任で、ヘーゲルの論理学の本質=根本的問題性をしっかり摑み取ることであり、そしてその上で、(例えば概念の規範性に関する)他の諸研究やアリストテレス主義の復権などに対して批判と評価を行なうことである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その1

♦ 偉そうに出しゃばり、そのくせ無責任で、狡賢く羞恥心のない人間、このような〈傲慢で卑劣な人間〉は決して稀な存在ではない。「憎まれっ子世に憚る」と言われるが、そのような人間は各分野で幅を利かせている者の中に比較的多く見られるのであろう。しかし、どうしてこのような人間が出来てしまうのであろうか。自尊心という観点から考えてみよう。

♦ 本物の聖人でもない限り、人間は何らかの自尊感情なしには生きることはできないように思われる。褒められて嬉しくない人間はいないとよく言われるが、自尊感情は生きるために不可欠な活力であると考えられる。――1865年にイギリス領インド帝国に生まれたラドヤード・キップリングの本に、インドの密林の中の小屋に独居している森林監督官のことが出てくるのであるが、猛獣はともあれ他に人間はいないのであるから人目を気にする必要はまったくないのにも拘わらず、この森林監督官は毎晩夕食のために礼服を着用した。一体何のために正装したのか。それは世間から離れて独居することで「自己への尊重を失ってしまわないため」である。この森林監督官はイギリス社会の規範にみずからを従わせることで(これはあくまで一つのケースであるが)、立派な自分を確認し自尊心を保とうとしたのである。自由気ままというのは実は決して楽しくはない。人生を投げてしまった者は別として、自尊感情を何ら抱けないことはそれこそ耐えがたいことなのである。(因みに、ナショナリズムとは国のプライドと個人のプライドとが一致したものである。)

♦ しかし自尊感情というのは極めて危険なものである。自尊心に溺れると、人は他人を差別し見下し、不寛容で攻撃的になる。嘘をついたりデマを流したりすることも平気でできるようになる。つまり〈傲慢で卑劣な人間〉になるのである。自尊心の暴走を食い止めるには己れの自尊心を自覚することが何よりも大事なのであるが、しかし口で言うだけならともかく、本当に自覚することは非常に難しい。人は自覚をいわば拒絶するのである(これは精神分析における抑圧に類似した問題である)。

♦ 但し自尊感情は絶対に悪いものであるというわけではもちろんない。それどころか、人を寛容にする自尊感情があるのである。デカルトがそれを示している。(続く)

西部邁氏の最後の言葉

♦ 引き続きデカルトの決意(2)として、生き方の芯を成す決意に関して考察を試みる予定であるが、その前に、先日亡くなられた西部邁氏のことを少し考えておきたい。といっても、私は昔から氏に関心があったわけではない。わりと最近になって『生と死:その非凡なる平凡』など3冊ほどの著書を読み、またMXテレビの番組をこの何年か観ただけである。ただ、個々の主張内容のことはさておき、胡散臭い口先人間が多い知識人たちの中にあって、世間に嫌われることを厭わない稀有な人物として、また思考と人生とが不可分になっている稀代の人物として、一目置いている。

MXテレビの「西部邁ゼミナール」の最終回は、「西部邁先生の生前最後の言葉」というタイトルを付けられて1月27日に放送された。ここで吟味したいのは、この最終回の最後の部分である。西部氏は次のようなことを言った。――どうせ死ぬんだからデタラメな人生を送ろうかという考え方と、どうせ一回の人生だから自分でまあまあ納得できる人生にしようかという考え方の二つがあるが、自分のことを振り返ると、不思議なことに人間は後者の方を選ぶものなのである、と。――では、「デタラメな人生」ではない、「自分でまあまあ納得できる人生」とはどのような人生なのか? 

♦ 放送はここで一度区切りが入り、そのあと聞き手が、「人間は生きることそれ自体にではなく、より良く生きることにのみ本格的な関心を持つ奇妙な動物である」というオルテガの言葉を投げかけた。すると、西部氏は次のように応じた。――「より良く」に関心を持つのは、本当に人間だけである。ただ、「より良く」がこれまた難しい。宗教者なら簡単であって、神だ仏だと言っていればよい。しかし自分は宗教者ではない。宗教には大いに関心があるが宗教を信じたことは一秒たりともない。けどしかし、〔生の〕より良い規準・規範〔=模範〕があるはずだ。確かに一生かかっても「これですよ」と分かりやすくそれを示すことはできない。けれども、それを求めて、しゃべって書いてしゃべって書いてしてきた。ここまできて本当に幸いなのは、死ねることである。あと千年同じことをやれと言われても・・・ 。絶対に神や仏には近づけない。近づけば近づくほど神と仏は遠のいていくのである、と。

♦ では、「神と仏は近づけば近づくほど遠のいていく」とはどういうことなのであろうか? それは要するに、生のより良い規準・規範を〈求める〉営みには際限がないということであろう。人々に欠けているのはそのことの自覚であり、日本社会の愚かしい状態の原因もそうした無自覚にあると、氏は見ているようである。私はここでソクラテスのことを想い起こす。ソクラテスは自分には善美に関することは分からないと言い、更に、世の識者たちと違って自分はそれが分からないことを自覚していると言った。実は、善美というのは、それは分からないということが分かる時にこそ、本当に分かるものなのであり、然るべき探求・探究が為され得るものなのである。が、それにしても、分からないということを悟るのは非常に難しい。

♦ さて、話を戻して、西部氏の言う「自分でまあまあ納得できる人生」とはどのような人生なのか。その答えは以上の話で示されていると思う。

 

デカルトの決意--(1) 森の中の旅人

デカルトは旅を住処とする生涯を送った哲学者であるが、『方法序説』第三部において彼は森の中で道に迷った旅人について次のように語っている。――迷子になった旅人はあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往してはならず、ましてや一箇所に留まってはならない。そうではなくて、絶えず同じ方向にできるだけまっすぐに歩まなければならないのであり、少々の理由で方向を変えてはならない。そのようにすれば、望む場所ではないとしても、少なくとも森の真ん中よりはましな場所に行き着くことができるからである、と。

♦ 今から400年ほど前のヨーロッパの、樹木が鬱蒼と生い茂った森の中を想像してみよう。ぐずぐずしていると日が暮れて身の危険にさらされる恐れがある。どちらに行くべきかじっくり検討している暇はない。従って十分な理由づけができなくても進む方向を決めなければならない。そして決めた方向を最後まで貫き通さなければならない。そうしなければ、いつまで経っても森の外に出ることはできないのである。

♦ この旅人の例によってデカルトが言いたいことは、行動においては優柔不断であってはならず断固とし毅然としていなければならないということ、そして如何に疑わしい意見であっても、一度決めた以上はそれが極めて確かなものである場合と同様に変わらぬ態度でそれに従わなければならないということである。23歳のデカルトはこのことを己れの格律の一つと定めた。(因みに、確乎とした決意ができていれば、決して後悔は生じないということをデカルトは付け加えている。)

♦ しかし、自分の選んだ道が正しいかどうか疑わしいのに、どうして決然と歩むことができるのであろうか。どうして疑いつつも信じることができるのであろうか。確かに疑いの可能性を黙殺する頑固一徹な人はいる。あるいは自分の意見を吟味し疑ってみる懐の深さを持たない人はいる。しかしデカルトはもちろん、疑いの可能性を排斥するこうした頑迷固陋や盲信のことを言っているのでない。

♦ では、自分の選んだ道(自分の意見)が疑わしいものであることを自覚していながら、どうして半信半疑にならずに決然と振る舞うことができるのであろうか。それはこの世に生きている限り、絶対に間違いのない決断(選択)はあり得ないということを、心底悟っているからである。『省察』の末尾では次のように語られている。――実生活の必要は猶予を許さないので、状況を入念に吟味した上で判断するというわけにはゆかない。従って、人間の生は個別的なことに関しては誤りに陥り易いということを告白しなければならないのであり、つまりは、我々の本性(ほんせい)の弱さを承認しなければならないのである、と。

♦ 「我々の本性の弱さを承認しなければならない」ということ、これは悲観ではない。また諦念でもない。更にまた「人間だもの、神様でも仏様でもないんだから」という慰撫でもない。デカルトは人間の本性の弱さを仕方なく認めるのではなくて、積極的に認めるのである。心底納得して認めるのである。要するに人間の本性の弱さを宿命と看做すのである。ということは、つまりは、自分の選択を宿命と看做すということであり、更に言えば天意と看做すということである。そして自分の選択は宿命であり天意であるならば、それは自分を超えた必然であり、選択でありながら選択ではない。

♦ 選択でないならば、後悔というものはあり得ない。後悔というのは、他にもっと良い選択肢があったのにと悔やむことなのである。決意のできない者、意志的に生きることのできない者は、しばしば悔やむ者であり、その者にとっては幸福とはいわゆるラッキーということに過ぎない。逆説的に聞こえるかもしれないが、己れを超えた必然に従う時、即ち為すべきことを為していると思える時にこそ、人は自由と幸福を感じるのである。そうではないであろうか。(続く)

デカルトと知行合一:真理の探究と実生活

どうしてデカルト研究者はデカルトの問題性を摑めないのか。それはデカルトの哲学を「紹介・解説する」(しかも決まり切った仕方で)からであり、「みずから哲学する」ことをしないからである。

徒な思弁に耽らずに、みずから哲学するならば、『方法序説』第一部における、ボン・サンス(良識)あるいはサンス・コマン(常識)へのこだわりを、決して見落とすことはないであろう。そして、真理の探究と実生活はきちんと区別されるとしても、それらのどちらもが、考えることと生きることとの統合であり、知行合一であること、しかも真理の探究と実生活とは(区別されつつも)交流し合っていることを、摑むことができるであろう。

 

以下に、2013年3月に発表した拙稿を掲載することにする。

 

         デカルト/生の循環性

      Descartes : La Circularité de la Vie

                        実川 敏夫

 

 デカルトの哲学を甦生させること、真の哲学を生き返らせること。本稿の狙いをひとことで言うとそういうことになる。但し心臓マッサージのような技術的な作業によってデカルトの哲学を甦らせることはできない。真の哲学を取り戻すためには、まさに自分自身と闘わなければならないのである。つまり自分の中にある硬い殻(強固な刷り込み)を突き破らなければならないのである。

そもそも哲学が「学問」として存在するということを恰も自明のことであるかのように前提している限り、真の哲学を取り戻すことは決してできないであろう。その前提を一度取り払わなければならない。その前提を一度捨てて、「生」の神秘を感受することからはじめなければならない[1]デカルトの哲学を甦生させることは、生の驚異を開示すること、本源的生の循環性を開示することに他ならない。循環性は生に本質的なものである。

 

               1

 

音楽理論というものがある。但し音楽理論と音楽とは別のものである。音楽理論(楽典)を知らなければ作曲したり演奏したりすることができないということがあるかもしれないが、しかしそうであるとしても作曲家や演奏家は音楽と音楽理論とを同一視しているわけではない。例えばバッハの音楽は積み重ねられた理論的研究に基づくものであるが、しかし誰もバッハの音楽は一つの理論であるとは言わない。また音楽の最も基本的な要素である音階の成り立ちを考えるだけでも、あるいはピアノなどの楽器の仕組みを考えるだけでも、音楽というのは非常に理論的なものであるように思われるが、そのように思っていても、実際に音楽を聴く者にとっては音楽は決して理論的なものではない。音楽そのものは理論ではないのである。

では哲学はどうなのであろうか。哲学は理論なのであろうか。然り、当然である、理論になっていない哲学など哲学とは言えない、と答える向きは少なくないであろう。しかし果たしてどうなのであろうか。哲学とは例えばイデア論(la théorie des Idées)のような哲学理論(théorie philosophique)のことなのであろうか。哲学とは自然とか魂とか社会とか言語とか道徳とか芸術などに関する哲学理論のことなのであろうか[2]。――我々の見解を述べよう。プラトンの『ソクラテスの弁明』やデカルトの『方法序説』のことを虚心に考えるならば、哲学は理論であると言うことはできそうにない。後世の哲学者や哲学学者による学問的(理論的)な註釈を剥ぎ取るならば、少なくともソクラテスの哲学[3]デカルトの哲学は理論ではない。というのはソクラテスにしてもデカルトにしても、自分の人生を語るという仕方で哲学を語ったからである[4]

ところでそもそも我々は理論というものをどのように了解しているのであろうか。人は二つの音楽を同時に聞くことはほとんどできないし、またそうすることを望まないが、例えばそのことが示すように、音楽は我々の眼前に陳列されるものではない。音楽は我々に現前するものである。しかもバッハやベートーヴェンの音楽のような崇高な音楽は、時代的なものでありながらしかしまた時代を超えたものとして、即ち或る種の永遠性を帯びて、生き生きと現前することができる。ところが理論というのはそうではない。理論は現前するものではない。理論(theoria)という言葉は(主観を排除して)眺めるという意味合いを持つが、理論は眺めることであると同時にそれ自体眺められるものである。理論は現前するものではなくて眺められるものである。従ってどの理論も他の理論によって眺められる。ということは、どの理論も他の理論(新理論)によって多かれ少なかれ修正され補足される、あるいは全面否定されるということである。その意味で理論というのは歴史的・時代的なものである。理論とか学説というのはどれほど優れたものであっても歴史的遺物として存続することしかできない。

また理論は(主観を排除して)眺めることである故に、それはおのずから生からの乖離である。理論的に考える者は魂について考える場合でさえ、主観の排除即ち学問的誠実性という大義名分のお蔭で、その者自身の魂を問題にすることを免れる。その者自身の生を問題にすることを免れる。これが生からの乖離(=偽善)ということであるが、己れ自身の魂を問題にしないということ、己れ自身の生を問題にしないということは、己れ自身の魂の真実性、己れ自身の生の真実性を問題にしないということである。理論的に考える者は己れの認識の正しさ(=真理性)ばかり問題にして、己れ自身の生の正しさ(=真実性)を問題にしないのである。そして生の真実性を問題にしないということ、即ち思考が生から遊離するということは、確信の欠如を意味する。理論はどれほど卓越したものであっても確信とはなり得ない。というのも確信とは思考と生との統合だからである。つまり確信を有する者にあっては、言っていることとやっていることとが食い違うということは起こり得ないのである。逆に言うと、(知識しかなく)確信を有しない者というのは、例えば良心という言葉を軽々しく用いながら、実際の振る舞いにおいては卑しいプライドに屈して良心のかけらも示そうとしない者である。

理論についての以上のような了解に基づいて、少なくともソクラテスの哲学やデカルトの哲学は理論ではないと我々は見る。それらはむしろ理論と対立するものである。即ちそれらは生の現実態、しかも永遠性を帯びた真実の生の現実態であり、また思考と生との統合である。ソクラテスデカルトの哲学を理論とか学説とか思想といったものに還元してはならない。あるいは、そのようなものとして受け取ってはならない[5]デカルトが学校に入る前から渇望していたのは「人生に有益な」認識である[6]。逆に言うと、彼が拒絶するのは人生に役立つことのない思弁(理論のための理論)である。そして何よりも重要なことは、デカルトは哲学を己れの人生そのものとして行なった哲学者であるということである。彼は20歳の時に学校を去り書物を捨てて旅に出た。そして確信をもって人生を歩むことを渇望しつつ、己れの人生を賭して、しかも長い年月を掛けて、懐疑(=精神の浄化)を遂行したのである[7]デカルト懐疑論なるものが世の中で話題になっているようであるが、デカルトが最も軽蔑するのは、このような生から遊離した机上の議論(無意味に難しい議論)に何の疑いも抱かないような人間であるに違いあるまい。

デカルトの哲学を頭で分かろうとしてはならない[8]。この哲学はバッハやベートーヴェンの音楽と同様に、単なる理屈で分かるものではないのである。警戒すべきは知性の思い上がりでありそしてそれに伴う知性の空洞化である。生から乖離した知性は言葉の上だけの議論(空中戦)に没頭するが、それはものを考えるということとは違うことである[9]。また哲学を哲学に関する知識と混同してはならない。既成の知識は己れの理解力を純粋かつ十全に働かせることを妨げる障害物であるということを肝に銘じなければならない[10] 。賢しらに振る舞う者は血の通っていない知識の奴隷となることによって自己を疎外しているのであり、その意味でマニアよろしく哲学を娯楽として消費する者と同列である。

要するに我々は己れの生・生き方を棚に上げることを許されないのである[11]。理論であれば理論的考察の対象となるが、いわば人格的な統一性であり全体性であるところの哲学を理解するためにはみずからも人格的修練を積まなければならない。即ちみずからも思考と生との統合を実現させなければならないのである。

 

               2

 

デカルトの哲学を殺したのは哲学は理論であるという巨大な先入観であると言うことができる。あるいは、それは哲学は形式論理であるという壮大な思い込みであると言ってもよい(弁証法論理であろうと何であろうと、単なる思考――即ち生と統合されていない思考――の論理を我々は形式論理と称する)。デカルト的思考は、あとで見るように、(数学や自然学の研究も含めて)生から乖離した形式的思考ではない。現実から隔離された概念空間における無時間的思考ではない。それは真善美聖という超越的な価値への熱烈な希求(高邁という気高い心)と一つになった思考である。それは<信仰生活>(vie religieuse)とはもちろん異なるがしかしそれと類比的な、価値的な<思考生活>(vie pensante)である。それは生の自己修練であるところの思考の自己修練である。ところが不思議なことに、こうしたデカルト的思考に対して形式論理を適用するという愚が、既に彼の同時代人によって行なわれているのである。

その話を進める前に、少し回り道をして、哲学者・夏目漱石の話に耳を傾けてみることにしよう。漱石は「中味と形式」と題された講演[12]の中でルドルフ・オイケンに言及しつつ、学者というのは「ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏め方をして得意になる事も少なくないのは争うべからざる事実であると私は断言したいのです」[13]と述べている。漱石によればオイケンは次のように言っている。現代人は一方で頻りに自由とか解放とかを主張しながら、同時に他方で秩序とか組織というものの必要性を強調するが、これら二つの要求(自由と秩序)は明らかに矛盾している。しかしこの矛盾はどちらかに片づけなければならない。矛盾したことを一纏めにして意味のある生活をしてゆかなければならないのである、と。こうしたオイケンの話に対して漱石は、(a)この矛盾は一纏めになるものではないし、(b)また矛盾と言えるのかどうかも問題であると言う。例えば事業家が事業を行なう場合、雇った多くの人間に規律を強制する(そうでなければ事業は捗らない)が、しかし同じ事業家が仕事を終えて家に帰った場合には、彼は自由な気休めを求める。業務についた時の生活と業務を離れた時の生活はどう見ても矛盾している。(a’)しかしこの矛盾は「生活の性質から出る已むを得ざる矛盾」である。(秩序と自由の)矛盾を無理やりどちらかに片づけようとすれば生活が成り立たなくなってしまう。つまりそれこそ本当の矛盾に陥るのである。(b’)また件の矛盾は形式上は矛盾であるが、「実際の内面生活」においてはむしろ「本来の調和」である。外面的に見れば矛盾であるが「内面の消息」ということからすればかえって「生活の融合」なのである。(つまりオイケンは形式上の矛盾を中味の矛盾と取り違えている。)[14]

ではどうして学者は「ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏め方」をするのであろうか。漱石の見るところでは、それは一つには、(i)学者というのは「すべてを統一したい」という欲求を強く持つ故に、なにがなんでも統一しようと躍起になるからであり、一つには、(ii)学者は通常「冷然たる傍観者」の立場に立つからである。この冷然たる傍観者の態度について漱石は次のように説明する。科学者がいくら綿密に自然を研究しても、自然は元の自然のままであり、自分も元の自分のままであるが、科学者の研究のみならず「哲学者の研究もまた永久局外者としての研究で当の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしていない場合が多い。学校の倫理の先生が幾ら偉い事を言ったって、つまり生徒は生徒、自分は自分と離れているから生徒の動作だけを形式的に研究する事はできても、事実生徒になって考える事は覚束ないのと一般である」と。しかし(科学者はともかく)哲学者が、「外からして観察をして相手を離れてその形をきめるだけで」よいのであろうか。相手の「内部へ入り込んでその裏面の活動からして自(おのず)から出る形式を捉え得な」くてよいのであろうか。

漱石は再びオイケンのことに立ち戻ってこう言う。「オイケン自身がこの矛盾のごとく見える生活の内面を親しく体現」してみれば、自分の迂闊さに気づくことができたであろう。「いくら哲学的でも、概括的でも、自分の生活に親しみのない以上は、この概括をあえてすると同時にハテおかしいぞ変だなと勘づかなければなりません」と。ここにおける、「生活の〔外面ではなくて〕内面を親しく体現」するとか、「自分の生活に親しみのない以上は」という言葉を、先の「(相手の)〔表面ではなくて〕裏面の活動からして自から出る形式」という言葉と共に心に留めておきたい。

 

               3

 

さて、デカルトは循環論法の嫌疑を一度ならずかけられた。しかしそれは彼が迂闊だったからであろうか。嫌疑をかけられないように注意すべきだったのにも拘らずそうすることを怠ったからであろうか。否、そうではない。迂闊だったのは嫌疑をかけた方である。デカルトは自分の自然学の或る箇所に関してこう述べている。「(・・・・・・)そこでは諸論拠は互いに繋がっている。つまり最後の論拠がその原因である最初の論拠によって論証され、また逆に最初の論拠がその結果である最後の論拠によって論証されるというようになっている。私にはそう思われる。しかし私がそこにおいて論理学者が循環論法と呼ぶ過ちを犯していると想像してはならない」[15]と。自分は論理学者が定める禁止を破っているわけではない。そのようにデカルトは言っているのである。但しこれは、自分は論理学の規則をきちんと守っているということではない。そうではなくて、自分は論理学者とは別の場所で哲学しているということなのである。仮にデカルトの思考の歩みを無理やり形式論理の土俵に乗せるならば、確かに彼は循環論法を犯していることになるであろう。しかしそもそもデカルトは循環論法があるかないかということが問題になる形式論理の次元で哲学しているわけではないのである[16]。ただ、とはいえ、デカルトの思考の歩みに何らかの循環があることは間違いない[17]

神の存在を信じなければならないというのは本当である。というのも、神が存在することは聖書において教えられているからである。また逆に、聖書を信じなければならないというのは本当である。というのも、聖書は神から授けられたものであるからである。――信仰生活を生きている者たちはこうした循環に何の問題も感じない。この循環は彼らの信仰生活に本質的なものなのである。ところが、デカルトが言うには、「信仰を持たない者たち」はそこに「論理学者が循環論法と呼ぶ過ち」を見出す[18]。無信仰者は信仰生活の実質に触れることをせずに(そもそも無信仰者は聖書を単なる紙切れのようなものとしてしか見ていない)、形式論理という出来合いの物差しを外側からあてがって断罪するのである。しかしこれこそまさに空疎な屁理屈である。信仰生活には形式論理とは異なる、それに固有の論理がある。信仰生活を成り立たせるフォルム――生の循環――があるのである。

そして価値的な思考生活(生の自己鍛錬としての思考の自己鍛錬)であるところのデカルト的思考も同じである。そこには形式論理とは異なる、それに固有の論理がある。神の存在は神の存在の証明によってその真理性が確立され、神の存在の証明は神によってその真理性を保証される。デカルト的思考を生きる者はこうした循環に何の問題も感じない。それはデカルト的思考生活を成り立たせるフォルムなのである。ところが、人は傍観者の眼によってこの循環を循環論法と看做しデカルトを批判した。デカルトの循環と呼ばれる難問は、デカルト「と共に真面目に省察する」[19]ことを欲しない者、そうすることができない者、頑なに形式的・記号的推論の合理性[20]しか信じない者が、いわば外野席で作った虚偽問題に過ぎない。我々はそれをきっぱりと解消しなければならない[21]。そして循環論法とは異なる根源的な循環――生の循環――を開示しなければならない。<哲学という循環的生>を開示しなければならない。(なお神をめぐる循環には本稿の最後でもう一度触れることにする。)

 

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方法序説』において、デカルトはまず方法を定めることによって真理の探究のあり方を規定し(第2部)、次いで道徳を定めることによって実生活のあり方を規定した(第3部)のであるが、本稿では真理の探究と実生活との関係(認識と行動との関係)というところから生の循環に迫ってゆくことにしたい。しかしそうするためには、その前に、実生活のみならず真理の探究もまた生(即ち価値的な思考生活)であるということ、方法の規則も道徳の規則もどちらもいわば知行合一的な規則であり、真理の探究も実生活もどちらも思考と生との統合であるということを明らかにしなければならない[22]

方法の規則を示すに先立ってデカルトはこう述べる。「沢山の法律はしばしば悪徳に口実を与えるのであり、従って国家が極めて少ない法律しか持たず、かつその少ない法律が厳格に守られている場合の方が国家ははるかによく統治される。それと同様に、それを守ることを一度たりとも怠るまいという固く変わらぬ決意をするならば、論理学を構成する夥しい数の規則の代わりに、次の四つの規則で十分であると私は信じた」と。この件りは注意深く読まなければならない。規則を必ず守るという決意があれば「四つの規則」で十分であると言われているのではない。そうではなくて、「次の四つの規則」で十分であると言われているのである。ということは、「次の四つの規則」は「それを守ることを一度たりとも怠るまいという固く変わらぬ決意」から切り離し得るものではないということである。つまり問題の規則はそれを必ず守るという決意と一つになった規則である。従ってそれは守られたり守られなかったりする規則ではない。言い換えると、実践から離れてそれ自体として存立する規則ではない。方法の規則は単なる知識として存立する規則ではなくて、実践と一体となった規則なのである。

『哲学原理』仏訳序文を見ると、そこでは、論理学(=方法)[23]は「己れの理性をよく導くことによって未知の真理を発見することを教える」ものでなければならないとされた上で、この論理学は「使用(usage)に依存する故に、その規則の実践練習を長い時間をかけて行なうことが大切である」と言われている[24]。論理学(=方法)は使用に依存する(即ち使用から独立していない)故に実践練習が大切なのである。そのように言われているわけであるが、言われている事柄を理解するために、ここで四則計算方法のことを考えてみよう。(a)加減乗除の練習は重要である。練習を重ねることによって計算のスピードは上がり正答率も高まるのである。しかしこのことは計算が次第に自動運動に近づくことを意味する。つまり精神が自由(自発性)を失って行くことを意味する。(b)また問題を解く時、我々はもちろん予め答えを知っているわけではないが、答えがあること、即ちいつか必ず答えが出ることは予め分かっている。(c)そして計算問題というのは、それを速く解こうが遅く解こうが、またそれまで練習にどれだけの時間をかけているかに関係なく、出されるべき答えは同じである。つまり計算にとって時間は本質的な意味を持たない。

以上の三点を踏まえて、計算問題を解くことは「未知の真理を発見する」ことであると言うことはできないと我々は判断する。というのも、(a’)未知の真理の発見は思考の自動化ではなくて、思考の自己創造、精神の成長であるからであり、(b’)また、未知の真理の発見という言い方が可能であるのは、真理の発見が為され得るか否かが予め分からない場合だけであるからであり、(c’)真理の発見とは上で述べたように思考の自己創造、精神の成長であって、それ故それは(時間の外に立つのではなくて)時間を生きるという仕方でのみ為され得るからである。ところでデカルトの論理学(=方法)は未知の真理を発見することを教えるものである。従ってそれは精神の時間的成長そのものである[25]。即ちそれは使用に先立って存在する方法ではなくて、使用と共に、即ち思考の自己創造と共に、生まれる方法なのであり、つまりそれは「使用に依存する」のである。

先の、規則を必ず守るという「固く変わらぬ決意」のことに話を戻すと、この「固く変わらぬ決意」という言い方は『情念論』153節にも見られるものであり、そこでは、高邁は「意志をよく用いようという固く変わらぬ決意を自分の内に感じる」ことに存するとされている[26]。高邁な者にとっては、意志をよく用いることはそうしようという固く変わらぬ決意と不可分なことなのである。即ち意志をよく用いるべしという空虚な形式がまずあり、次いでその形式が実践によって実質を得る、というのではないのである。意志をよく用いるということは、はじめから実践としてある。それは実践としてしかないのである。そこで指摘しなければならないことは、「意志をよく用いようという固く変わらぬ決意」はよき生への決意であるということ[27]、そして方法の規則に関して言われる「固く変わらぬ決意」も、少なくとも間接的にはよき生への決意であるということである。上で精神の時間的成長という言い方をしたが、真理の探究は時間を生きることである。つまりそれは実生活ではないがやはり生を生きることであり、そして生き方の問題である。方法の実践としての真理の探究は、同時に生の自己修練でもある思考の自己修練なのである。

このことを確かめるために、『方法序説』第2部を開いてみよう。デカルトは改革ということについて次のように考える。街のあらゆる家を作り直して街の道路をより美しくする、という目的だけのためにすべての家を取り壊すというようなことは確かに見かけないが、しかし自分の家を建て直すためにそれを取り壊す人はよくいる。特に家が自然倒壊する恐れがあったり基礎が緩んでいたりする場合にはそうせざるを得ない。このような例に基づいてデカルトはこう確信した。一個人が国家を基礎から全面的に改革することを企てるなどということはあってはならないし、学問の組織や教育の秩序の改革を企てるということさえあってはならない。しかし私がそれまで自分の信念の中に受け容れてきた意見となると話は別であって、そうした意見をすべて一度きっぱりと私の信念から取り除くことを企てることが私の為し得る最善のことなのである、と。そこでデカルトは言う。自分の思考に関しては基礎から築き直す方が、「古い基礎の上にしか築かない場合よりも、はるかによく私の生を導く(conduire ma vie beaucoup mieux)ことに私は成功すると固く信じたのである」と[28]。「はるかによく私の生を導く」。自分自身の思考の改革(精神の浄化・真理の探究)は実生活ではないが、デカルトにとってそれは<よく生きる>という課題を果たすものなのである。

さて、上で見たように、方法は「使用に依存する」。つまり方法の規則は単なる知識として存在するものではない。それはいわば知行合一的な規則なのである。そして次に見るように、道徳の規則も同じである。道徳がよく生きるためのものであることは言うまでもないが、デカルトが言うには、いわゆる暫定的道徳を彼がみずからに定めたのは、「我々は取り分けよく生きることに努めなければならない(nous devons surtout tâcher de bien vivre)」[29]からである。「よく生きることに努めなければならない」。デカルトはそう言っている。つまり、単に、よく生きなければならないと言っているのではない。では、この「努める」という言い方は何を意味するのであろうか。

「よく生きることに努める」ということは、よく生きることを精一杯行なうということであろう。できる限りよく生きるということであろう。上の「我々は取り分けよく生きることに努めなければならない」という言葉は『哲学原理』仏訳序文にあるものであるが、『方法序説』では「できる限り幸福に生きる(vivre le plus heureusement que je pourrais)ことをやめないために」、暫定的に道徳を定めたと言われている。努力という言葉はデカルトがしばしば用いる「できる限り」[30]という言葉と繋がっている。また、「努力」とか「できる限り」という言葉は「本気=真面目(sérieux)」という言葉にも繋がっているであろう。デカルトは『省察』の読者に、「私と共に真面目に(serio mecum)省察すること、本気で精神を感覚およびあらゆる先入観から引き離すこと」[31]を求めたのであるが、真面目=本気は「確信・安心(assurance)」を得る秘訣なのである[32]不真面目に疑う者、口先だけで疑う者、疑う振りをするだけの者は、決して確信に到ることができない[33]。確信に到るためには真剣に疑わなければならない。真剣に疑うことによってこそ、疑う自分の存在を確信することができるのである。つまりそうすることによってこそ、思考と存在(生)との一体性(「我れ思う、故に我れあり」)を実現させることができるのである。従って、「よく生きることに努めなければならない」ということに戻ると、この努力において、よく生きるという“考え”とよく生きる“生”とが一致するのである。デカルトはよく生きるとは如何なることかということに関して理論的探究を行なったわけではない。彼は自分のための格率を定めたのであって、普遍的な道徳法則の探究を行なったわけではない。デカルトの哲学は実践についての理論ではない。そうではなくて実践の実践である。

第三の格率としてこう語られている。「運命によりもむしろ自分(私)に打ち克ち、世界の秩序よりもむしろ自分(私)の欲望を変えることに、常に努めること(tâcher toujours)。一般的に言うと、我々の思考以外には完全に我々の力の内にあるものは何もないのであり、従って我々の外にある物事に関しては、我々の最善を尽くしたあとでもうまくいかないことはすべて我々にとって絶対に不可能なことであると、信じる習慣をつけること(m’accoutumer à croire)」[34]と。そして続いてこの格率の効用(つまり満足感)が語られ、更にこう言われる。「しかしあらゆる物事をこのような角度から見る習慣をつけるためには、長時間かけて練習すること(un long exercice)、そして省察を頻繁に繰り返すこと(une méditation souvent réitérée)が必要である、ということを私は認める」[35]と。自分の思考以外には完全に自分の力の内にあるものは何もないと「信じる」ことは極めて難しい。そこでデカルトは、信じることではなくて、信じる「習慣をつける」ことを格率とする。しかし信じる習慣をつけることもまたやはり容易ではない[36]。そこでデカルトは今見たように「習慣をつける」ためにはどうしなければならないのかを語るわけであるが、ということは、道徳というのは実践されることにおいてはじめて存在することになる、そういうものであるということである。

方法の規則を何時間もかけて練習することが大切であるのは、方法は「使用に依存する」からであった。とすれば、道徳の規則、即ち格率が「長時間の練習」と「反復される省察」を必要とするのは、方法と同様に道徳も「使用に依存する」からである。そして、特に「反復される省察[37]とか「信じる習慣をつける」という言い方が端的に示しているように、道徳の実践としての実生活は単に生の修練であるのではなくて、同時に思考の自己修練であるところの生の自己修練である。

 

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以上、<方法に従う真理の探究>も<道徳に従う実生活>もどちらも思考と生との統合であることを示したわけであるが、ここで是非指摘しておかなければならないことは、実生活をどう生きるかということは決して哲学の埒外の問題ではないということ、そして方法は道徳から切り離してそれだけを問題にすることのできるものではないということである。デカルトの哲学というと恐らく誰でもすぐ「我れ思う、故に我れあり」を念頭に浮かべるであろうが、この哲学は何よりもまず良識の哲学であるということを忘れてはならない。「私が私の審判者であってほしいと願うのは、良識を研究に結びつける人たちだけである」。良識をよく用いない人には自分の言っていることは分からない。だから自分は学者の言葉であるラテン語ではなくて、母国語であるフランス語(日常語)でこの書物を書いたのだ[38]デカルトは『方法序説』の最後の方でそのように言っているのであるが、良識というのは一方で「我れ思う、故に我れあり」という個人性を含むと共に、他方でこのように(日常語の次元、即ち実生活の次元であるところの)公共性・社会性を含むのである[39]。つまり個人性と社会性とを同時に含むのが良識なのであり、従って「我れ思う、故に我れあり」をそれだけ取り出して独り歩きさせることは、良識の哲学であるデカルトの哲学を大いに歪めることになるのである[40]

さて、では方法と道徳とはどのような関係にあるのであろうか。一見してすぐ気づくことは、方法の規則と道徳の規則は対照的であり対立し合うということである。即ち、しばしば指摘されることであるが、前者が革新性の色彩が極めて濃厚なものであるのに対して、後者は保守性の色彩が極めて濃厚なものである[41]。つまり前者が根源的(ラディカル)であるのに対して、後者は体制順応的である。例えば方法の第1の規則には「私が明証的に真であると認めるのでなければ如何なることも真として受け容れないこと」[42]とあるが、他方、道徳の第1の格率には「私の国の法と習慣に従うこと。そして神の恩寵により子供の時から教えられた宗教を常に変わらず持ち続け、宗教以外のあらゆることにおいては(・・・・・)最も穏健な意見に従って自分を導くこと」[43]とあり、また第三の格率には「世界の秩序よりもむしろ自分の欲望を変えることに常に努めること」[44]とあるのである。

方法の規則と道徳の格率との対立は、疑うことと信じることとの対立であると言うこともできる。方法の第1の規則には「疑う余地のまったくないほど私の精神に明晰かつ判明に現前すること以外は何ものも私の判断に含ませないこと」とあるが、それに対して道徳の第2の格率には「どんなに疑わしい意見であっても、一度決めた以上は、それが極めて確実である場合と同様に、常に変わらずそれに従うこと」[45]とある。つまり、真理の探究においては現に信じていることを敢えて疑うが、実生活においては疑わしいことをも敢えて信じるというのが、青年デカルトが立てた方針なのである。

ではこうした対立あるいは矛盾を我々はどのように解したらよいのであろうか。まず指摘しなければならないことは、真理を見極めるためには懐疑の敢行によって虚偽を見定めなければならず、また行動するためには懐疑を抑制して自分の行動の正しさを信じなければならないというのは、それぞれ理に適ったことであるということである。つまり方法と道徳との間のこうした矛盾は真理の探究と実生活の各々の本性に由来するのであって、その意味で止むを得ないことなのである。ではデカルトはこの矛盾を、即ち生活の二重性を、ただ止むを得ないこととして甘受しているだけなのであろうか。否、そうではない。哲学者は<疑う生>と<信じる生>という二つの生の間で引き裂かれているのではない。もちろん真理の探究は真理の探究として為され、実生活は実生活として営まれるのであるが、両者は単純に分断されているのではないのである。しかしとはいえデカルトは矛盾を理論的に解決しているというわけではない。理論上の解決は無効であるというだけではなくて、そもそも必要ないのである。というのも良識が現実的な解決を行なっているからである。深刻な矛盾を現実の生の場所で解決する――但しこれは二元性を一元化することではない――のが良識というものなのである。

ところで方法と道徳との関係は、真理の探究という孤独な生=<内的生>と、実生活という世界の中での生=<外的生>との関係でもある。まずは内的生と外的生との関係をテキストを検討しながら明らかにすることにしたい。疑う生と信じる生との関係はあとに回すことにする。

方法序説』第1部の終わりから二つ目の段落を見てみよう。この段落は、「というわけで、教師たちの束縛から脱することが許される年齢になるや、私は書物の研究を完全にやめた。そして、私自身の内に、あるいは世間という大きな書物の中に見出され得る学問以外の学問は求めまいと決心して、私の青春時代の残りを、旅をすることや、宮廷や軍隊を見ることや、色々な気質や身分の人たちと交際すること(・・・・・)に用いた」[46]という文章で始まる。ここには「世間という大きな書物」というよく知られた言葉が見られるわけであるが、そればかりに気を取られてはならない。「私自身の内に、あるいは世間という大きな書物の中に(en moi-même, ou bien dans le grand livre du monde)」と言われていることに注意しなければならないのである。このことは何を意味するのであろうか。上の引用で省略した部分は、「様々な経験を集めることや、運命が私に差し出す遭遇において私自身を試練にかけること、そして到る所で、眼の前に現れる物事について反省をしてそこから何らかの利益を引き出すことができるようにすること」となっているのであるが、件の「私自身の内に」は特にこの「反省」に結びつけることができると考えられる。反省とは私自身の内において行われるものである。そして、世間という大きな書物を読むという経験は、私自身の内における反省を必要とするのである。経験は経験のままでは経験と呼びうるものにはならない。経験は回顧され内省が加えられることによってはじめて真に経験となるのである。つまり外的生は内的生を必要とするのである[a]。

次の最後の段落では、冒頭で、「他の人々の生活慣習を考察することしかしなかった間、私はそこに確信するに足ること[47]をほとんど見出さなかった」と語られ、そして最後の方で、「しかし数年かけて世間という書物の中でこのように研究し(étudier ainsi dans le livre du monde)、幾らかの経験を獲得することに努めたあと、或る日私は、私自身の内でも研究すること(étudier aussi en moi-même)、そして私が従うべき道を選ぶことに私の精神の全力を傾けることを決心した」[48]と述べられる。ここで読み落としてはならないのは“aussi”という副詞である。「私自身の内でも研究する」ということは、世間という書物の中で研究することも引き続き行なわれるということである。世間という書物の中で研究するという外的生は、私自身の内で研究するという内的生によって乗り越えられてしまうわけではない。外的生は内的生の単なる前段階ではないのであり、むしろ外的生なくしては内的生は成り立たないのである。内的生は外的生を必要とするのである[b]。

その証拠に、デカルトはこうつけ加えている。「このことは、私が私の国からも私の書物からも決して離れなかった場合よりも、はるかにうまく果たし得たと思われる」と。つまり、自分の国も自分の書物も捨てて世間という書物の中で研究するということを行なったからこそ、私は私自身の内で研究するということ、そして精神の全力を傾けて自分の進むべき道を選ぶということをうまく為し得たのだ、というわけである。これは要するに、外に出たからこそ自分の内面に入ることができたということである。そして『方法序説』第3部でも同じ逆説が語られている。道徳の格率と信仰の真理とを除いてあらゆる意見を捨て去るという企てについて述べたあと、「この企てをやり遂げるには、これらすべての思考を行なった炉部屋にこれ以上長く閉じこもっているよりも、人々と会話する方がよいと思ったので、冬がまだ十分に終わらぬうちに私は再び旅に出た」[49]デカルトは語っている。今まで受け容れてきたあらゆる意見を捨て去るという内的作業を行なうためには、外に出て、まさにそうした意見の持ち主であると考えられる世間の人々と交わる方がよいと思ったというわけである。

ところで炉部屋を出たデカルトは、それから「まる九年の間、世間の中をあちこち放浪することしかしなかった」。しかし、ただ放浪したのではない。「世間で演じられるあらゆる芝居において、役者であるよりもむしろ観客であることに努めつつ」放浪したと言っている。では、「観客であることに努める」とはどのようなことなのであろうか。このことは、直後で語られる、「かつて私の精神の中に滑り込むことのできた一切の誤謬を私の精神から根こぎにしていった」という懐疑と、どのように関係するのであろうか。二つのことは一見無関係のことのように思われるが、しかしそうではない。役者であるよりもむしろ観客であることに努めるという努力は、懐疑の努力と或る面で相通ずると考えられるのである。いくら芝居とはいえ、芝居の観客というのは我れ関せずを決め込む傍観者ではない。むしろ眼と耳をじっと凝らして芝居に見入る者である。疑う者も同じである。疑うということは疑う対象をよく吟味することであり、対象の表面を突き破ってその奥に入り込むことである。但しそれは対象に埋没することではない。疑うということは対象の虚偽性を暴くことである故に、それはむしろ対象から距離を取り内省することである。芝居を観ることも同じである。それは芝居の中に入り込むことであるが、とはいえ芝居にのめり込むことではない。うつつを抜かしてしまったら芝居は芝居ではなくなってしまう。芝居を観ることはそれを鑑賞することである故に、それはむしろ自分の感覚を研ぎ澄ましそしてその自分の感覚を自覚することである。つまり内省することである。このように、芝居を観ることにしても、疑うことにしても、外に向かうことにおいて内に戻る、その努力である。ここで改めて確認したいことは、外に出ることによってこそ内に戻ることができるということである。デカルトは「世間という書物の中で研究する」からこそ、「私自身の内でも研究する」ことができたのである。世間という書物を卒業してしまうことはできない。

ところで炉部屋を出たのちのまる九年の旅の間に、デカルトは着々と懐疑を進めると共に、「更に、みずからに定めた方法の練習を続けていた」。そして「絶えず私の計画を続行し、絶えず真理の認識において成長した」。但し、それには或る条件が必要であった。「もし書物を読むことや学識者たちと交際することしかしなかったらば」、恐らくそううまくはいかなかったであろう。デカルトはそのように語るのである[50]。では、道徳の格率を守るのはもちろんのこととして、彼は当時どのように生活していたのか。「穏やかで罪のない生活を送ることだけが仕事であるので快楽を悪徳から切り離すことに専心し、また、退屈せずに自分の余暇を楽しむために品位のあるあらゆる娯楽を利用する、そのような人たちと、見たところ異なる仕方で生活する」ということはしなかった。つまり書物を読んだり学識者と交際したりするのではなくて、上のような人たちと見たところ同じような仕方で生活した。要するに炉部屋を出たのちの九年の間の実生活は、真理の探究とはまったく異種のものであった。しかしそうであったからこそ、真理の探究は捗ったのである。

以上において確認したように、外的生と内的生との間には、即ち実生活と真理の探究との間には、前者は後者を必要とし後者は前者を必要とするという関係がある。良識は外的生と内的生との生の深刻な二重性(矛盾)を、両者を循環させるという仕方で統一するのである。但し循環させるといっても、この循環は生そのものに属する循環である。即ちそれは生のフォルムとしての生の循環である。

 

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ところで『方法序説』の序文では、道徳は方法から引き出されたものであるとされている。これはどういうことなのか。この問題を出発点にして、疑う生と信じる生との関係という問題へと進んでゆくことにしたい。

[a] 方法の優位

デカルトが暫定的に道徳を作ったのは、「理性が私に私の判断において非決定であるように強いる間、私が私の行動において非決定のままである、ということのないようにするため」[51]である。思考の改革を行なっている間は、私は自分の判断を控えなければならない。しかしかといって自分の行動を控えるというわけにはいかない。そこでデカルトは格率を定めたのである。ということは、思考の改革という企てが道徳(暫定的道徳)の前提条件であるということである。道徳は真理の探究のいわば枠内にあるものである。ここで第1の格率に関する説明を見てみよう。その最後の方でデカルトは約束というものを戒めている。この世には何一つとして同じ状態に止まるものはない。つまり、はじめはよいことと思われたことが、あとになってよいことではなくなる、あるいはよいこととは思われなくなる、といったことが大いにあり得るのであるが、約束をしてしまうとそのような場合でもそれをよいこととせざるを得なくなる。しかしそれは「良識に対して大きな罪を犯す」ことである。というのも、私が心に決めていたことは、「私の判断をより悪くすることではなくて、それを次第に完全なものにすること」だからである[52]。そのようにデカルトは言っている。つまり第1の格率は自分の判断を次第に完全なものにするという企てを前提するのであり、その意味でそれに従属するのである。

もう少し先を読んでみよう。三つの格率についての話が済んだあとデカルトは、「道徳の結論」として「私の理性を陶冶することに私の全生涯を捧げ、私がみずからに定めた方法に従って真理の認識においてできる限り前進すること」が自分のできる最善のことであると考えた、と述べる[53]。そしてその上で、「以上の三つの格率は自分を教育し続けるという私の計画にのみ基づく(fondées)ものであった」と言うのである[54]。自分の判断を次第に完全なものにすること、全生涯にわたり自分の理性を陶冶すること、自分を教育し続けること、こうした企てが基本であって、格率はそれにのみ基づくのである。「道徳の結論」としてデカルトが語っていることは要するに、道徳は真理の探究を前提条件にするということなのである(道徳は方法から引き出したものであるというのはこのことを意味すると考えられる)。従って例えば他人の意見に従う(第1の格率)といっても、それはあくまで、いずれは「私自身の判断を用いてその意見を吟味する」ということを見越してのことである。「神は真と偽を識別する或る光を我々すべてに与えている」のである。

[b] 道徳の優位

しかし格率は理性の陶冶の企てを前提しそれに基づいているとばかりは言えない。以上のような話を終えたあと、デカルトは次のように言う。「こうしてこれらの格率を確保し、私の信念の中で常に第一の真理であった信仰の真理と一緒にこれらの格率を別にしたあと、私の意見の残りのすべてについては、それらを捨て去ることを自由に企てることができると私は判断した」[55]と。これは道徳の格率と信仰の真理を、あらゆる意見を捨て去るという懐疑の企ての欄外に置くということであるが、ではどうしてそうするのであろうか。確かに道徳や信仰の真理までも懐疑の対象にしてしまうならば生活は混乱し成り立たなくなる。そして、生活が成り立たなくなれば懐疑を企てること自体も不可能になる。しかしそれだけではない。もっと本質的なことがある。道徳と信仰がしっかりと保たれ、そしてそのことによって実生活がしっかりと保たれなければならない。というのも、みずからの思考の改革を企て者、真理の探究を行なう者は、堅実な実生活を送る者でなければならないからである。そうでなければ、「真理」の観念というものからして現実から遊離したそれこそ観念的なものになってしまうのである。真理という言葉が現実性を持つためには、真理の探究は実生活と何らか繋がっているのでなければならない。そこに深く根を張っているのでなければならない。革新的な真理の探究は保守的な実生活によってこそ支えられる。しっかりと保たれた道徳と信仰の真理こそは、即ちしっかりと保たれた実生活こそは、思考の根本的改革それ自体の土台なのである[56]

こうして我々はデカルトの言葉を梃子にして方法の優位という立場を覆し、方法の優位から道徳の優位へと観点を移した。つまりデカルトには方法の優位と道徳の優位の両方が存在するわけであるが、この二面性は『方法序説』第3部におけるいわゆる暫定的道徳の二面性を意味する。暫定的道徳をめぐってはこれまで多くの議論が研究者たちによって為されてきたが、我々の見解を述べるならば、方法の優位という観点に立つ場合には、暫定的道徳は(決定的道徳と称すべき)自律的・合理的な道徳の前段階、つまりまさに暫定的なものであることになるが[57]、道徳の優位という観点に立つ場合には、それ自体が決定的道徳であることになる。特に第2の格率は決して乗り越えられ得ないものであろう。実生活の行動というのは必ず個別的なこと(個一般ではなくて具体的な個)に関わるのであるが、この個別的なことに関しては、たとえ思案する猶予が十分に与えられたとしても、疑いを完全に取り除くことはできない。つまり誤りの可能性が常にあるのである。第6省察の末尾、即ち『省察』全体の末尾でデカルトは、人間の生(humana vita)は個別的なことに関しては誤りに陥りやすいということを告白しなければならないのであり、つまりは、我々の本性の弱さを承認しなければならないのであると書いている[58]。真と偽を区別することをどれほど学ぼうと、実際の具体的状況に関しては判断は常に誤り得るのである。従って疑わしいことをも敢えて信じるという第2の格率がいつか御用済みになってしまうということはあり得ないのである。

 

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[a’] 認識の優位

ところで道徳に対する方法の優位は、行動に対する認識の優位を意味する。「以上の三つの格率は自分を教育し続けるという私の計画にのみ基づくものであった」ということ(方法の優位)に関する説明の中で、デカルトは「よく行なうためにはよく判断するだけで十分である」という、即ちよき判断が為されさえするならばよき行動が為されることになるという、主知主義的な主張を行なっているのである。

しかしデカルトはこうした主知主義的な立場にそのまま留まることはない。「よく行なうためにはよく判断するだけで十分である」と語った直後に、「また(et)自分の最善のすべてを為すためには自分のできる限りよく判断するだけで十分である」と続けるのである[59]。つまり「よく行なう」は「自分の最善を為す」と言い換えられ、「よく判断する」は「自分のできる限りよく判断する」と言い換えられるわけであるが、「自分の最善のすべてを為すためには自分のできる限りよく判断するだけで十分である」という立場は、「よく行なうためにはよく判断するだけで十分である」という主知主義的な立場の単なる変奏ではない。「自分のできる限りよく判断する」という表現は、実生活の行動に関しては間違いのない判断などあり得ないということの深い自覚を背景としているのであり、従って「自分のできる限りよく判断する」というのは認識の一つのあり方であるというよりも、或る意味で認識の断念なのである。そのように考えられるのであるが、ともあれetという接続詞を挟んでデカルトは微妙に立場を変えている。

ただ、「自分の最善を為すためには自分のできる限りよく判断するだけで十分である」という表現それ自体は、あくまでも行為に対する判断の先行を意味するのであって、判断に対する行為の先行を意味するのではない。しかし少なくとも、主知主義的な立場と非主知主義的な立場が接続詞etを蝶番にして繋がっているということは間違いなく[60]、そしてまた、このあと見るように、デカルトには「はじめに行為ありき」という立場が存するということも間違いないのである。

[b’] 行動の優位

改めて第2の格率が語られている箇所を読んでみよう。「自分の行動において、できる限り断乎とし毅然としていること、即ち、どんなに疑わしい意見であっても、一度決めた以上は、それが極めて確実である場合と同様に、常に変わらずそれに従うこと」という格率を示したあと、デカルトは森の中で道に迷った旅人の例を持ち出す。そして更にそのあと、「実生活の行動はしばしば如何なる猶予も許さないので」、次のことは「極めて確実な真理である」と述べる。では何が「極めて確実な真理」なのか。それは、「より真なる意見を識別することができない場合には最も蓋然的な意見に従わなければならず、またたとえ他の意見よりもいっそう多くの蓋然性を含む意見がまったく認められないとしてもやはりどれかに決めなければならず、決めたあとは、その意見をそれが実践に関するものである限りもはや疑わしいものと看做すのではなくて、極めて真で極めて確実なものと看做すのでなければならない」ということである。このことは「極めて確実な真理である」とデカルトは言うのである。

しかし疑わしい意見を極めて真で極めて確実なものと看做すにはそれなりの理由があるのでなければならないのではないであろうか。然り。上の引用では省略したが、デカルトはその理由をも述べている。「我々をしてその意見に決めさせた理由は極めて真で極めて確実である」ということが、その疑わしい意見を極めて真で極めて確実なものと看做す理由なのである[61]。では「我々をしてその意見に決めさせた理由は極めて真で極めて確実である」とどうして言えるのであろうか。それは他でもない、我々がその意見を極めて真で極めて確実なものと看做すからである。つまり簡単に言うと、自分の採った道は正しいと信じるから、その道を採った理由は正しいことになるのである。つまり理由があって決断があるのではなくて、決断があって理由があるのである。正しい理由があって然るのちに正しい決断(行動)があるのではなくて、正しい――と自分が信じる――決断(行動)があって然るのちにその決断をもたらす理由は正しいものであることになるのである。決断に先行するはずの理由は決断によって先行されるのである。というわけで第2の格率は、よき判断からよき行動が生まれるのではなくて、よき行動からよき判断が生まれるということを意味する。従ってそれは、「よく行なうためにはよく判断するだけで十分である」という主知主義的な主張を逆転させるものである。つまりそれは認識に対する行動の優位(「はじめに行為ありき」)を意味するのである。

ところで、ここで指摘しなければならないことがある。それは第2の格率は盲信や狂信とはまったく無関係であるということである。それは認識を排除せよと言っているのではない。疑いを排除せよと言っているのではない。「それが極めて確実である場合と同様に」と訳したところは、原文では接続法大過去が用いられている。即ち「それが極めて確実である場合」というのは条件節なのであり、つまりデカルトは疑わしい意見を確実な意見に捻じ曲げるのではなくて、それを確実な意見と仮定するのである。ということは、自分が従う意見は疑わしいものであるということをデカルトははっきり自覚しているということである[62]。その証拠に、実は第2の格率は、「もしよりよい意見があるのであれば、それを見出す如何なる機会をも逸することのない」ことを期待する、そうした期待を前提しているのである[63]

そして自分の採る意見が疑わしいものであることの認識は、第2の格率を盲信や狂信と無縁たらしめるだけではなくて、それを半信半疑とも無縁たらしめる。デカルトはどれほど疑わしい意見であっても極めて確実なものと看做す。極めて確実なものと信じる。ということは、この場合、それが疑わしいものであることを認識しているということである。しかしということは、もしかしたら将来出てくるかもしれないよりよい意見を見逃さないことを期待しているということである。そうであるからこそ毅然と振る舞うことができるのであり、逆にそのことを期待しているのでなければ不安やためらいが生じてしまうのである。疑わしいことを認識しているからこそ、安心して信じることができる。(認識的に)疑うからこそ、(行為的に)信じることができるのである。というわけで、第2の格率は疑うことと信じることとの混在である半信半疑とはまったく無縁のものである。

そこで今度は、道徳の第2の格率と対を成す方法の第1の規則について改め考察してみよう。この規則は、「私が明証的に真であると認めるのでなければ如何なることも真として受け容れないこと、即ち注意深く速断と偏見を避け、疑う余地のまったくないほど私の精神に明晰かつ判明に現前すること以外は何ものも私の判断に含ませないこと」というものであるが、注目したいのは「疑う余地のまったくないほど」ということある。「疑う余地(occasion)のまったくないほど」というのはどういうことなのであろうか。もし認識の立場に立つならば、疑う余地がないということはあり得ないのではないであろうか。疑おうと思えばどんなことでも疑うことができるのではないであろうか。しかしどんなことでも疑い得るということを逆手にとって、どんなことでも疑い得るということは疑い得ないと言うことができるように思われる。これは古くからある議論であり、デカルトもそれに触れているが、どんなことでも疑い得るということ自体は本当に疑い得ない確かなことなのであろうか。疑おうと思えばそのことさえ疑うことができるのではないであろうか。然り、認識の立場に立つ限り懐疑を止めることは決してできないのである。

森で道に迷った旅人はぐずぐずしていてはならない。すぐに決断を下さなければならない。そして自分の採った道は正しいものであると信じ、そう信じて行動しなければならない。信じることによって、即ち行動することによって、疑いは止むのである。信じなければ、即ち行動に移らなければ、疑いは止まない。これが第2の格率から我々が学び得ることの一つである。躊躇や後悔(これらは要するに疑いである)が生じるのは認識の立場に立つからである。基本的に行動の人であるデカルトは躊躇や後悔に苦しめられない。さてそこで第1の規則に戻ると、どうして「疑いの余地はまったくない」と言うことができるのであろうか。それは問題となっている事柄が私の精神に非常に明晰かつ判明に現前するからであると、一応は言える。しかし非常に明晰かつ判明に現前するといっても、どの程度明晰かつ判明であれば疑いの余地はないということになるのであろうか。この疑問に答えることはできないであろう。どの程度かを言うことはできない。言うことができるのはただ、私が明晰かつ判明に現前する事柄の真理性を信じた時に疑いの余地がなくなるということ、このことだけである。私が行動の次元に身を移さない限り(即ち意志的にならない限り)、疑いの余地はなくならない。疑う余地がないから信じるのではなくて、(行為的に)信じるから疑いの余地がないということになるのである。信じる気がないのであれば、いつまでたっても疑いの余地は残る。明証の光に包まれそれに能動的に服従する気のない者にとっては、いつまでも疑いは止まないのである。

 

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方法の第1の規則は疑うことを命じるが、認識が疑いの余地を残さない明晰判明性に到ることができるのは、私が認識の次元に留まらずに行動の次元に移る(即ち意志的になる)からである[64]。つまり信じるからこそ疑いの余地がないことになるのである。また道徳の第2の格率は信じることを命じるが、疑うから(即ち疑わしいという認識があるから)こそ信じることができる(信じて行動することができる)のである。というわけで、方法と道徳は<疑う生>と<信じる生>として対立し矛盾するが、しかし方法と道徳のそれぞれにおいて疑う生と信じる生とは緊密に絡み合っている。しかも前々節において見たように、道徳は方法を前提し方法は道徳を土台とする(方法の優位と道徳の優位)。従って方法と道徳はあくまでも別のものであるが、しかし両者は循環的に統一されていると言うことができる。生の二重性は生の分裂を意味しないのである。デカルトが方法と道徳との間の矛盾をまったく意に介していない所以である。

方法と道徳は、即ち疑う生と信じる生は、循環関係にあるということは偶然ではない。循環性は生に本質的なものなのである。そして我々が行なっていることは、本源的生の循環性を開示するという仕方でデカルトの哲学を甦生させることなのである。そこで本稿の締めくくりとして、先に触れた神をめぐる循環に関して少し述べておくことにしたい。

[α]神の存在を信じる気のまったくない者は、いくら聖書を読んでも神の存在を信じるようにはならないであろう。つまり聖書は既に神の存在を何らか信じている者にとってしか聖なる書物であることはできないのである。従って聖書は神の存在(の信仰)を前提していると言うことができる。[β]しかし一方、神の存在を信じるためには何らかの支えが必要である。神の存在を信じようとする者はその証しを必要とする。従って神の存在は聖書を前提していると言うことができる。――生のフォルムとしての循環とはこのようなものであるが、デカルトの循環という名称で指摘される事態もこうした生の循環に他ならない。[α’]神の存在をまったく信じていない者は、デカルトが行なっている証明によって説得されることは決してないであろう。むしろそれを幾何学的証明と同一視して諸々の欠陥をあげつらうことしかしないであろう。従って神の存在の証明は神の存在(の信)を前提していると言うことができる。[β’]しかし一方、神の存在の信は証しを必要とする。証明を必要とする。証明されることによってはじめてそれは真の明証になるのである。従って神の存在はその証明を前提していると言うことができる。――こうした循環(これは生の循環である)がいわゆるデカルトの循環の深相であり真相である。

ところで神の存在は証明を必要とするということは、神の存在は認識上疑い得るということである。つまり認識上疑い得るからこそ、神の存在を信じる行為として証明が行なわれるのであるが、但しそのことによって認識上の疑いが消去されるわけではない。信じる行為としての証明によって疑いは止み、疑いの余地はなくなるが、しかし認識上の疑いは実際になくなってしまうわけではない。信は疑いを克服してしまうのではない。もし疑いを克服してしまったならば、信はみずからの存在根拠を失ってしまうのである。疑うことが信じることを成り立たせるということがあるのである。疑うから信じるのであるが、しかし信じることは疑いを存続させることである。というわけで、神の存在を認識的に疑うことと、それを行為的に信じることとは、表裏一体を成す。そしてこうした疑う生と信じる生との表裏一体性が、盲信や狂信とは異なる、しかしまた半信半疑とも異なる、神の<確信>なのである[65]。即ち神の生き生きとした<現前>なのである。

 

 注 

 

[1] 「学としての神学」と「霊的生」との分裂(前者が後者から分離して独り歩きすること)という問題を取り上げている、稲垣良典「神学と霊性――『神学大全(スンマ)』から学んだこと」(『創文』2012冬no.08)は、本稿とは直接関係のないトマス・アクィナスに関する論考であるが、我々の関心を強く惹くものである。但し学(としての神学)と(霊的)生との統合は如何にして為され得るか、ということに我々の関心は存するのではない。本稿が企てることは哲学を本源的生の次元に引き戻すことである。

[2] あるいはこう言い換えてもよい。哲学とは哲学説(doctrine philosophique)のことなのであろうか、哲学とは哲学思想(pensée philosophique)のことなのであろうか、と。なお念のため断っておくと、我々は例の「哲学と哲学することとの区別」を問題にしようとしているわけではない。

[3] ソクラテスプラトン哲学という言い方を用いるのが通例であるが、ここでは甲斐博見『ソクラテスの哲学』(知泉書館)を踏まえて、ソクラテスの哲学と称し得るものが存在するという立場に立つ。なお同書に関しては、拙稿「哲学の倫理性」(『人文学報』第459号、24頁~38頁)を参照。

[4] このことに関連してであるが、ソクラテスの哲学は取り分け彼の刑死を抜きにして問題にすることはできないということを指摘しなければならない。またデカルトに関しては若き日の彼にとって極めて切実な問題は人生の道の選択であったということを指摘しなければならない。「如何なる生の道にか我れ従わん(Quod vitae sectabor iter ? )」――フランス語では“Quel chemin suivrai-je dans la vie ?”あるいは“Quelle voie suivrai-je en la vie ?”などと訳される――という、4世紀のラテン詩人アウソニウス(Ausonius)の句が夢の中に現れたことがそのことを端的に示しているのであるが、デカルトにとって方法(méthode=meta+hodos)はこの人生の道と決して無関係ではない。因みに『方法序説』には「道(chemin)」という言葉が十回余り現れる。

[5] 方法序説』と『省察』とは違うと言う向きがあるかもしれないが、『省察』にしても、それは神と魂に関して自分を説得するための――即ち確信を得るための――実践訓練である。それは永遠真理創造説や連続創造説等々の諸々の学説から組み立てられた形而上学体系ではない。

[6]方法序説』第1部(AT.VI.p.4)、第6部(AT.VI.p.61)

[7] デカルトは23歳の時、それまで自分の信念の中に受け容れてきたあらゆる意見を自分の信念から一度きっぱりと取り除くことを計画したが、この企てを我々は懐疑と看做す。このことに関しては、『方法序説』第3部(AT.VI.pp.28-29)を参照。

[8]方法序説』第6部(AT.VI.p.76)にあるように、「他人が20年かけて考えたことすべてを、1日で全部分かる、ふたことみこと聞いただけですぐ分かると思い込み、鋭敏で聡明であればあるほど誤りに陥りやすく、また真理に達することができない」、その種の人間に対してデカルトは用心していた。なお「鋭敏で聡明」という言い方には皮肉が込められている。

[9] 或る著名な数学者によると、数学は或る種の感情の問題であるということである。岡潔は「人間の建設」と題された小林秀雄との対談(1965)の中で次のように述べている。「数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ」。「(・・・・・)ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。〔知性を〕説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです」と。ここでの感情という言葉は、魂とか心とか生といった言葉に置き換えることができるであろう。なお、同じ趣旨のことは岡潔『春宵十話』でも語られている。

[10] 知識に災いされない者こそがデカルトの本質を的確に捉えることができる。次はその一例である。「本当にこれ〔『方法序説』〕はすごい本だ。デカルトは人生の達人と思う。なかなか、これほどすごい本はないと思う。読んでいてあらためて感じるのは、デカルトは、非常に慎重で、思慮深いということ。そして、何より、いかに生きるかのために哲学をしていた、切実にそうした意識を持っていた、ということだ。通俗的な解説書だと、第四部の「われ思うゆえに、我あり」ばかりが紋きり型にとりあげられるけれど、全六部、それぞれに、丹念に読めば、とても触発され、生きていくために直接役に立つ多くのメッセージがこめられていると思う。(・・・・・)」(「あつし@草莽日記」) 因みに、類書は他にもあるであろうが、パジェス『人生の師デカルト』という書物がある。Pierre-Etienne Pagѐs, Descartes, maître de vie, 2005

ただ、ひとこと添えると、デカルトは単なる人生の師であるのではなくて、あるべき生き方を身をもって実践的に示した人生の師である。その哲学はよき生のための、よき生としての哲学である。

[11] 人は講壇で哲学を講じることの危険性を十二分に自覚しなければならない。例えば「汝みずからを知れ」ということについて講じる者が自分自身のことをまったく疑っていないというようなことが講壇では起こり得るのである。哲学は他人事であってはならないものである。哲学は自分の生にとって必然的なものであるのでなければならない。哲学を自然諸科学と同様の一専門分野と看做すことはできない。

[12] 本講演は1911年(明治44年)に行なわれたものである。つまり今から百年余りも前に行なわれたものであるが、今でもその意義を失っていない。むしろ形式主義およびそれと密接に結びついた技術主義が、つまりは生と言葉の空疎化が、蔓延した今日においてこそよく味わうべきものであろう。

[13] 学者は「(・・・・・)中味の統一にも何にもならない纏め方をして得意になる」とあるが、多くの場合、学者にとっては真や善を得ることよりも自慢することの方が大事なのではないであろうか。デカルトは『方法序説』第1部(AT.VI.p.10)でこう語っている。書斎の中で学者がそれをめぐって推論を行なう思弁が、常識から掛け離れていればいるほど、ますます学者はその思弁を誇らしく思うであろう。というのも、その思弁を本当らしく(vraisemblable)見せるために、学者はますます多くの才気と技巧を用いなければならないからである、と。常識から掛け離れ生活から掛け離れた理論を打ち出す書斎の学者は、そのことによって己れの虚栄心を満足させる。ということは、その学者にとっては本当のこと(vérité)などどうでもよいということである。否、というより、そのような学者はそもそも本当とはどのようなことなのかを分かっていないのであろう。

[14] 因みに1914年(大正3年)に行なわれた「私の個人主義」という漱石の講演では、日本人のいわば奴隷根性を批判する文脈においてオイケンの名前が出てくる。「この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。(・・・・・)近頃流行るベルグソンでもオイケンでもみんな向うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬に乗って騒ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。」――では漱石の時代以後、日本人はこうした他人本位という心性(コンプレックス)から次第に解放されたのであろうか。否、そうは思えない。むしろ終戦(敗戦)を機に奴隷根性は新たな形で強まったのではないであろうか。

[15] 方法序説』第6部(AT.VI.p.76)

[16] 方法序説』第2部(AT.VI.p.17)でデカルトは、三段論法など論理学の様々な教えは、既知のことを他人に説明するのには役立つが、また未知のことをそれについて判断することなしに語ることにさえ役立つが、未知のことを学ぶのには役立たないと述べている。一方、『哲学原理』仏訳序文“Lettre-Préface de l’édition française des Principes”(AT.IX-2.p.13)でも同じく、学院の論理学は既知のことを他人に理解させる手段を教えるが、また未知のことについて判断なしに多言を弄する手段をさえ教えるが、未知の真理を発見する手段は教えないと述べている。形式論理とはここで言われているような非生産的な論理である。

[17] 「私がそこにおいて論理学者が循環論法と呼ぶ過ちを犯していると想像してはならない」と述べた後、デカルトは次のように言う。原因は仮説なのであり、私はその仮説としての原因から結果を演繹する。そして実験が件の結果を極めて確かなものにすると、今度はこの結果が――即ち実験によって確証された事実が――仮説として立てられた原因を証明することになる。つまり結果が原因を証明するのであって、原因は結果を証明するのではない。原因は結果を(証明するのではなくて)説明するのである、と。しかし原因が結果を説明し結果が原因を証明するというのはやはり循環である。循環論法の循環ではないとしてもやはり循環である。

[18] 省察』「ソルボンヌ宛書簡」(AT.VII.p.2)

[19]省察』「読者への序言」(AT.VII.p.9)

[20] 合理性を徹底しようとすると、人はどうしても形式性・記号性の方向に向かうことになる。しかしこの方向に向かうことは、本当の意味での思考(ものを考えること)から離れてゆくことを意味する。「教養ということ」と題された対談(1964)の中で、田中美知太郎と小林秀雄は次のように語っている。「(田中)数学的に考える場合は、シンボルで考える。しかし数学者なんかでも案外ものを考えていないのじゃないですか。(小林)数字にたよってね。(田中)ホワイトヘッドがそういうことを言っていました。数学は思考の練習になるというが、そんなことは嘘だ。ただシンボルを操作しているだけで実際は考えていないことが多い・・・・・・。(小林)そういうことはたしかにあるね。『数学者が実はものを考えていないのだ』というような言葉は、なかなかわかりにくいのじゃないかな。つまり合理的に考えようとすることは、極端にいえば数式に引張られている状態になるわけで、ほんとうの考えというものは、合理的にいくものではないんじゃないか、というようなことを私はよく考えますね。」

なお、記号は思考を妨げるという話を裏づけるかのように、デカルトは『方法序説』第2部(AT.VI.pp.17-18)において次のように述べている。曰く。解析は常に図形の考察に束縛されているので、想像力を疲弊させることなしには知性を行使することができない。また人は代数において規則と記号にひどく隷属させられてしまっているので、代数は精神を陶冶する(cultiver l’esprit)学問ではなくて、精神を困惑させる不明瞭で混雑した技術になってしまっている、と。

[21] デカルトは形式論理の次元(無時間的概念空間)において哲学しているということを無意識的に前提し、デカルトともあろう者が循環論法などという初歩的な過ちを犯すはずはないと考える者は、循環は存在しないということを出発点にして、そこからコギトは神を前提しない(神的保証を必要としない)はずであると形式的に推論する(もしコギトが神を前提するのであれば循環が生じてしまうから)のであるが、そのように推論すると、コギトの明証性は(神的保証を必要とする)数学の明証性とどう違うのかという新たな問題に出会うことになる。しかし形式的推論によって生み出された(つまり事柄そのものの吟味によって直接見出されたのではない)このような問題を解くことに一体どのような意味があるのであろうか。また、この問題を解決する(たぶん解決できないであろうが)ことによってデカルトの哲学に表面的・形式的な整合性を与えることに一体どのような意味があるのであろうか。

[22] 方法序説』の第2部と第3部で語られている炉部屋での思索は、「私が求めていた、哲学の第一原理」であるところの「我れ思う、故に我れあり」(『方法序説』第4部(AT.VI.p.32))に到る以前の思索であり、その意味では哲学以前に属する。しかしデカルトは炉部屋において、「今行なっている仕事をこのまま続けること、即ち私の理性を陶冶することに私の全生涯を捧げ、私がみずからに定めた方法に従って真理の認識においてできる限り前進すること」が自分のできる最善のことであると考えたのであるから(『方法序説』第3部(AT.VI.p.27))、彼は23歳の時点で(あるいはそれ以前に)既に哲学者としての道を歩んでいたと言うことができる。そしてこの哲学者としての道は、「通常の哲学より確実な哲学」(『方法序説』第3部(AT.VI.p.30))と言われるものよりも、また「その根は形而上学であり、その幹は自然学であり、この幹から出る諸々の枝は他のあらゆる学問である一本の樹木」(『哲学原理』仏訳序文(AT.IX-2.p.14))としての哲学よりも、哲学的により根本的なものなのである。なおこの点に関しては、拙稿「幸福への意志」(『人文学報』第444号、26頁以下)におけるアルキエに対する批判を参照。

[23] ここで論理学と言われているものは『方法序説』で方法と言われているもののことである。つまり我々は『方法序説』第2部で示されている方法の規則のことを念頭に置けばよい。

[24] 『哲学原理』仏訳序文(AT.IX-2.pp.13-14)

[25] この場合の時間は生きられる時間であって、思考対象としての時間ではない。

[26] 詳しく言うと、高邁は(i)「真に自分に属するのは自分の意志の自由な使用以外には何もなく、意志をよく用いるかあるいは悪しく用いるかということ以外には自分が褒められるべきあるいは咎められるべき理由はない、ということを知る」こと、および(ii)「意志をよく用いようという固く変わらぬ決意を自分の内に感じる」ことに存するとされる。

[27] 高邁という情念は一種の自尊心であるが、それはいわば自尊心ならぬ自尊心である。それは第一に他人の蔑視を含意しない。「意志をよく用いようという固く変わらぬ決意」は、富や名誉や知識や知力と違って、誰もが自分の内に感じることができるはずのものであるからである。そして第二に、高邁は個人主義を含意しない。それは「意志をよく用いようという固く変わらぬ決意」を、つまり個人(エゴ)を超えた価値を根拠とするからである。因みにベルクソンによれば、自尊心(respect de soi)とは自分の内における卓越した自我に対する尊敬であり、そしてこの卓越した自我は、各人の内部における社会的自我である場合と、人がその像を己れの内に抱く賞賛され崇拝される人格である場合とがある。『道徳と宗教の二源泉』Les deux sources de la morale et de la religion, pp.65-68

[28] 方法序説』第2部(AT.VI.pp.13-14)

[29] 『哲学原理』仏訳序文(AT.IX-2.p.13)

[30] 一例を挙げると、『方法序説』第2部(AT.VI.p.21)では、「この方法が私を最も満足させた点は、それによって私は自分の理性をすべてにおいて、完全にではないとしても少なくとも私のできる限りにおいて最もよく(le mieux, qui fût en mon pouvoir)用いているという確信を得たという点である」と語られ、『方法序説』第3部(AT.VI.p.21)では、「私の行動において、できる限り(le plus …  que je pourrais)断乎とし毅然としていること」と述べられ、同(AT.VI.p.21)では、「(・・・・・)真理の認識においてできる限り(autant que je pourrais)前進する」と語られている。

[31] 省察』「読者への序言」(AT.VII.p.9)

[32] 漱石は小説『虞美人草』の中で登場人物に「真面目」について語らせている。宗近は小野にこう説教するのである。「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。(・・・・・)真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。」

[33] Cf.『方法序説』第3部(AT.VI.p.29)

[34] 方法序説』第3部(AT.VI.p.25)

[35] 方法序説』第3部(AT.VI.p.26)。

[36] “accoutumer”という言葉は『省察』にも何度か現れるが、「習慣をつける」ということは無意識的な自動運動(という意味の習慣)になっていないことに関して言われることであることに注意しなければならない。

[37] 省察」は実践を意味する。因みにプラトンの『パイドン』における「死の修練」は、ストア派においては“meditatio mortis”(セネカ)と言われる。

[38] 方法序説』第6部(AT.VI.pp.77-78)

[39] 因みにベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』において、「良識(le bon sens)」は「社会感覚(le sens social)と称し得るもの」であるとしている。Les deux sources de la morale et de la religion, p.110

[40] このことと関連することであるが、『省察』の「読者への序言」の最後の方にこう書かれている。「私(ego)が説得されたのと同じ根拠によって他の人々(alios)もまた説得され得るかどうかを験すために(ut experiar)、それによって私が真理の確実で明証的な認識に到達したと私に思われる(mihi videor)その思考そのものを〔第一省察から第六省察までの〕諸省察において開陳することにしよう」(AT.VII.p.10)と。『省察』の出版に先立ってデカルトがしようとしたことは、自分を説得した根拠が他者にも通用するかどうかを験すことである。ということは、省察は孤独の中で為されるものであり、孤独の中でのみ為されるものであるが、しかし孤独な省察は他者を予想している、あるいは他者に依拠しているということである。しかもこの場合の他者は観念的な他者ではなくて生まの現実における他者である。自分の思考は真理の確実で明証的な認識に自分を到らしめたと自分には思われるが、しかしその思考を他者に吟味してもらうためにそれを開陳するのでなければならない。ということは、孤独な内省はそれを否定する公共的現実を背景的基盤にしてこそ成り立つということである。なお、もし認識の真理性の保証ということを言うとすれば、我々が今問題にしているのは神による垂直的な保証ではなくて、他者による水平的な保証であるが、内なる真理との――あるいは内なる神との――垂直的関係は、外なる他者との水平的関係と組み合わせられなければならないのである。

[41] 前節において見たように、デカルトは一個人が国家の根本的な(即ち基礎からの)改革を構想することを非とする。一個人が学問の組織や教育の秩序の改革を構想することさえも非とする。しかし自分自身の思考を基礎から築き直すことに努めることは是とする。ではどうしてデカルトは公的なものの改革を認めないのであろうか。方法序説』第2部(AT.VI.p.14)において彼は三つの理由を挙げている。それは第一に、大きな組織というのは一度倒されると建て直すことが余りにも難しいからであり、第二に、どのような組織にも不完全な点があるが、慣習というものがあるおかげでそうした不完全な点はそれほど障害にならないからであり、第三に、組織の不完全な点は、変更された組織よりも耐えられ得るものである(例えば曲がりくねった山道を山頂までまっすぐに伸ばして短くしたら却って歩きづらくなる)からである。――こうした考察にもデカルトの保守性がうかがわれるが、自分は決して公的なものの改革を企てるのではないという表明は決して処世のためではないということに注意しなければならない。革新性がデカルトの真の姿であり保守性は偽りの姿であると考えれば矛盾は解消するが、そのような解釈は不当である。実は保守性と革新性とは互いに相手を要求し合うのである。

[42] 方法序説』第2部(AT.VI.p.18)

[43] 方法序説』第3部(AT.VI.pp.22-23)

[44]方法序説』第3部(AT.VI.p.25)

[45] 方法序説』第3部(AT.VI.p.24)

[46]方法序説』第1部(AT.VI.p.9)

[47] 「確信するに足ること(de quoi m’assurer)」という言い方は、前段落末尾にある「確信をもってこの人生を歩む(marcher avec assurance en cette vie)」という言葉に対応する。

[48] 方法序説』第1部(AT.VI.pp.10-11)

[49]方法序説』第3部(AT.VI.p.28)

[50] 方法序説』第3部(AT.VI.pp.29-30)

[51] 方法序説』第3部(AT.VI.p.22)

[52] 方法序説』第3部(AT.VI.p.24)

[53] 「私の理性を陶冶することに私の全生涯を捧げ」ることと、「私がみずからに定めた方法に従って真理の認識においてできる限り前進すること」との間には特別な差異はないと解さざるを得ない。つまり理性の陶冶と方法による真理の認識とは別のことではないと解さざるを得ない。ただ実生活の事柄に関して方法の規則を適用するということは考えにくいことである。因みにデカルトには理論理性と実践理性との区別といったものはない。

[54] 方法序説』第3部(AT.VI.p.27)

[55] 方法序説』第3部(AT.VI.p.28)

[56] 信仰の真理に関して付言すると、形而上学における神の存在の証明は自然の光によるということになっているが、しかし啓示の光の働きがなければ「神の観念」は「神の存在」を含むことはできないのではないであろうか。信仰の真理を前提にしなければ形而上学は成り立たないのではないであろうか。

[57] 例えば1645年8月4日のエリザベト宛書簡では、第1の格率は「実生活のあらゆる場合において、何を為すべきかあるいは何を為さざるべきかを知るために、自分の精神をできる限りよく用いることに常に努めること」と書き改められている。但し、ここでも「できる限りよく」とか「常に努める」という言い回しが行なわれていることに注意しなければならない。なお1647年に出た『哲学原理』仏訳序文(AT.IX-2.p.14)では、「他の諸学問のまったき認識を前提する故に知恵の最終段階であるところの最も高次の最も完全な道徳」の構想が語られている。

[58] 省察』第6省察(AT.VII.p.90)

[59] 方法序説』第3部(AT.VI.p.28) “il suffit de bien juger pour bien faire, <et> de juger le mieux qu’on puisse pour faire aussi tout son mieux, (…)”

[60] 省察』第4省察においても、「意志による決定には知性による認識が常に先立つのでなければならない」という立場と、それとは異なる立場とが共存していると我々は見ている。このことについてはいずれ検討しなければならないであろう。

[61] 方法序説』第3部(AT.VI.p.25)

[62] 方法序説』第4部(AT.VI.p.31)において第2の格率が繰り返されているが、そこでは、「非常に不確実であることが分かっている意見」という言い方がされている。

[63] 方法序説』第3部(AT.VI.pp.27-28)  「もしよりよい意見があるのであれば、それを見出す如何なる機会をも逸することのない」ことを期待するということは、「三つの格率は自分を教育し続けるという私の計画にのみ基づく」ということの説明の一部として言われていることである。

[64] このことはコギトにも当てはまる。コギトが成り立つためには疑うことが認識上のことではなくて行為とならなければならない。デカルトは『省察』第2答弁において、「或る者が『私は考える、故に私はある、あるいは私は存在する』と言う時、その者は〔自分の〕存在を三段論法よって思惟から演繹するのではなくて、恰もおのずから知られるもののように、精神の単純な直観によって(simplici mentis intuitu)〔自分の〕存在を認識するのである」(AT.VII.p.140)と述べているが、疑うこと、考えることが行為となる場合にのみ、このような「精神の単純な直観」が為され得るのである。

[65] 第2の格率が命じる信は疑いを含むが、このことは半信半疑を意味しないということを先ほど述べたが、実生活の行動における信と神への信とはもちろん異なる。実生活の行動に関してはよりよい意見というものが常にあり得るが、しかし神に関してはそういうものはあり得ないのである。

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 6

 私は学生時代から、研究書や研究論文の焼き直しのようなことはまったくしなかったが、パリでデカルトと格闘することで、この態度を決定的に固めた。いくら情報的知識を寄せ集めても哲学は決して分からない。みずから事柄そのものに触れつつ思考しなければ哲学は決して分からないのである。

 

ところで、世の中ではメルロ=ポンティは例えば次のように紹介されている。

 (・・・)こうした高等師範学校時代(1926~1930)のメルロ=ポンティの若々しい探索を見ていると、その後の哲学思考の原型があらわれているのがわかる。ベルグソン哲学にフッサール現象学ゲシュタルト心理学がくっつき、そこにマルクス主義が接ぎ木されたのだ。/しかし、この時期のメルロ=ポンティには何かが決定的に欠けていた。それはやがて「知覚」と「身体」と「行動」、あるいはそれらの「関係」というかっこうをもってあらわれる。ぼくの領分に牽強付会すれば、まさに編集的関係である。けれども、その着想はまだ芽生えていなかった。/ただ、そうした着想の苗床になるべき体験がメルロ=ポンティにおこった。それは二つの講義を聞いたことによる体験だ。ひとつは1929年にパリ大学で年老いエドマンド・フッサールが行った講義、もうひとつはアレクサンドル・コジェーブがパリ高等研究所でほぼ5年にわたって(1933-39)ひらいたヘーゲル精神現象学』の講義である。これらがメルロ=ポンティの思索の内奥にこびりつき、関係の存在学を花開かせる苗床になった。(・・・)

        「松岡正剛の千夜/0123夜 

            モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学

これは伝聞的知識を巧みに組み合わせただけの、つまり言葉を上手に並べただけの、文章であって、誤解でさえない。誤解というのは一生懸命理解しようとしたが正しく理解できなかったということであるが、この筆者はそもそもテキストを読んで理解する努力をまったくしていないのである。恐ろしいことに、アカデミズムにおいてもこうした中身のない紹介や解説が幅をきかせている。

 

以下、最近読み直す機会があった拙稿をここに載せておくことにする。

 

         記憶の場と真理の場

    ——メルロ=ポンティの方法的合理主義——

                        実川 敏夫

 

               実証主義的な歴史学に対する批判は決して新しくはないのであろうが[i]、特に近年は言語論的転回などといった言い方で表される運動によって、実証主義に対する批判は尖鋭化した。文書資料を現実(つまり歴史的事実)の複写と看做し、記録資料に基づいて現実を再構成するという、従来の実証主義的な考え方はもはや通用しない。むしろ、現実の再構成と思われている歴史叙述、それ自身の虚構性や政治性が暴き立てられるのである。真理と称されるものは実はいかがわしいものである。こうして歴史は、事実の再現という要請から自らを解放する。ありのままの真実というものはもはや価値ではない。問題は言説としての言説である。

              しかし、こうした真理の放棄の動きには、何か釈然としないものが感じられるのではないか。人は心の奥底ではなおも、ありのままの現実に、つまり「本当はどうだったのか」ということに、歴史的関心を寄せ続けるのではないか。もしそうであるとすれば、それは、言語論的転回による実証主義批判・実在論批判は不徹底なものであるからである。言語は現実をありのままに写すという考え方から、いわゆる現実とは自立的・自己分節的な差異的体系としての言語によって構成された記号的存在でしかないという考え方に移行したとしても、もし主観-客観図式が相変わらず前提されているのであれば、実在論は実際には克服されていないのである[ii]

              ところで、近年の歴史論において眼につく動きとして、もう一つ、歴史に固有の全体化的=客観的なロゴス[iii]に対する批判を挙げることができる[iv]ヘーゲルに典型的に見られるような合理主義的・目的論的な歴史、取り分けそうした歴史によって必然的に排除され隠蔽され抑圧されるもの、つまり歴史の他者——語り得ぬもの——に、熱い眼差しが向けられるのである[v]。しかし、全体化的=客観的なロゴスに対する批判に関しても、その不徹底性を指摘することができる。ロゴスの横暴に対して如何に異議申し立てをしたとしても、もし全体性=客観性という理念そのものが掘り下げられないのであれば[vi]、合理主義——ロゴス中心主義——は実際には克服されていないのである。

                  *

              歴史論は真理や理性の放棄あるいは解体の場ではなくて、むしろ、新たな真理観、新たなロゴス観へと導く場でなければならないのではないか。即ち、歴史というものは、理性や真理についての根本的(ラディカル)な反省を可能にする特権的なテーマであるのでなければならないのではないか。

              確かに、歴史の真実とか正しい歴史という観念は素朴なものである。確かに、進歩史観的な目的論は素朴なものである。しかし、実在論にしても目的論にしても、根の深いものなのである。従って、それらの解体・自滅を企てるだけでは、即ち反抗を企てるだけでは、それらを克服することにはならない。必要なことは、素朴な信仰の根を解明することである。哲学を哲学たらしめるのはrévolteではなくてradicalismeであるということ、それがまさしく、メルロ=ポンティが我々に授ける最も重要な教訓なのである[vii]

  

(1)記憶の場

 

              初めに、フランスにおける最新の歴史学研究、『記憶の場(Les lieux de mémoire)[viii]』を瞥見することにしたい。今触れるのは、総監修者ピエール・ノラ(Pierre Nora)の手になる序論、「記憶と歴史の間:場のプロブレマティック(Entre Mémoire et Histoire : La problématique des lieux)」である。この論文は、いわゆる言語論的転回の一例と看做され得るのである[ix]

              かつては、歴史家の仕事は以前のものよりも「いっそう実証的でいっそう包括的でいっそう説明的なメモワール」を確立することであった。つまり、「真のメモワール(une mémoire vraie)」を確立することであった。しかし、ノラはこうした「記憶としての歴史(l'histoire-mémoire)」——即ち「歴史と記憶の一致(adéquation)」——の終焉を告げる。今や歴史は記憶とのその非同一化(désidenti-fication)を果たすのである。かつては、歴史はいわば記憶に奉仕するものであった。ところが、今や記憶と歴史の立場は逆転した。記憶は歴史の対象となった。記憶は歴史によって掴まれた(saisie, happée)のである。問題は今や、再現〔復活〕(résurrection)ではなくて表象であり、反復ではなくて再記憶化(remémoration)である。「歴史叙述(イストリオグラフィ)は不可避的にその認識論的時代に入った」とノラは言う。歴史はその批判主義によって自生的な記憶を失墜させる。問題となるのは今や、直接的記憶ではなくて間接的記憶である。つまり、歴史が取り組むのは今や、真の記憶ではなくて「記憶の場(les lieux de mémoire)[x]」なのである。

              さて、記憶の場は或る意味でソシュール流の記号に比せられ得るものである。つまり、それは現実を指示するものではないのである。歴史が過去の復元であった場合は、まさに史実が問題であった。「記憶への歴史学的・科学的なアプローチはすべて、・・・現実的なもの(des realia)、事物そのものを相手にし、その現実性を最大限ありのままに把握すること(saisir la réalité au plus vif)に努めていた」。ところが、記憶の場は記憶とは違って史実とは関わりのないものなのである。「記憶の場は・・・現実の中に指示対象を持たない(les lieux de mémoire n'ont pas de référents dans la réalité)。というより、記憶の場はそれ自身がそれ自身の指示対象なのであり、自己をのみ指示する記号、純粋状態の記号なのである(ils sont à eux-mêmes leur propre référent, signes qui ne renvoient qu'à soi, signes à l'état pur)」。

              ただ、史実と縁を切ったとはいっても、歴史は虚構であるというわけでは勿論ない[xi]。ノラが狙っているのは、「記憶と歴史の間」という両義的な[xii]概念によって、史実と虚構の溝を埋めつつ、歴史に何らかの真理性を確保することであると、そう考えられなくはない。しかし、もしそうだとしても、その場合の真理性とは如何なるものなのであろうか。かつての記憶としての歴史にとってとは違って、今や、「我々の過去知覚は、もはや我々に属するものではないことを我々が知っているものの熱烈な横領(appropriation véhémente)である」という言い方が示すように、問題はあくまで現在における過去であって、過去としての過去、つまり過去そのものではない。ポリフォニックな記憶の場によって構成されるものは、過去そのものではない。繰り返すと、記憶の場はそれ自身をしか指示しない記号なのである。とすれば、仮に真理ということを言ったとしても、それは名ばかりの真理でしかないのではないか。

              とはいえ、我々はここで何も、実証主義に戻るべきだということを示唆しているわけではない。ここで考えるべきことは、言語論的転回と実証主義とは、実はそれほど互いに隔たったものではないということである。——「痕跡、距離、媒介が存在するや、人はもはや真の記憶の中にはいない」とノラは言う。つまり、逆に言うと、真の記憶とは起源(過去)との間に時間的なずれのないものなのである。従って、「記憶はつねにアクチュエルな現象であり、永遠の現在との生きられる絆である」と言われる。ところが、記憶が歴史によって掴まれてしまうと、そこに距離が存在することになる。「我々の過去との関係は、記憶に期待される関係とは全く異なる。それはもはや回顧的連続性ではなくて、非連続性の露呈(la mise en lumière de la discontinuité)である」と言われる。起源(過去)そのものとの一致(時間的なずれのない一致)、即ち事物そのものとの一致は、真の記憶によって持続するが、真の記憶が断たれると、その一致は断たれるのである。

              件の一致を、別のかたちに言い換えてみよう。もしタイムマシーンがあれば、我々は過去の出来事(例えばフランス大革命)が現在であった時に戻ることができる。過去の出来事が「現在」であった時とは、それが「現実」であった時、即ちその出来事がそれ自身と完全に「一致」[xiii]していた時のことであり、要するにそれが「真理」であった時のことである。——これこそは、実証主義によっても、また記号論的転回によっても、暗黙に前提されている真理観・現実観ではないであろうか。しかし、ここで指摘しなければならないことは、この真理観が前提されている限り、即ち主観-客観図式が前提されている限り[xiv]、認識論的困難は回避し得ないのではないかということ[xv]——否、そればかりか、歴史(歴史叙述)というものは意味を失うことになるのではないかということである。

              もし歴史の真実を問題にしないのであれば、歴史とは一体何なのであろうか。歴史は過去の真実を問題にするものでなければならないのではないか。しかし、もし過去はそれが現在であった時点において真理であったのだとすると、歴史とは真理の影でしかないことになるのではないか。もし歴史家あるいは哲学者が、過去をその真理へともたらすのではないのだとすると、歴史家や哲学者の存在意味は一体何なのであろうか。時間的な隔たりというものは、真理にとって本質的なものであるのでなければならないのではないか。

  

(2)真理の場

 

              主客図式を前提しないということは、主客図式の成立を問題にするということであり、つまりは現実=事物の成立を問題にするということである。メルロ=ポンティの「現象への還帰」とは、まさに、忘却されている「事物の生誕地(le berceau des choses)」(PP.71)としての「現象」を想起するという企てである。我々の認識は事物を目指す故に、おのずから事物の生誕地を忘れる。我々の意識は客観を目指す故に、おのずから「客観の起源(l’origine de l’objet)」(PP.86)を忘れる。言ってみれば、ひとたび目的地に到達してしまうと、目的地に到達しつつあった時のことを忘れてしまうようなものである[xvi]。そこで、事物の下に埋葬されてしまっている現象——客観的世界という理念の下に埋葬されてしまっている前客観的経験——を、掘り起こさなければならない[xvii]

              そもそも事物はどのように成立したのか。我々は通常パースペクティヴというものを既に客観化されたかたちで考えているわけであるが、そうした客観化されたパースペクティヴとは違って、前客観的経験においては、パースペクティヴは決して事物を主観的にデフォルメするものではない。それはむしろ逆に、「知覚されるものをして、それ自身のうちに、汲み尽くし得ぬ隠れた豊かさを持たせるもの、つまり知覚されるものをして〈事物〉たらしめるものなのである」(SC.201)。知覚はパースペクティヴ性(制約)を被るのではなくて、それを何らか自覚しているのであり、そしてこの自覚は、実際に認識されているよりも豊かなもの——つまり現実的なもの——と交流しているという確信と一つのものなのである[xviii]。このことは、過去の出来事についても言える[xix]。パースペクティヴは歴史家や哲学者を主観的領域に閉じ込めるのではない。むしろ、歴史家や哲学者は固有のパースペクティヴを持つ(自覚的に持つ)からこそ、フランス革命とかホロコーストといった出来事は、汲み尽くし得ぬ対象、つまりリアルなものであることになるのである[xx]

              さて、現象は「事物の生誕地」であることを先に述べたが、こうしたパースペクティヴによる事物の生成という逆説的な事柄が、まさに、事物の誕生ということであり、言い換えれば「真理の実現」[xxi]ということである。現象野とは、そこにおいて真理が実現される場であるという意味で、「真理の場(le lieu de la vérité)」なのである。そこで今度は、事物の生成・誕生を、真理の実現という観点から改めて考察することにしよう。

              他の哲学者について論じることは、フランス革命などの過去の出来事について論じることと同様に、歴史の問題であるわけであるが、例えばフッサールについて論じることは、メルロ=ポンティにとっては「フッサールのアンパンセ(un impensé de Husserl)」を問題にすることであった。というのも、「思考することは、諸々の思考対象を所有することではない」(SG.202)からであり、つまり、思考するとは思考しないことであるからである。ということは、フッサールとかデカルトとかといった哲学者は、我々に思考させる(donner à penser)ものであるということである[xxii]。哲学者のパンセは、「むしろアンパンセ(un impensé)である」故に、「まさにそれ故に」、「他者を飢えさせる」パンセであり、つまり「他者において未来を持つ」(VI.159)パンセである[xxiii]。では、とすれば、デカルトの真理とか、あるいはフランス革命の真理とかといった真理は、いつから存在するのであろうか。

            「真理は初めからそこに存在する」。但し、それはあくまで「為し遂げるべき仕事として(comme tâche à accomplir)」である。つまり、「真理は未だそこに存在しない」(SG.161)。真理は未だ存在しない。歴史(歴史叙述)とは、真理の実現という任務を担うものなのである。デカルトのパンセにしろ、あるいはフランス大革命にしろ、それらは「客観的存在」——即ち「絶対的に規定された存在」——ではない故に、それらを“祖述”することは問題にならない[xxiv]。むしろ、例えば、哲学者のテキストを、「そこからは汲み取れない考察」によって解明するというように(PD.53)、我々が率先してパースペクティヴを拓き、問題を立てるのでなければならない(cf.PD.118)。一致(adéquation)は創造によってのみ獲得されるのである(VI.251)[xxv]

              但し、これは一致(真理)は創造されるということではない[xxvi]。為し遂げるべき仕事としてであれ、真理は初めから存在するのである。創造による一致の獲得、即ち真理(過去の真理)の実現とは、過去の捉え直し(reprise)ということであり、そして、この捉え直しは過去による先取り(anticipation)に応じるものである。「真理の場(le lieu de la vérité)」とは、「先取り」と、それと「対称的な捉え直し」のことである(SG.119)[xxvii]。しかし、とすれば、真理の場はそれ自身歴史的なものである。過去を捉え直す、この現在それ自身が、未来の先取りでもある。否、というより、この現在は、未来の先取りであることによってのみ、過去の捉え直しであり得るのであり、即ち、真理の実現は、真理の実現それ自身が将来において捉え直され得るという条件においてのみ可能なのである。存在は絶えず新たなパースペクティヴを要求する。創造的な自己表現が、存在の本質なのである[xxviii]

  

(3)方法的合理主義

 

              今日においては、目的論は放棄されるだけではなくて、痛烈な批判の的にもなっている[xxix]。目的論的=全体化的な歴史はそれに適合しないものを隠蔽し排除し抑圧するということが、批判の理由である。しかし翻って、歴史は目的性を欠くならば意味を欠くことになるのではないか、つまり、歴史はニヒリズムに帰着せざるを得ないのではないかと、問うこともできる。果たしてどうなのか。

            ところで他方、目的論はそれ自体ニヒリズムであるという見方もある。メルロ=ポンティによれば、目的論——厳密に言えば、或る一定の目的論であるが——は、実はニヒリズムが身を隠すための仮面なのである[xxx]。というのも、予めどこかに目的が定められているということは、未知の未来のために現在が犠牲になる(SG.91)ということであり、つまり、現在が意味を奪われるということであるからである。「歴史が不可避的に行き着くところがもし知られているのであれば、出来事の一つ一つはもはや重要性も意味も持たない」(EP.61)のである。但し、メルロ=ポンティはアンチ目的論者なのではない。

              ニヒリズムを秘める目的論とは、改めて言うと、「事物の流れの背後に〈世界精神〉(へーゲル)のようなものを想定することによって、歴史的偶然性を予め取り除く独断的合理主義」(PD.46-7)、独断的目的論であるが[xxxi]、現象への還帰という企ては、そうした独断的合理主義を相対化する。つまり、それは「我々の問いと驚きの場(le lieu de nos interrogations et de nos étonnements)」(SG.88)としての歴史を根源的な歴史として開示するのであるが、重要なことは、この問いと驚きの場は、或る種の目的論的な場、いわば目的実現の場でもあるということである。

              ここで、前節で論じた真理の実現ということを想い起してみよう。件の真理の実現は実は目的の実現であると言える。というのも、それは過去によって先取りされていたことの捉え直しであるからである[xxxii]。「我々の現在は我々の過去の約束を守る」(SG.119)。しかも、目的の実現といっても、それは予め定められていた目的の実現ではない[xxxiii]。目的の実現とは、経験が哲学によって真理となる(devenir vérité)という生成であり(cf.SG.120)、非反省的なものが反省によってその真理へと変わるという変化である(cf.SG.193)。つまり、先行的真理の反映ではなくて、真理の実現なのであるが、この場合、目的は予め定められているのではなくて、むしろ、目的は実現されて初めて定められるのである[xxxiv]。世界に先在するロゴスは存在しない。「先在するロゴスはただ一つ、世界そのものなのである」(PP.xv)。歴史とは、「予定された道のりを歩む思考」ではない。歴史とは、「己れの道のりを自ら作る思考、前進することによって己れ自身を見出す思考、道を作ることによって道が作られ得ることを証明する思考」(VI.123)なのである。

              ここで分かるように、目的の実現、合理性の成立は偶然である。つまり、合理性とは偶然性なのである。メルロ=ポンティの立場は非合理主義ではない。そうではなくて、合理性と偶然性とを同一のものたらしめる「方法的合理主義(rationalisme méthodique)」(PD.46)なのである[xxxv]。この方法的合理主義、方法的目的論[xxxvi]においては、合理性と偶然性とは同一である故に、偶然性は合理性によって乗り越えられてしまうことはない。非理性は理性によって乗り越えられてしまうことはない[xxxvii]。そして、偶然性、非理性は乗り越えられないということは、過去は現在によって乗り越えられないということである[xxxviii]。一度あったことはなかったことにはならないという問題について、メルロ=ポンティは様々なかたちで繰り返し論じている。過去は現在の犠牲にはならないのである。

              従って同様に、現在は未来の犠牲にはならない[xxxix]。現在はそれ自身未来の先取りでもあるからである。現在における目的の実現は、将来における新たなパースペクティヴによる目的の実現を先取りする。つまり、新たな課題を提出する。従って、目的実現の歩み、歴史の歩みは、延々と続くわけであるが、但し、歴史の歩みは果てしないということは、いつまでたっても目的は実現されないということではない。将来において新たに創造的な表現が試みられなければならないということ、新たなパースペクティヴが拓かれなければならないということは、現在において目的が実現されるための条件なのである[xl]

              方法的合理主義においては、歴史を全体化するロゴスは歴史に先立つのではなくて、歴史そのものである。つまり、それは真理の場としての現在に位置するパースペクティヴ的ロゴス[xli]なのであり、これによって「客観的思考のロゴス」(PP.419)は決定的に相対化される[xlii]。パースペクティヴという制約はいわば能動的否定性であり、この否定性によって全き肯定性という理想は相対化される。つまり、例えば悪に対する決定的勝利というものは、原理的に不可能であるというだけではなくて、もはや価値ではないのである。メルロ=ポンティにとっては、哲学とは、原理的に「勝利の哲学(philosophie triomphante)」へと変容することのない「戦う哲学(philosophie militante)」(SN.81, SG.199)である[xliii]。ということは、歴史は哲学が扱う一つのtopic(論題)ではなくて、哲学のtopos(場所)そのものであるということである[xliv]

 

【注】

 [i] 例えばアナール派のことを考えることができる。

[ii] 構成するものが意識であろうが言語であろうが、コペルニクス的転回は主観-客観図式を前提している。

[iii] 歴史というものは本質的に、全体を見渡す大所高所を、即ち歴史全体の意味、歴史全体の目的を見る全体的視点を、要求するものではないであろうか。逆に言うと、意味のない歴史は歴史と言えるであろうか。

[iv] この批判は、先の実在論批判と、実は別のものではない。否、より正確に言うと、両批判が批判する相手は実は別のものではない。

[v] 興味深い問題として、(歴史叙述によって排除される)〈証言〉という問題がある。杉村靖彦「証言から歴史へ——対話の臨界に立って」を参照。

[vi] カントの『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」は、そうした掘り下げの一つであると言える。

[vii] 知覚の現象学とは、「存在の系譜」(PP.69)、「真理の系譜」(AD.79)を掘り起こすことによって、「真理の新たな観念」(SG.137)、「理性の新たな観念」(SN.7)、「客観的思考のロゴスよりも根本的なロゴス」(PP.419)を開示するradicalisme = approfondissementである。なお、révolteに関しては、特にSens et non-sensのPréfaceを参照。

[viii] これはアナール学派のいわゆる「新しい歴史」の集大成であるとされる。なお、我々が用いるテキストは< Quarto > 版(Gallimard, 1997)である。

[ix] ここでは、ナショナル・ヒストリーという観点は外して、言語論的転回という観点からのみ、ノラの論文に触れることにする。

[x]アルザス」とか「ヴェルサイユ宮殿」とか「記念行事」とか「歴史書」とか「ラ・マルセイエーズ」とか「革命歴」とかといったものが記憶の場であり得るわけであるが、例えば革命歴について、「もし我々が今日でもなお革命歴のリズムで生活しているならば、それはグレゴリオ暦と同じように我々に非常に親しいものになり、そのことによってそれは記憶の場としての力を失ってしまうであろう」と言われる。「記憶の場」という問題は、記憶がもはや内側から生きられてはいないことを含意するのである。

[xi] ノラは例えば、従来の歴史がそれである「記憶としての歴史(l'histoire-mémoire)」と、文学がそれである「フィクションとしての記憶(la mémoire-fiction)」との「ほぼ同時的な死」と入れ替わりに、「新たなタイプの歴史が誕生する」と述べている。

[xii] 「記憶の場を構成するのは、記憶と歴史の戯れである」と言われる。

[xiii] この一致は主観と客観との一致であると言ってもよい。

[xiv] 記号論的転回は主観主義・意識主義に対する批判であるかもしれないが、基本的には主客図式をそのまま残していると考えられる。ノラの場合で言えば、記憶の場に痕跡として内在する過去と、記憶の場の外部における現実としての過去、という構図は、主客構図とどう違うのであろうか。なお、「事実など存在しない。一切は解釈である」という言い方においても、主客図式は前提されていると考えられる。(因みに、我々は認識と解釈とを区別しない。この区別はやはり主客構図に基づくと考えられるのである。)

[xv] 認識論的困難とは、要するに、相対主義的・懐疑論的になるか、それとも独断論的になるか、どちらかしかないということ。

[xvi] 目的論については後述するが、認識はそれ自身目的論的なものである。

[xvii] 「東洋」は、メルロ=ポンティにとって、「我々の諸制度がそこで生まれた——そして永い間の成功によって我々が忘却した——実存野を再発見する」(SG.175)という問題を含むものであったが、この「実存野(le champ d’existence)」は「現象野(le champ phénoménal)」に他ならない。

[xviii] よく知られているように、デカルトの「第三省察」には、己の有限性の自覚は無限なるもの・完全なるものの知を前提条件とするという議論があるが、パースペクティヴに関するメルロ=ポンティの議論はそれと関係づけることができる。なお、パースペクティヴは自覚を伴うということは、パースペクティヴは他の諸パースペクティヴの意識を伴うということ、即ち他の時点でのパースペクティヴの意識および他者のパースペクティヴの意識を伴うということでもある。そして重要なことは、この場合の自覚あるいは意識は対象認識的なものではないということである。

[xix] 知覚とは現在存在する事物の知覚のことであると普通は考えられるが、例えば「歴史の知覚」(VI.140,242)という言い方もある。従って、過去の出来事についても知覚を語ることは不可能ではないと考えられる。しかしいずれにしても、重要なこと、極めて重要なことは、メルロ=ポンティにとっては、現在存在する事物の知覚であっても、それは来し方・行く末への回顧的・前望的な眼差しであるということである(cf.PP.276-7 et passim)。

[xx] メルロ=ポンティはこの場合のリアリティを「肉的な現実性(réalité charnelle)」(SC.202)と呼ぶ。「現象」への還帰とは「肉」の次元への還帰ということなのである。なお、我々の基本的な研究方針は、言葉の上っ面に囚われることなく、哲学者が面している事柄そのものに立ち臨むことである。事柄そのものが見えていれば、言葉への表面的な拘りはあり得ない。

[xxi] 「哲学は先行的存在の反映ではなくて、芸術と同様に真理の実現である」(PP.xv)と言われる。因みに、メルロ=ポンティにとっては、哲学は知覚的なものである(cf.SG.120 et passim)。「哲学を知覚たらしめる」(VI.242)とか、「哲学者の絶対知は知覚である」(EP.22)とかと言われる場合もある。

[xxii] 他の哲学者を論じることは、他の哲学者を知覚することである。「他の哲学者たちの知覚(perception des autres philosophes)としての哲学の歴史」(VI.251)などと言われる。

[xxiii] こうしたアンパンセの問題は、何ら特殊な問題ではない。「現在の未来への裂開(la déhiscence du présent vers un avenir)」(PP.487)が時間の本質的構造であり、「現在における未来の成熟(la maturation d'un avenir dans le présent)」(SG.91)が歴史の本質的構造なのである。

[xxiv] 知覚される事物であれ、歴史上の出来事であれ、哲学説であれ、客観的存在ではなくて、その「全体的志向を把握し直す」ことが問題である存在である(PP.xiii)。

[xxv] デカルトの自叙伝(『方法序説』)にしても、デカルトが40歳の時に書かれたものであることに意味がある。青年デカルトの志がその真理へともたらされるには、然るべきパースペクティヴが必要なのである。

[xxvi] 真理は創造されるとされるならば、真理は永遠(超時間的)であるとされる場合と同じく、歴史は真理にとって本質的な問題ではないことになる。因みに、真理を「作る(faire)」(SG.120)という言い方はある。

[xxvii] こうした先取り-捉え直しの関係は、過去が問題である場合だけではなくて、現在の状況が問題である場合にも当て嵌まる。また、先取りと捉え直しの対は、「〈経験〉は〈哲学〉を先取りし、〈哲学〉は解明された〈経験〉でしかない」(PP.77)といった“キアスム”によって表されるということも指摘しておきたい。なお、「真理の場(un lieu de la vérité)」(PP.24)という言い方が、客観的世界という意味で用いられることもある。

[xxviii] 沈黙のコギトの問題とは、まさにこの創造的な自己表現の問題に他ならない。沈黙のコギトとは、黙って語らないコギトということではなくて、むしろ逆に、絶えず自己表現するコギトということである。沈黙は表現の根源態を意味する。

[xxix]アイデンティティの時代は決定的に終わった」と、ノラは言う。この言葉は、歴史はもはや、フランス国民が自らの起源の偉大さを通して自らを称えることを可能にするような、そうした目的論的な物語ではあり得ないことを意味すると考えられる。また、ノラによる非連続性の強調も、目的論の放棄を意味するのであろう。というのも、逆に目的性があるということは、すべての出来事が一定の目的に向かって連なっているということ、つまり連続性があるということだからである。

[xxx] 「普遍的な歴史への訴えはすべて、出来事から意味を切り離し、実際の歴史を無意味なものとするのであって、それはニヒリズムの仮面〔隠れ蓑・覆面〕(un masque du nihilisme)である。外的な神が直ちに偽りの神であるように、外的な歴史はもはや歴史ではない」(EP.61)。なお、メルロ=ポンティは1952年に発表された論文において、歴史(弁証法)を「外的な〈力〉」と看做す歴史の偶像化は「神についての未発達な考え方を世俗化したものである」(SG.88)と語っているが、この言葉には恐らくサルトルに対する批判が込められている。

[xxxi] ヘーゲル流の合理主義が歴史的偶然性を予め取り除くとすれば、17世紀の大合理主義(le grand rationalisme)は「世界の根本的な偶然性(la contingence radicale du monde)」(SG.191)を予め取り除く。

[xxxii] ここで是非指摘しなければならないことは、一つの対象(例えば過去の或る出来事)へのパースペクティヴは、過去・未来全体への、即ち歴史全体への、パースペクティヴを伴うということである(二つのパースペクティヴは重なり合う)。パースペクティヴの自覚、有限性の自覚は、この現在は数多ある現在の中の一つに過ぎないということの自覚でもあるのである。そしてこの自覚は、我々の眼差しが時間全体・歴史全体に及んでいるという確信と一つのものである。「真理」とは「我々の現在へのあらゆる現在の現前」(SG.120)ということなのである。従って、もし歴史の目的ということについて言うとすれば、歴史の目的は真理が実現される各現在においてその都度実現されるという言い方ができる。

[xxxiii] ニヒリズムを秘める目的論とは、予め定められた目的を想定する目的論であった。ところで、そのような目的論は現象の忘却であると言える。先に述べたように、現象の忘却とは、ひとたび目的地に到達してしまうと、目的地に到達しつつあった時のことを忘れてしまうということであるわけであるが、独断的目的論は、ひとたび目的地に到達した時点(想定された時点)に立って、そこに到るまでの過程を遡行的に復元するものである。しかも、それは正確に言えば復元=想起ではなくて、合理化(偶然性の抹消)なのである。

[xxxiv] 「〈良い形態〉は形而上学的天空においてそれ自体において良い故に実現されるのではなくて、我々の経験において実現される故に良いのである」(PP.24)。——同様に、目的はそれ自体において目的である故に実現されるのではなくて、実現される故に目的なのである、と言うこともできるであろう。

[xxxv] 如何なる合理性も、メタレヴェル(神の立場)に立てば偶然的なものと看做され得るが、この場合の合理性と偶然性との同一化は、メタレヴェルを設定することによる同一化ではない。

[xxxvi] メルロ=ポンティはル・ロワに言及しつつ、「そこにおいて目的と手段、意味と偶然が互いに引き起こし合う、手探りの目的性(finalité de tâtonnement)」(EP.31)について語っている。

[xxxvii] 「最も高次の理性は非理性〔狂気〕(déraison)と隣り合っている」(SN.8)と言われる。

[xxxviii] 過去と現在は先取り-捉え直しの関係にある故に、過去は現在によって乗り越えられると同時に乗り越えられない。乗り越えることは乗り越えないことであるというのが、メルロ=ポンティ的なAufhebungである。

[xxxix] ニヒリズムとは、このような犠牲の問題であった。

[xl] 目的の実現は各々、或る意味で決定的なもの——“une fois pour toutes”——である。

[xli] パースペクティヴ的ロゴスは客観的思考のロゴスのように上空飛翔的ロゴスではないが、かといって、単なる低空飛翔的ロゴスなのではない。先に示したように、パースペクティヴは我々が被る単なる制約ではない。パースペクティヴとは「能動的超越」(PP.178,431,491)なのである。また、パースペクティヴ的ロゴスは超越である故に、語られるものを内在化させるもの、つまり“回収”するものではない。その意味で、それは抑圧的・排除的なものではない。とすると、語られ得ぬものが語られるのは、ロゴスのパースペクティヴ性が認められないからではないであろうか。

[xlii] 現象への還帰は、客観的思考のロゴスよりも根本的なロゴスを開示するわけであるが、但し、それは客観性を否定するものではない。現象への還帰とは「合理性の現象」(PP.468)への還帰ということであり、つまり根源的客観性への還帰ということである(cf.PP.xv,50 et passim)。

[xliii] 因みに、戦う教会(l'Eglise militante)とは、現世に生きている信者たちのことであり、勝利の教会(l'Eglise triomphante)とは、現世で悪に打ち勝ち天国の栄光に入った聖者たちのことである。なお、「戦う哲学」(SN.163,VI.320)という言い方と共に、「戦う有限性」(VI.305)という言い方もされる。

[xliv] 生ける現在は、「真理の場」であり、また、「哲学の座(le siège de la philosophie)」(PD.118)、「哲学の真の場(le lieu véritable de la philosophie)」(PD.119)である。哲学は現象への還帰という一種の系譜学(généalogie)であるということは、哲学は現象のメタレヴェルに立つものであるということではなくて、哲学は自覚的に現象に——つまり現在に——身を置くものであるということである。「取り分け究極的な哲学的主観にとって」、「生ける現在の光を超える光は存在しない」(SG.120)と言われる所以である。場を持たない超越、脱パースペクティヴ的な超越は、原理的にあり得ない(cf.PP.489)。言い換えれば、そのような超越は錯覚ないし偽善である。

 

【略号】

(SC) La structure du comportement   

(PP) Phénoménologie de la perception

(SN) Sens et non-sens            

(EP) Eloge de la philosophie

(AD) Les aventures de la dialectique

(SG) Signes

(VI) Le visible et l'invisible         

(PD) Parcours deux 1951-1961

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              『フランス哲学・思想研究』第9号(日仏哲学会)

 

都立大哲学会と倫理問題

都立大哲学会と倫理問題

――発会六十周年を迎えて――

 

実川 敏夫

 

 

♦ 他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは、哲学会という名に恥じることのない、品格dignityのある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対して、かねてより違和感を抱いている。

これまでは個人的な会話や研究室会議などで意見を述べるにとどめていたが、しかし今や、学会の場できちんと話をしなければ埒があかないと考えるにいたった。そこで本日は、今年迎える発会六十周年(人間でいうと還暦)が学会の新たな門出となることを祈りつつ、僭越ながら、学会の将来に向けて具体的な提言・要望を行なうことにしたい。これは本学会に永年所属する者としての責務もであると考えている。

  

 Ⅰ.『哲学誌』について

 

a.『哲学誌』に審査制を導入する議決が為されたのは19765の総会においてであり(この時は編集委員とは独立に新たに選考委員が設けられた)、そしてこの歴史的な改革の立役者は坂井秀寿・久保元彦という二人の助教授だったのであるが、両助教授がみずから選考委員を買って出る姿勢をも示したのは、まさに哲学に関して或る志を持っていたからである。当時博士課程に在学していた私は坂井邸を訪ねた際にお二人の志にインスパイアーされ、そしてそのお陰で私はこの年齢になるまでずっと哲学を続けてこられたのであるが、ここで言う志とは〈個人的な趣味・教養〉としての哲学や〈党派的なイデオロギー〉としての哲学といったタコツボ主義後述)には欠けている、「哲学に対する責任感」であり、そしてこれは教員にとっては論文の審査に対する(つまり学生に対する)責任感でもある。私は『哲学誌』の今の査読の仕方に、偶々或る時その内容を知って以来、事あるごとに疑義を呈したが、それは哲学に本質的な倫理(あるいは美)であると言える「哲学に対する責任感」に駆られて、『哲学誌』に初めて審査制を導入した二人の先達を完全に裏切るようなやり方を、黙って見過ごすことができなかったからである。

 

(注1) 今の査読の仕方は指導教授の評価を徹底的に排除することを狙うもののようであるが、学生の論文を最もよく理解していると考えられる――それ故に卒論・修論・博論の審査では主査を務める――者を、どうして徹底的に締め出さなければならないのか。そもそもそのことが不可解なのであるが、仮に指導教授の評価を絶対的に排斥しなければならないのだとしても、このことは外部委託という責任放棄的なやり方をしなければならない理由にはならないのではないか。 ★ここで念のため断っておくと、私は指導教授が査読に加わるべしと主張したいのではない。教育者として学生に対して責任を持つべき本学の現役教員が査読の役目を負うべしというのが私の主張である。但し、必要に応じて臨機応変に、指導教授にも、あるいは信頼できる外部の研究者にも、見解を聞かなければならないと考えている。

 

(注2) 聞くところによると、科学論文の場合でさえ客観的な査読が行なわれるとは限らないらしい。というのも、査読は専門が同じか近い研究者たちによって行なわれるが、彼らは論文提出者のいわば競争相手competitorでもあるので、そのことが評価を歪めることが多いからである。これはほんの一例であるが、こうした例からも分かるように、指導教授を外しさえすればフェアな審査が行なわれると見るのは余りにも楽観的過ぎる。私が他の学会の査読者として経験したことは、哲学界は好意や敵意などに左右されずに審査を行なう公平無私な人格者だけで占められているわけではないということである。 ★もう一度念を押すと、私は指導教授が査読に加わるべしと主張したいのではない。

 

b.一般的に言って、外部との交流(海外留学など)は大事なことである。従って応募論文について言うと、もちろん他大学に信頼できる人がいれば(そういう人を見つけるのは実は容易ではないが)、その人に読んでもらうのはよいことである。「(これは面白い論文だから)是非あの人にも読んでもらいたい」という人がもしいれば、その人に論評を仰ぐべきである。しかし丸投げのようなやり方はよくない。一体、他の大学でも紀要の査読を外部に委託しているのであろうか。それは知らないが、都立大哲学会は学会といっても母体を持たない全国学会とは違って、特定の大学(つまり本学)を母体とし本拠とする学会であり、しかも査読の対象となるのは実際には本学の在学生だけであるということからしても、応募論文の査読・採否決定は本学の現役教員が責任を負うのが当然である。口幅ったいことを言うようであるが、本学の教員には、坂井・久保両助教授のように気概と気骨を行動で示してほしい。

 

c.責任の所在を曖昧にすることは倫理に悖ることである。しかしそれだけではない。本学の教員の責任感が疑われるようなことがもしあれば、それは決して得なことではないのである。首都大の教員はそんなにも責任感がないのか、そんなにも的確な評価を行なう自信がないのか、そんなにも相互信頼がないのか、そんなにも世間からの信用がないのか、そんなにも権威がないのか、などと学内外で思われるならば、一体どういうことになるのか。そのことを考える必要がある。

 

d.ところで、1976年5月の総会に関する記録には、『哲学誌』の質を高めるために論文は厳選するという旨が記されているが、但し審査を専門家に委ねるというようなことは坂井・久保両助教授の念頭にはまったくなかった。両氏の念頭にあったのはむしろ逆のことである。問題とされていたのは、私が了解したところでは、専門主義=タコツボ主義の弊害である。

 

e.例えばフランスのアカデミズムにおいては(私が知っているのはデカルト研究の場合であるが)、先行研究を基本的に踏襲しつつそれを批判・修正したり補足したりすることが要求されるが、しかしこの要求にそのまま応じることは、「そもそも哲学って何なのか」とか、「そもそもどうしてデカルトを研究しなければならないのか」といった、極めて知的な根本的疑問(研ぎ澄まされた問題意識)を締め出してしまうことであり、先行研究を根本的な観点から批判することをしないことである。このようなことが、専門分野=タコツボに潜り込みそこに埋没することの弊害である。

 

f.論文の質を高めるためには、この弊害を取り除かなければならない。即ち、根本的な疑問を抱くことができなければならないのであり、言い換えれば哲学に対して責任感を持つことができなければならないのである。例えば久保元彦氏はカントしか論じなかったが、つまりカントを専門にしていたが、しかし常に「哲学とは何か」という根本的な問いを最重要視していた。「哲学とは何か」という最も根本的な問い、素朴さから懸け離れた極めて知的な問い、――これは答えによって終息する通常の問いと違って、いわば創造の源である問いである。即ち、既定の出来合いの分野にどっぷりとつかることを回避し、真にオリジナルな研究を生み出すための条件である問いであり、また哲学的に真に有意義な研究を生み出す(これこそが専門を深く究めることである)ための条件でもある問いなのである。

 

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 5

デカルト研究者でさえ、デカルトの問題性を摑めていない。

否、デカルト研究者はデカルト研究者である故に、デカルトの問題性が掴めないのである。

本ブログの最初の記事(2016.9.12)でも関連することを述べたが、

哲学研究は学問的であろうとすればするほど、皮肉にも、哲学そのものから乖離するのである。

 

デカルトは『省察』の「読者への序言」で、

「自分と共に本気で(真剣に)省察する」ことを読者に求めているが、

デカルト研究者に欠けているのは、まさにこの「真剣さ」である。

 

別の言い方をすると、

デカルトは当然、哲学に対して責任を持っている(それ故に哲学者なのである)が、

デカルト研究者はそうではない。哲学に対する責任感がないのである。

そうであるからこそ、例えば、デカルトについての本を出した後に、平気で、次にスピノザについての本を出したりするのである。

 

更に別の言い方をしよう。

デカルトにとっては哲学は「理論」ではないが、

デカルト研究者にとっては哲学は「理論」である。 

しかし哲学は「理論」であるということは、哲学は「人」そのものから切り離されるということであり、

つまり、哲学は責任感の対象にはならないということなのである。

 

 

 

 

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 4

繰り返し述べたように、 デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない。

但し、デカルトの問題性を的確に摑むことはそれ自体非常に難しいことである。

実際、デカルト研究者--彼らは基本的に哲学史家であって哲学者ではない--からして、デカルトの問題性を的確に摑めていない。

 

そしてデカルトの問題性が掴めていない故に、メルロ=ポンティに好意的なデカルト研究者でさえ、メルロ=ポンティがまるで分かっていない。

例えばデカルト研究の権威であった故ロディス・レヴィスはその著『デカルトと合理主義』の序で、メルロ=ポンティの『シーニュ』から合理主義に関する二つの文章を引用しているが、この引用はメルロ=ポンティに対する無理解をよく表している。

 

そして悲しいかな、研究業績を作るために翻訳・紹介に勤しむ我が国の研究者は、ロディス・レヴィスによる件の引用を無断でそのまま自分の論文の中で引用している(これは一種の剽窃であろう)のである。

こうした「哲学に対する責任感」をまったく欠いた者、即ち「哲学とは何か」という根本的な問いを問うことのない者に、デカルトの問題性を摑めるはずはなく、従ってメルロ=ポンティが分かるわけがない。

  

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 3

メルロ=ポンティの哲学は単なる心身合一の立場ではない。

デカルトには「心身の区別」と「心身の合一」という二つの面があるが、メルロ=ポンティはこのデカルト的二面性を引き受けているのである。

(但し、これら二つの面がどのように結ばれるのかがまさに問題であり、デカルトの場合とメルロ=ポンティの場合とではその結ばれ方は同じではない。)

 

ところで、メルロ=ポンティの哲学は単なる「心身合一の立場」ではないということ、言い換えれば単なる「非反省的なものの立場」ではないということは、この哲学は単なる「現象の記述」ではないということである。

「現象の現象」とか「現象学現象学」といったことが語られるが、

メルロ=ポンティの哲学は「現象の記述」としての現象学であると同時に、現象学現象学でもあり、そしてこれら「現象学」と「現象学現象学」とは不可分である。つまり後者なしには前者はあり得ず、前者なしには後者はあり得ないのである。

デカルトの場合には二つの面の結合はここまでは徹底されていない。)

 

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 2

私は在外研究で、ジャン・マリー・ベイサード教授(パリ大学第十大学)の授業に参加しつつ、教授の主著デカルトの第一哲学:形而上学の〈時間と整合性〉』をノートをとりながら繰り返し繰り返し読んだ。

その間、考え続けたのはもっぱら「デカルトの循環」という問題であるが、この問題を考え詰めてゆくうちに、メルロ=ポンティにおける循環の問題を「再発見」した。

パリでのデカルト経験なしには、2000年における『メルロ=ポンティ 超越の根源相』の出版にいたる道のりはあり得なかったと言える。

 

ただ、パリでのデカルト経験といっても、私はベイサードなどの代表的なデカルト研究者の言うことを鵜呑みにしたわけではない。

また、権威あるデカルト研究史に依拠してデカルトを考えたわけではない。

そうした(アカデミズムを基準にすることはしないという)姿勢を、私は帰国後年々強めてゆき、森有正小林秀雄デカルト考などを熟読しながら、デカルトの哲学を「生のあり方としての哲学」として読む読み方を確立していった。

そしてそれは同時に、「デカルトの循環」の深層(真相)に迫ることでもあった。

 

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 1

メルロ=ポンティデカルト論をいくら読んでもデカルトは分からない。

しかしデカルトを読めばメルロ=ポンティは分かる。

というより、デカルトの問題性が掴めなければメルロ=ポンティは分からないのである。

これが1986年度におけるパリ大学での在外研究を経て、そしてその後の30年間の思索を経て、私が確言できることである。

 

時間と永遠について言うと、

デカルト省察は時間の中で行なわれる。

この「時間の中で」という条件を外して省察を理解することはできない。

例えばコギト(我れ思う、故に我れあり)とは、時間の中で時間を突破し永遠(つまり真理)に達する企ての到達点なのである。

 

このことを押さえると、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』とは何であるのかが分かる。

それは時間と永遠との結合なのである。

但し、メルロ=ポンティの哲学はデカルトの哲学とまったく同じであるというわけではない。メルロ=ポンティの場合はデカルトの場合よりもより荒技的に時間と永遠とは結合される(これは永遠が時間に還元されるということではない)のである。

拙著『メルロ=ポンティ 超越の根源相』(創文社)の、例えば第1章第2節「一種の永遠」を参照されたい。

「デカルトの循環」 (i) ~死の問題へ

繰り返し述べたことであるが、「デカルトの循環」と呼ばれる循環は循環論法の循環ではない。というのも、それは超越関係における循環だからである。

ところで、循環は超越関係における循環であるということは、この場合の超越関係とは循環関係であるということである。

再度、神と聖書の例で考えてみよう。

[A]神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。

   ーーではどうして聖書を信じることができるのか。

[B]聖書を信じることができるのは、聖書は神から授けられたものであるからである。

  • 神は聖書を超越しているのであるが、上の[B]はその超越性を表している。
  • しかし[A]は神は聖書に依存することを意味する。神は聖書によって己れを示さなければならないのである。

つまり超越とは単なる超越ではなくて超越と依存(=非超越)との矛盾であり、また神と聖書の間の循環である。

 

ところで、こうした神と聖書との関係は、精神と身体との関係でもある。

デカルトにおいては、精神は身体を超越していると同時に、身体に依存しているのである。

言い換えると、精神は身体から区別されると同時に、身体と一つになっている(心身合一)のである。

精神は身体を越えたものであると同時に、身体なしにはあり得ない。

こうしたデカルト矛盾は詩人の洞察によっても裏づけられる。

 [1]肉体をうしなって あなたは一層 あなたになった       

   純粋の原酒(モルト)になって 一層わたしを酔わしめる   

   恋に肉体は不要なのかもしれない

[2]けれど今 恋いわたるこのなつかしさは 

   肉体を通してしか ついに得られなかったもの

[3]どれほど多くのひとびとが 潜って行ったことでしょう

   かかる矛盾の門を 惑乱し 涙し          

          茨木のり子『歳月』「恋唄」

 番号はもちろん引用者が便宜上付したものであるが、デカルト的に言うと、

[1]は純粋精神の立場に立つ言葉であり、

[2]は心身合一の立場に立つ言葉である。

そして純粋精神と心身合一という矛盾した二つが同時に問題になるのは、上の詩人の場合もそうであるが、とりわけ「死」においてなのである。

というのも、

一方、死は精神が身体から離れて純粋精神になることを可能にするが、

しかし他方、死はそもそも心身合一体にとってしか存在しないからである。

 

「デカルトの循環」(h)

前の12月1日の記事で、信じることと疑うことの矛盾に言及したが、この矛盾について少し考えてみよう。

「上から」見れば丸いが「横から」見れば三角形である(つまり丸くない)、そのようなものがあるとして、これについて矛盾を指摘する者はいないであろう。

円錐形をしたものは、そのように見えなければならないのであり、そのように見えなければ、それこそ(円錐形の定義に)矛盾するのである。

ところで、既に見たように、コギトや神の存在も、それらが現在の明証であることをやめて過去の明証になると、疑い得るものとなる。つまり、それらは「現在の明証」である場合は信じざるを得ないが、「過去の明証」になると疑い得るのである。

しかしこの「信」と「疑」の矛盾は、上から見れば「丸い」が横から見れば「丸くない」という矛盾とは異なる。「丸い」と「丸くない」は自己同一的な事物の必然的な現われであるが、「信」と「疑」は違う。というのも、11月24日の記事で述べたように、現在の明証と過去の明証の区別は、結局のところ、「神」と「明証の規則」との間の次元の違い、即ち創造者と被造物との間の超越関係を意味するからである。

ということは、超越において「信」と「疑」という矛盾した二つは結ばれるということである。

 しかも信と疑は互いに絡み合っている。

  1. デカルトは 2+3=5 を疑うために「欺く神」を想定したが、「欺く神」を想定するためには「欺く神」という明証の真理性を信じなければならない。つまり疑うことはそれ自体信じることなのである。
  2. しかし、「欺く神」という明証への信頼は、やはり、明証一般に対す懐疑であらざるを得ない。つまり信じることはそれ自体疑うことなのである。

この例はコギトや神の存在に対する信と疑の関係を直接説明するものではないが、〕このようにして信じることと疑うことは絡み合っているのであり、「疑うことは信じることであり、信じることは疑うことである」という循環が存在するのである。

このような循環こそが本当の「デカルトの循環」である。

これはデカルトが実際に語っている論理ではない。そうではなくて、デカルトが実際に生きている論理である。

我々はデカルトの言葉の整合化ばかりに拘ってはならない。肝腎なのはデカルトの思考的生の実体を明らかにすることである。