根本的両義性(3)――受肉(上)

昨夜はソプラノの高橋美千子さん主催のコンサート「魂の響き 旋律の鼓動」を聴きにオペラシティに。

高橋さん、佐藤亜紀子さん(リュート・テオルボ・バロックギター)、立岩潤三さん(パーカッション)という三人の互いに異質な才能とスタイルを交錯させる冒険的な試みを楽しみながら、魂の響きを感覚的に味わったわけであるが、演奏会が終わった今、今度は魂の響きとは何かについて自分なりの観点から論じてみることにしたい。

「魂は時空を超えて彼方に響いていき ・・・」とポスターにある。何と魂は響くのである。人の声や楽器の音のように響くのである。しかし魂の響きとはどのような響きなのであろうか。それは人の声や楽器の音の響きと同じものであるとは思えない。人の声や楽器の音の響きは物理的な振動から成るが、魂の響きはそうではない。それはいわば〈肉〉耳には聞えないものであろう。とすれば、魂の響きとは魂の振動、即ち(愛などの)情動émotionという動きmotionのことであると言ってよいであろう。

物理的振動である人の声や楽器の音の響きは、どれほど大きな響きであっても、それが伝わる範囲は限られている。しかし情動としての魂の響きは国境を越え時代を越えて、果てしなく伝播してゆくのである。こうした情動の伝播の仕方は情報の伝達の仕方とはまったく異なる。「音楽が泣いている時、音楽と一緒に人類全体が、そして自然全体が泣いているのである」とベルクソンは語っているのであるが、この場合、音楽は我々の中に感情を移し入れるのではない。そうではなくて感情の中に我々を引き込むのである。街角で人々が踊っていると通りすがりの人は否応なくダンスの中に引き込まれるが、それと同じである。

さて、考えるべきことは、物理的振動としての「音の響き」と、情動としての「魂の響き」はどのような関係にあるのかということである。演奏者は何も感じないで演奏をはじめることはできない。演奏者は楽譜に潜む「魂の響き」(即ち或る情動)を自分の魂の耳で聴き取り、それを〈肉〉耳に聞える具体的な「音の響き」にするのである。それが表現ということであり、演奏=解釈ということであるが、このように演奏者はあくまでも魂の響きに先導されて演奏するのである。しかし魂の響きは音の響きに対して一方的に先行するわけではない。魂の響きは〈肉〉耳に聞える音の響きとなって――即ち「受肉」して――はじめて存在しはじめると言うことも他方でできるのである。つまり演奏とは或る種の創造的行為なのであり、そうであるからこそ演奏することは深い歓びであり得るのである。

このように、魂の響きは音の響きに先行し、また逆に後者は前者に先行する。二つは互いに前提し合い、従ってまた互いに侵入し合う。音楽とは魂の響きと音の響きの、即ち時間を越えたものと時間的なもの(儚いもの)の、相互前提であり相互侵入である。音楽は根本的両義性である。

根本的両義性(2)――聖なる遊び

 

真面目に仕事したり勉強したりしている人たちの生活においては、遊びというのは休養のためのものでありレクリエーションのためのものであるが、このことが示すように、「真面目」と「遊び」は対立し合い排除し合うものである。ところがホイジンガはこれとはまったく異なる見方をする。彼は真面目と遊びを一致させるのである。

ホイジンガーは祭祀に注目する。祭儀というのは厳粛に執り行われるものであり、この上なく真面目なものである。だが、それは遊びなのだ。そのように彼は言う。しかし神聖な儀式を遊びとすることは冒瀆なのではないか。否、ホイジンガによれば、遊びというものの最も重要な特徴は日常生活から空間的に分離されているということである。従って、人々を別の世界に連れ去って行く神聖な行事は、最も真面目なものでありながら最も美しい遊びであると言えるのである。

本来、遊びというのは真面目と一つのものであり、真面目というのは遊びと一つのものであるのではないか。しかし今日の近代的社会・経済システムの中では、そのような真面目と遊びは消滅しつつあるように思われる。言い換えると、遊びおよび真面目さの聖性(=超越性)が失われつつあるように思われるのであるが、このことは真の謙虚さの喪失、「知」の増長を意味する。私は今、録画したアリス=紗良・オットのピアノ演奏を聴いているのであるが、取り分け哲学研究は空疎さを脱却するために、「音楽する」ことから高度の遊び、即ち高度の真面目さを学ぶべきであろうとつくづく思った。

さて、私は先の投稿で、根本的両義性を示すものとして次のパスカルの言葉を引いた。

「人間とは、あらゆるものの審判者にして愚かなミミズ、真理の受託者にして不確実と誤謬の溜り場、宇宙の栄光にして宇宙の屑。誰がこの〈縺れ〉を解くことができようか?」

この縺れ(両義性)は決して解くことのできない根本的なものである。ところが、人はそのことを洞察することができずに、矛盾する二つを切り離してしまう。つまり自分はあくまでも「愚かなミミズ」であるという自覚なしに「あらゆるものの審判者」であることができると思ってしまう。こうして「知」の傲慢が生まれ、真理は聖性(=超越性)を失うのである。

根本的両義性(1)

昨日の声楽アンサンブル「オリエンス」の定期演奏会。演奏が始まるや、合唱の声とハーモニーの美しさに驚かされた。またバスはもとより器楽奏者たちのレベルも高いものであった。そして嬉しかったのはプログラムのパンフレットの読みやすさである。

ところで、私はいわゆる信仰者ではなく、また宗教に関する知識も皆無に等しい人間であるが、インカルナティオ(受肉)と聖体の秘蹟にはかねてより強い関心を抱いている。これらの神秘は決してローカルな真理にとどまるものではないと考えるのである。因みにモンテウェルディ「4声のミサ」のクレドには次のような件りがある。

  Et incarnatus est de Spiritu sancto ex Maria virgine

イエス・キリストは〕・・・そして聖霊により、肉体を処女マリアから受けました (「オリエンス」プログラムより)

受肉や聖体の秘蹟については別の機会に書くことにするが、問題は次のような根本的両義性である。--「人間とは、あらゆるものの審判者にして愚かなミミズ、 真理の受託者にして不確実と誤謬の溜り場、 宇宙の栄光にして宇宙の屑である。誰がこの縺れを解くことができようか?」(パスカル

芸術の存在意義

 昨日は品川聖さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ)と土居瑞穂さん(チェンバロ)の演奏会に赴き、バッハを堪能してきた。土居さんのチェンバロ独奏で奏でられたBWV964は、私にとって馴染みの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の編曲なので、聴いていて楽しかった。一方、品川さんはJ.S.バッハのガンバとチェンバロのためのソナタを2006年から毎年色々なチェンバロ奏者と共演されているとのことであるが、その演奏は使命感と志を感じさせるものであった。
 さて、話は変わるが、例えばバッハを演奏したり聴いたりする時、我々は実は自分と闘っているのだ。自分を何とかしなければ音楽に接近することはできない。少しでも邪な気持ちがあれば、バッハを聴いたり弾いたりする資格はない。美や善を求める純粋な心が音楽活動の条件である。逆に言うと、我々は音楽によって自分を試されるのである。
 音楽に限らず、一般に芸術は自分との闘いである。その点で、芸術は政治と基本的に異なる。政治というのはあくまでも敵との闘いである。一時期自己批判という言葉が或る方面でさかんに用いられたが、たとえ政治家が反省と自己批判とかといった言葉を口にするとしても、政治家は自分と闘っているわけではない。そのような言葉自体、敵に対する闘いの一環なのである。
 ところで、ウィトゲンシュタインは、「仮に科学上のありとあらゆる問題がすべて解決したとしても、生の問題〔人生の価値というような問題〕はそっくりそのまま残るであろう」と書いている。生の問題、即ち心の問題は科学の管轄外にあるのだ。科学は心について説明することはできるが、「生をよく導く」(デカルト)ことは科学の役割ではない。生をよく導くことは芸術や哲学の役割である。科学は我々の生活の利便性を高めるという点で極めて重要なものである。しかし科学がどれだけ進歩しても、そのことは「よく生きる」(プラトン)ということに、少なくとも直接的には関係しないのである。
 プロであろうとアマチュアであろうと、芸術の存在意義について一度じっくり考えなければならないであろう。

知性と品格

♦ 今年の夏私は、或る学会の会員の方々に向かって、せめてこの学会だけは「知性と品格」を感じさせる学会であってほしいということを述べたのであるが、この知性と品格というのは実は互いに切り離すことのできないものである。つまり、知性はあるが品格はないということはあり得ないのである。

♦ 品格とは生き方の美しさであるとひとまず言っておこう。では、知性とは何なのか。知性があるとは、才気煥発であるとか博覧強記であるとかといったことではまったくない。知性とは疑う能力である。即ち、自分が(いつのまにか)正しいと信じていることが本当に正しいのかどうかを吟味する能力である。自分の意見の正しさを敢えて疑い吟味する余裕(謙虚さ)を持たないことこそは、思考の停止であり知性の欠落である。

♦ 但し、自己懐疑・自己吟味は信じることをやめることではない。逆である。例えばデカルトは、自分は疑うために疑うのではなくて、確信を得るために疑うのであると語っているが、疑うことによって信念は新たにされるのであり、洗練した深みのある信念、寛容な信念へと成長するのである。ということはつまり、知性はそのまま品格につながるということである。

♦ 確信のある人は美しい。信念のある人には品格がある。但しこの場合の信念は自己吟味を容れる本物の信念である。

音楽的表現について

♦ 先日、バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」の楽譜を購入した。第4番(BWV 1017)の第1楽章シチリアーノを弾きたくなったからである。この曲は元はマタイ受難曲の中のアリア「憐れみ給え、わが神よ」なのであろうか。ともあれ、この曲において表現されている深い悲しみは、人間の感情の一つというより、まさに我々の生vieの最深の深みであるように思われる。では、この深い悲しみはどのように表現されているのであろうか。一般に、音楽的表現とは如何なるものなのであろうか。

♦ 音楽が流れるという言い方がある。一つの音は次の音に取って代わられ、そして次の音はその次の音に取って代わられ・・・というようにして、様々な音が次から次に流れ去ってゆく。これは月日が流れるのと似ている。但し、音楽はただ単に流れるのではない。音楽は流れつつ流れないのである。これはどういうことであろうか。

♦ 音楽を演奏している時、あるいるは身を入れて音楽を聴いている時、曲の中の一つ一つの音は孤立した音ではない。それは直前の音を受け継ぎつつ(保ちつつ)、同時に直後の音を予想(先取り)するのである。そしてこのことはすべての音について言えることであるので、継起する個々の音には、直前と直後の音だけではなくて、他のすべての音が秘かに侵入しているのである。様々「異なる」音が入れ替わり立ち替わり現れても、奏でられているのは常に「同一の」曲であり続ける所以がここにある。

♦ 曲は移りゆきつつ移りゆかない。継起するすべての音は或る意味で同時的である。というわけで、音楽は流れつつ流れないのである。ところで、音楽において表現されるもの――例えば件の深い悲しみ――とは、「流れないもの」である。但し、流れないものは流れから独立したものではない。それは流れと不可分である。つまり音楽の表現性・表現力は、演奏者が時間の只中で「流れ」をどのように作ってゆくかによって決まるのである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その12 「考える葦」(下)

デカルトは自叙伝『方法序説』の中で学生時代のことを振り返りつつ、「私は多くのことを知れば知るほど、ますます自分は何も知らないということを思い知った」というようなことを語っているが、デカルトは決して知識におぼれるような人間ではなかった。彼は若い時から、「知る」ということはどういうことなのかという強烈な問題意識を抱いていたのである。

♦ しかしデカルト研究の長い歴史の中で、デカルトにおける知の問題はごく表面的にしか捉えられてこなかったと言わざるを得ない。一般に研究者には、みずから根本的なところから考えるというまさに哲学(者)的な姿勢が欠如しているのである。人々は例えばデカルト的懐疑について、それは方法的懐疑であると頭から信じ込み、デカルト的懐疑に関する伝統的理解についてデカルト的に疑ってみるということを決してしないのである。

♦ ところで、デカルトは第三省察のはじめのところで、我々が明晰判明に認識すること(例えば2+3=5ということ)でさえ疑うことができる(どうしてかはここでは省略する)という主張と、我々が明晰判明に認識することは真であるという主張とを、つまり互いに否定し合う二つの主張を、順次行なっているのであるが、面倒な議論をいっさい抜きにして言うと、是非指摘しなければならないことは、「可能な懐疑を取り払うことができるならば我々は確実な知を獲得することができる」という素朴な考え方を、デカルト解釈に持ち込んではならないということである。

♦ 普通我々は、疑いの可能性は我々を半信半疑に陥らせるだけであると考えている。しかしそのようなことが言えるのは、知の対象が超越性(神秘性)を持たない場合である。つまり、何が言いたいのかというと、疑いの可能性は知を〈超越的なものへの信〉たらしめることができるのである。疑うことができるということは知の有限性を、つまり人間の「弱さ」を意味するが、しかし疑いの可能性は、翻って考えると、神とか美といったいわゆる形而上学的なものだけではなくて、2+3=5ということをも、超越的(神秘的)なものにすることができるのである。

♦ このように、人間の本質的な弱さは逆説的にも人間に崇高さ、ディニテdignité――尊厳(品格)――を与える。一般にデカルトパスカルは対照的なイメージで見られているが、前の記事で示した「考える葦」における「弱さと尊さの弁証法」は、実はデカルトにも存するのである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その11 「考える葦」(中)

パスカルは「考える葦」に関する断章の中で次のように語っている。

(a) 〔自然の中で最も弱い葦に過ぎない〕人間を押しつぶすのに、宇宙全体が武装する必要はない。蒸気や一滴の水だけでも、人間を殺すのに十分である。

(b) しかし宇宙が人間を殺すとしても、人間は人間を殺すものよりも尊い noble であろう。なぜなら〔考える葦である〕人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優勢であることを『知っている』からである。宇宙はそうしたことについて何も知らない。

♦ しかし、自分が死ぬことを知っていることが、どうして人間が尊いものであることの理由になるのであろうか。我々は子供の時から、親や教師に教えられて、あるいは書物やメディアを通じて、あるいは身近な人も含めた多くの人の死に接することで、人間は誰でも死ぬものであり、従って自分もいずれは死ぬということを「知っている」。しかしパスカルの言う「知っている」はそのような知ではないであろう。というのも、そのような知(言葉の上の理解)が、人間が noble なもの――尊いもの、高邁なるもの――であることの理由であるとは到底思えないからである。

♦ そこで、自分が死ぬことを知っているという知を、自分の弱さを感受し認めること(前回9/5の記事を参照)として捉えてみよう。そうすると或る弁証法が発動するのである。――どうして人間は自身の弱さを感受し認めることができるのか。それは自分自身の中に何か〈弱さを越えたもの〉があるからであり、それを基準にして自身を見るからである。どうして人間は自分の惨めさを鋭敏にかつ確乎として感じ取ることができるのか。それは自分自身の中に何か偉大なものがあることを鋭敏にかつ確乎として感じ取るからである。惨めさは偉大さの証しなのだ。卑小な人間は自分の惨めさを感受し認めることができない。

♦ 人間とは死すべき mortel ものである。しかしそれ故にこそ〈死を越えたもの〉でもある。人間とはこの矛盾である。(続く)

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その10 「考える葦」(上)

♦ 「考える葦」はパスカルの言葉として余りにも有名であるが、しかしその内実は必ずしも知られていないように思われる。そもそも、パスカルは単に「人間は考える葦である」と言っているのではない。「人間は〔自然の中で最も弱い〕葦に過ぎない。しかし考える葦である」と書いているのである。そして指摘しなければならないことは、(a)葦に過ぎないことと、(b)考える葦であることとは相反することであり、しかも(a)は(b)によって乗り越えられてしまうのではないということである。結論から言ってしまうと、(a)「〔自然の中で最も弱い〕葦に過ぎない」ことが、(b)「考える葦である」ことの条件なのである。つまり、弱いものであるからこそ考えることができるのである。では、この場合の弱さとは何なのであろうか。

パスカルが自然の中で最も弱いと形容する葦、この葦は田辺保氏によると、マタイ福音書12章(イザヤ書42章)における「彼は傷ついた葦を折らず」に由来する。このことをも踏まえて、私は問題の弱さfaiblesseを、傷つきやすさvulnérablitéという意味での弱さと解したいと思う。どうしてかと言うと、傷つきやすさは或る種の感受性を含意するからである。いくら人間は弱いものであると言っても、その弱さを人間自身が感受し認めなければ意味がないのである。

♦ ところで、現代の深刻なしかも根本的な問題は、傷つきやすさという感受性を失っている人たちが昔よりも顕著に見られることである。これは政治家だけの問題ではない。「子どもの悪態にさえ傷ついてしまう 頼りない生牡蠣のような感受性」(茨木のり子)を持たない人間の醜悪さ(横柄・厚顔無恥・狡猾・権力欲・暴力・・・)は至る所に見られる。

「初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人とも思わなくなったとき 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました」(「汲む―Y・Yに―」)

♦ しかし、人間は傷つきやすいということに留まるものではない。(続く)

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(4)

♦ 一昨日の27日はソプラノの高橋美千子さん主催のコンサートに出かけた。演奏の素晴らしさをここで具体的に語ることはできないが、ともあれ、この演奏会は私にとってとても有益であった。「歌詞=詩それ自体の音楽性」そして「音楽に本質的な沈黙」について、改めて考えるきっかけを与えてくれたからである。

♦ 「私が『花 une fleur!』と言う。そうすると、どんな花束にも無い花が音楽的に musicalement 立ちのぼるのである。」――詩人マラルメはそのようなことを語っていた。

通常の言葉の使用においては、どんな花束にも無い花が音楽的に立ちのぼるというようなことは起こらない。通常は、「花」という言葉は現実の花を指し示す。あるいは花の概念を意味するが、この概念は現実の花に帰着すべきものである。つまり、通常の言葉の意味作用には創造性が欠けているのである。そしてこれは、音楽性が欠けているということである。

♦ ところが、詩の言葉としての「花」という言葉は、現実の花を意味するのではなくて、現実の花とは異なる花――マラルメは花の甘美なる観念そのものという言い方をしている――を湧出させるのである。詩の言葉の意味作用は創造的であり音楽的である。詩の言葉は通常の言葉のように語るのではない。詩の言葉は語らない。それはいわば語らないという仕方で語るのである。それは沈黙せる言葉la parole silencieuseである。

♦ 詩の言葉は黙せる言葉であり、そして実は音楽も同じなのである。そもそも、詩も音楽も沈黙が発する声、即ち沈黙の声 les voix du silence に耳を傾けることから生まれるのである。

因みに、ピレシュは若者たちに送るメッセージとして次のように色紙に書いていた。

Listen to your heart, listen to your soul.

Remember what music and Art does to you …

Pay attention to silence and Nature …

Don’t let you influenced by others on this matter、

Be honest and let things happen the way they come ・・・

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その9  ~伊集院静氏の言葉~

♦ 「孤独を学べ。孤独を知ることは、他人を知ることだ。」――私と同世代の伊集院静氏の本を或る偶然がきっかけではじめて開いたのであるが、この言葉は私の心に強く響いた。氏は次のように語っている。「大人になるために何からはじめるか。私はこう思う。自分は何のために生まれてきたか。自分はどんな人になりたいか。それを考えることだ。考えること、その答えを探すことには不可欠なものがひとつある。それは一人で考え、一人で歩き、一人で悩むことだ。孤独を学べ。孤独を知ることは、他人を知ることだ。」(『贈る言葉』)

♦ 私は青年デカルトのことを思う。デカルトは当時としては最高水準の学問が教えられていたエリート校に入学し、そこでありとあらゆる学問を学んだ。いずれ教師として学校に留まることを約束されてもおかしくないほど、デカルトは抜群に勉強ができた。しかし学業を終えるや、彼は学校の勉強というものを完全に棄てたのである。そして「世間という大きな書物」を読むために、旅に出る決心をした。青年デカルトは宮廷や軍隊を見たり、様々な身分、様々な気質の人と交わったりして、そのことから学校の勉強からは得られない真理を見出した。学者が書斎で行なう推論は所詮虚栄心を満たすためのものに過ぎないのである。

♦ しかしデカルトは「世間という書物の中で」研究しただけではない。同時に「私自身の中で」も研究したのである。これら二つのこと、つまり世間という書物の中で研究することと、自分自身の中で(即ち孤独の中で)研究することとは、実は密接に結びついている。前者なしには後者はなく、後者なしには前者はないのである。私はかつて、「デカルト/生の循環性」という論文(本ブログ2017/10/27に掲載)でそのことを詳細に論じた。

♦ 高邁な人とは孤高の人である。但し5月20日の投稿で示したように、最も高邁な者は最も謙虚な者である。高邁な人は自分だって他の人が犯した過ちを犯し得ること、また他の人も自分と同じように意志を善く用いることができることを、十分に心得ているのである。孤高の人こそ、自分を他人より優位に置いたりしない。つまり本当の意味で他人をよく理解しているのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(3)

今回は体(body)に関するピレシュ言葉を取り上げることにする。メルロ=ポンティは『眼と精神』の中で、「画家は自分の体を世界に貸し与えることによって世界を絵に変えるのである」というヴァレリーの言葉を引いているが、ではピアニストはどうなのであろうか。

なお、字幕の翻訳では話を正確に捉えることは無理なので、今回は元の言葉に即した訳を試みることにする。

♦ ピレシュいわく。――今日ではピアノは大ホールで大きく響くように作られています。つまりピアノという楽器は独りでに(by themselves)音を出すように作られているのです。近頃私はピアノを弾くのが以前よりずっと難しく感じるようになったのですが、それは年を取ってキャパシティが低下したせいだけではなくて、ピアノが奏者に依存しない楽器になってしまったことにその原因があります。かつては、誰もが自分で響きや色彩を創出するのでなければなりませんでした。歌いながら音を生み出し音を伝えるには、どのように自分の体を使ったら良いのかを学ぶ(learn how to use your body)のでなければならなかったのです。

♦ ピレシュはまた次のようにも語っている。――音は天からやって来るものではないし、頭脳からやって来るものでもありません。音は自分の体から(from your body)やって来るのです。従って、私たちの体はそれぞれ違っているので、私たちの音はそれぞれ違うのです。私たちは楽器で音を生み出すのではありません。そうではなくて、歌手と同じように自分の体で(with our body)音を生み出すのです。とはいえ、内部に楽器を持つ歌手とは異なり私たちは外部に楽器を持つので、楽器とコミュニケーションすることによって自分自身の音が楽器を通して存在するようにすることを学ぶのでなければならないのです。

♦ さて、以上のようにピレシュは、音は自分の体からやってくるのであり、ピアニストは歌手のように自分の体で音を生み出すのであると語っているわけであるが、これは自分の体が楽器になり、楽器が自分の体になるということである。とすれば、「ピアニストは自分の体を楽器に(そして世界に)貸し与えることによって、世界を音楽に変えるのである」と言うことができるであろう。(続く)

(追記)

顔の表情やバレエやダンスのことを考えると最も分かり易いのであるが、身体というのは表現体(何かを表現するもの)であり、しかも、それによって他のものが表現体となり得る基本的な表現体である。つまり、自分の体で何かを表現することのできない人は、音楽を演奏したり美術作品を制作したりすることができないと考えられるのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(2)

今回は自由と制限をめぐるピレシュの言葉を取り上げることにする。

♦ (ピレシュいわく)「完全な自由か完全な秩序(completely free or completely strict)。どちらかの選択ではない。一定の秩序を保ちながら自由にしていいの。楽譜に書かれた制限を理解していれば、その中で常に自由でいられる。人生もそうよね。節度を守れば好きにしていいの。楽譜という制限を受け入れ、作曲家に敬意を払い、作曲家が求めているものを守れば、あとは自由。なんでもできる。」

 【コメント】これは実際に若者を指導する中でのピレシュの発言であるが、字幕の翻訳からその意味するところを正確に読み取ることができるかどうかは大いに疑問である。ピレシュは何を言っているのか。

♦ 演奏者はきちんと楽譜通りに弾くべきなのか、それとも自分の思いのままに弾くべきなのか。strict(厳格)であるべきなのか、それともfree(自由)であるべきなのか。――ピレシュが言うには、全面的にfreeであるか、全面的にstrictであるか、どちらを選ぶかが問題なのではない。「制限=楽譜を正確に知る(know exactly)」ならば、自由に演奏することができるのである。   

♦ これは逆に言うと、制限=楽譜を正確に知るのでなければ、自由に演奏することはできないということである。strictであることは自由を犠牲にすることなのではない。それはむしろfreeであることの条件なのである。一般に、自由であることは制限が課せられないことであると考えられているが、しかし良く考えてみよう。制限がなければ自由は空転してしまうのである。制限があるからこそ、自由は内容を持つことができるのであり、内容を深めることができるのである。

♦ ところで、そもそも制限を守るとはどういうことなのであろうか。それは単に、楽譜を勝手に書き換えたりしないということなのではない。では、どういうことなのか。ピレシュは「制限=楽譜を受け入れ、作曲家に尊敬の念を抱く(respect)ならば」という言い方をしている。制限=楽譜を遵守することは、実は作曲家との人格的・内面的な交わりなのである。ということは、制限を守ることは、それ自体、自由が深い内容を持つことなのである。         

♦ 創造的な演奏においては、このように自由と制限とが合一する。そして、自由と制限とのこうした合一こそが、本来の意味でのフォルム、即ち生けるフォルムなのである。

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(1)

 ♦ ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(1944生)が、6月10日のNHKの番組に登場した。1970年代にモーツァルトのレコードを聴いて以来ピレシュ(昔はピリスと呼んでいた)のことは一応知っていたが、彼女は特に気になるピアニストではなかった。ところが、今回の放送を視聴して、認識をまったく新たにしたのである。

♦ ピアノの演奏と音楽に関する話。前者は後者の理解を助け、後者は前者の理解を助けるものであった。そして分かったのは、彼女にあっては「音楽する」ことがそのまま「哲学する」ことになっているということである。真の音楽家は必然的に哲学者になるのである。

♦ そこで、彼女の言葉の幾つかを、それらに簡単なコメントを加えつつ紹介することにしたい。なお、テレビの字幕は読みやすさを最優先にした訳であって、元の言葉を忠実に再現するものではないが、ここでは字幕に従うことにする。

♦ (ピレシュ)「今は音楽ビジネスやコンクールばかりが注目されます。芸術の存在余地がない、表面的なものばかりです。若者たちはそこから逃れられないと思い込んでいます。でも、そんなことはない。彼らは自らの本質(their own nature)をとことん探るべきなのです。芸術や創造の源、つまり音楽の根源を探求せねばならないのです。」

 

【コメント】商業主義の世界においては、多くの人に受けるものしか求められない。また競争主義の世界では点数化し得るものしか問題になり得ない。そこで若者たちも、世間の尺度や評価者の基準に良く合致する演奏をしようとする。しかしこのような演奏は、たとえ表面的には面白く個性的なものであろうと、創造的な演奏ではあり得ない。他人の眼の奴隷になり、自分を飾ることしか考えず、自分自身の魂に問いかけることのない演奏が、創造的な演奏であるわけがないのである。というのも、創造の源、即ち音楽や芸術の源(source)は、他ならぬ自分自身の自然本性(nature)であるからである。

ピレシュは、自分を見失ってしまっている若者たちを何とか覚醒させようとしているのである。(続く)