根本的両義性(10)――G.モローと神話の世界

 私は1986年の3月にはじめてフランスの地を踏んだのであるが、向こうの寮に着いてから真っ先に訪ねたのはパリのギュスターヴ・モロー美術館だった。ただ、この画家に関して漠然とした関心を抱いていたとはいえ、当時は絵画をじっくり味わい色々考えをめぐらす余裕はまったくなかった・・・・・。

昔日のそんな思い出を懐かしみながら、モローが描いたファンム・ファタール(魔性の女)をテーマとするNHKの番組を録画で観た。

「現実にはまるで聖女のような女性〔注:母親と恋人を指す〕を愛したモロー。しかし描いたのは〔聖書に出てくるサロメのような〕魔性の女、ファンム・ファタールでした。現実と非現実の二つの世界。まったく違うタイプの女性に惹かれたモローの心情はどのようなものだったのでしょう。」というナレーションが番組の中で流されたのであるが、ゲストの一人であるドイツ文学者の中野京子氏は、描かれた魔性の女は男の人が勝手に妄想したものであって、本当に現実味のないものである。従って女性が見れば余り妖艶ではない。そのようなことを述べたのであるが、それに対して、もう一人のゲスト精神科医きたやまおさむ氏は、現実に家の中の母子関係の中に〔幼少期における〕官能性と妖艶さが残っていたので、これだけ描けたのだと反論した。

しかしどうなのであろうか。そもそも神話の世界というのは現実味のない世界なのではないか。但し現実味がないということは妄想であるということでは必ずしもない。「女性というのは、その本質において、神秘的で未知なるものに夢中となる生き物であり、無意識のうちに邪悪で悪魔的な誘惑に取りつかれてしまう存在なのである。」というモローの言葉が番組の中で紹介されているが、女性の〈本質〉に関するこうした洞察はモローにとっては神話の世界としてしか描けないのである。ということはつまり、神話の世界には固有で独自のリアリティがあるということである。従って、精神分析学の方式によって神話の世界を現実の世界に何らか還元するような解釈にも、私は与することができない。

神を失い科学が過剰に信仰されている現代においては、神話は単なるお伽話になってしまっているのかもしれない。しかし眼に見える世界と並んで眼に見えない世界(神秘)が存在するのであり、見えるものを見る眼と並んで見えないものを見る眼が存在するのである。そして重要なのは二つがうまく組み合わされることである。そのことによって我々の精神は健全であることができるのである。現実の世界(の聖女)と神話の世界(の魔性の女)は、相反するものでありながら、モローという一つの人格の中で統合されている。二つは互いに求め合いながら共存しているのである。

東京で開催されているモロー展にはまだ行っていない。近いうちに足を運び、33年ぶりに作品に再会するつもりである。

根本的両義性(9)――マリアの純潔(下)

 

♦ マリアは言った。

  「主はその腕で力を振るい、

  思い上がる者を打ち散らし、

  権力ある者をその座から引き降ろし、

  身分の低い者を高く上げ、

  飢えた人を良い物で満たし、

  富める者を空腹のまま追い返されます。」

    (ルカ「マリアの賛歌」より)

マリアは社会悪に対して決して寛容であるわけではない。彼女は実に攻撃的である。しかしマリアをしてこのように言わしめるものは何なのであろうか。

先日の池袋の暴走事故をめぐって、事故を起こした人間が逮捕されないのは彼が“上級国民”だからだという憶測が出回っているそうである。世の中の理不尽な不公平、そしてそれを作り出しまた隠蔽する狡猾な欺瞞に対する怒りは至極尤もなものである。ただ、驕りたかぶる権力者・富者を非難する正義感が、良心あるいは良心の根っこにある信仰心(419日の投稿を参照)に基づくものである場合と、その正体がルサンチマンという歪んだ欲望・権力欲である場合とでは、大きな違いがある。一点だけ述べると、後者の場合には、非難する者の自己は他者を否定することによってしか成り立たない自己であり、常に他者によって限定され抑圧されている自己なのである。

しかしとはいえ、法や制度を変えることによって多少なりとも格差を是正することができるならば、即ち多少なりとも不幸を減少させることができるならば、非難の動機はどうでもよいのではないであろうか。然り、政治の観点からいえばその通りである。但し、不幸から救われることは幸福を得ることではないということを指摘しなければならない。幸福とは不幸ではないということではないのである。

幸福とは快適さではなくて、心の奥底にまで届く満足感である。

不幸(例えば貧困)を減少させることは政治の役目である。しかし幸福は政治の問題ではない。幸福は個人の問題であり、魂の問題である。政治の問題と魂の問題はあくまでも区別されなければならない。両者を混同することから思考や議論における混乱が生じるのである。但し両者を切り離してよいというわけではない。むしろ相容れない政治の問題と魂の問題は相互的・相補的であるべきなのであり、両者を然るべく統合することこそが我々の課題であるべきなのである。

マリアは言った。

  「わたしは主のはしためです。

  お言葉どおり、この身に成りますように。」

    (ルカ「イエスの誕生が予告される」より)

こうした神への絶対的服従は魂の絶対的純粋性を意味する。そして冒頭で示したマリアの攻撃性は、それと対立し矛盾するこの神への絶対的服従=魂の絶対的純粋性に基づく――と同時にそれを肉づけする――のである。

聖週間のフランス・バロック宗教音楽

 昨日は「聖週間のフランス・バロック~高橋美千子リサイタル」に出かけた。5人の器楽奏者(花井さん、丹沢さん、原田さん、島根さん、佐藤さん)の演奏も含めて、何か「完璧」という言葉を使いたくなるような演奏会だったのであるが、まずはプログラムの冒頭にある高橋さんの挨拶の最後の件りを引用したい。
   ・・・・・・私が10年もフランスで仕事をさせてもらっている
  ことや、これほど俗社会に溺れながらも宗教曲を歌う機会
  をたくさんいただいていることも、今日の演奏会を迎える
  ための過程だったように思えています。
   フランス・バロック宗教音楽を通して、どこまでそれを
  お伝えできるか未知数ですが、どうぞ最後までお聞きいた
  だいて、音楽と言葉が与える「何かを信じる力」=「愛」
  を感じ取っていただければ幸いです。
 今日の演奏会を迎えるための過程――
自分の来し方を振り返りつつ、自分の過去を、そしてこれから先の未来をも、この現在に結晶させるという意気込みで、高橋さんは共演者と共に演奏されたのである。真の音楽家は己れの人生そのものが一つの楽曲になるような生き方ができるのである。そしてそのような生き方ができるのも、信じる力と愛があればこそであろう。
 音楽と言葉が与える「何かを信じる力」=「愛」――
信じる力と愛とがイコールで結ばれているところが興味深い。信じることと愛することとは異なるが、しかし二つは切り離すことができないのである。そして恐らく、多くの場合、愛することが信じることに先行するのではないであろうか。(因みに、自分はカトリック無免許運転をしていると言っていた福田恆存が、昭和30年頃に、戦後日本人は「信じる力」を失ったという文章を書いている。わざわざ信じる「力」という言い方をしているのは、信じるということは懐疑を介する超越の運動だからである。)
 ともあれ、ここで高橋さんが言われていることは、音楽と言葉が与える信じる力=愛である。音楽と言葉は信じる力と愛を与えてくれるのである。昨日の演奏会は、自分は既に信じる力や愛を所有しているという思い込みのないすべての人に、あるいは自分は既に信じる力や愛がどのようなものであるのかを知っているという思い込みのないすべての人に、クープランシャルパンティエの曲を通して「信じる力」=「愛」を深く感じ取らせたはずである。

根本的両義性(8)――マリアの純潔(中)

 パリのノートルダム大聖堂の火災のニュースに接して、私は最初、フランスそのものが崩壊していくような錯覚を起こした。パリのノートルダムは私にとってまさにフランスの象徴であったということである。とはいえ、私は宗教というものを重んじているわけではない。私が何よりも重要と考えるのは、○○教とか△△教とかといった宗教ではなくて信仰心である。いわゆる“宗教”や“道徳”は生の表層を形づくるだけであるが、信仰心は生の最深部に発するのである。
 ところで、フランスを代表する哲学者ルネ・デカルトは独自の仕方で神の存在を証明した。そのことはよく知られているが、しかし彼は一方で、神は理解不可能なものであること、即ち神は合理性を無限に越えた不合理なものであることを強調したのであり、我々はこのことを見落としてはならない。実は、デカルトにあっては、この不合理な神への不合理な信仰こそが、神の存在の合理的な証明を可能にし、そしてそれを支えているのである。
 デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立しているとしても、あるいは表面上は信仰に依拠していないように見えるとしても、この哲学は実は善美なる神への生ける信仰によって実質的に根拠づけられている。それは黙せる篤き信仰心によってこそ実現され得ているのである。従ってデカルトの秘められた信仰心を感取せずにそれを等閑視するならば、彼の哲学を本当の意味で理解することはできない。即ち論語読みの論語知らずの如き、デカルト読みのデカルト知らずになってしまうのである。――こうしたことを、私はかつて幾つかの角度から示した。
 さて、前の投稿で取り上げたマリアの純潔(処女懐胎)ももちろん合理的ではない。それは不合理なのであるが、信仰は意志によって不合理を突破するのである。即ち意志によって疑わしさを突破するのである。ということは、疑いは信じることに本質的なものであるということである。疑わしさが消えた時に我々は神を信じるのではない。疑うことができるからこそ神は神なのであり、疑うことができるからこそ我々は神を信じるのである。神への信仰は両義的であり、この両義性は決して解消されない根本的なものである。

根本的両義性(7)――マリアの純潔(上)

 昨日の午後は小坂理江さん(歌、ハープ)と佐藤亜紀子さん(リュート)の演奏会を聴きに目白まで出かけた。
  「悦びの園に音楽ありき-15世紀の音楽の愉しみ方」
まさにこのタイトル通りの内容の、有益で楽しい演奏会であった。ここでは昨日のコンサートを想い起こしつつ私の関心事について少し述べてみることにしたい。
 プログラムの表紙にあるメッケネムの版画(上の写真)には庭の泉のそばでハープとリュートを奏でる人物が描かれているが、この図像は中世絵画の主題であった「閉ざされた庭」と関連があるとのことである。「閉ざされた庭」というのは旧約聖書の雅歌4.12に由来するが、それは聖母マリアの閉ざされた子宮、即ち穢れなき子宮を意味する。つまり、マリアの純潔を象徴する。改めて言うまでもなく、マリアは聖霊によって身ごもったのである。
  ・・・マリアは天使に言った。「どうして、そのような
  ことがありえましょうか。わたしは男の人を知りません
  のに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き
  方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
  神の子と呼ばれる。」(ルカによる福音書
 我々はこの聖霊による懐胎ということに驚くのでなければならない。驚くということは、それを狂信することでもなければ、逆に利口ぶって高をくくる態度を取ることでもない。聖霊による懐胎に驚くということは、それはとても分からないことであるということが分かることである。分からないということが分からない故に、即ち驚くことができない故に、人はカルトに陥り、あるいは逆に知的傲慢に陥るのである。真の信仰は驚きに基づく。驚きは、差別やハラスメントや暴力を生む権力欲という罪深い欲望から我々を解放するのである。
 ところで、イエスは単に「神の子」であるだけではない。イエスは聖なる「霊」の観点から見れば神の子であるが、「肉」の観点から見ればダビデの子孫から生まれたとされるのである。とすれば、マリアについても「霊」の観点と「肉」の観点の両方が必要なのではないか。更に言うと、アガペーとエロースの両方の観点が必要なのではないか。(続く)
  
  * 下の写真はエル・グレコの「受胎告知」

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根本的両義性(6)

 先日8日に、東京都庭園美術館で開催されている展覧会――『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』――に出かけた。テレビでの紹介を偶々見たことがきっかけである。岡上のコラージュ作品はすべて戦後間もない1950年から56年までのごく限られた期間に、東京で制作されたとのことである。
 下の写真は「廃墟の旋律Melody of the Ruins」(1951)である。死体の手首や白ネズミなども見られる廃墟の中で、美しい女性が楽譜を見ながら楽器を奏でている。彼方にまで広がる無残な廃墟(背景)と、楽器を奏でる女性(前景)とが、奇抜な仕方で貼り合わされているのである。対照的な前景と背景は水と油のように決して溶け合わない。しかし注意深く見てみると、何と楽器の頭には小さな髑髏が付いているのである。廃墟と旋律は秘かに繋がっているのだ。じっと見つめていると、廃墟そのものから旋律が立ちのぼってくるようにさえ見えてくる。因みに、コラージュのタイトルは「廃墟と旋律」ではなくて「廃墟の旋律」である。
 無残な廃墟と旋律を奏でる美しい女性は鮮やかな対照を成し、しかも調和しない。しかし両者は不思議にもやり取りし合っているのである。これが<現実>というものなのだ。現実というのは本質的に両義的なのである。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(梶井基次郎)というのはその通りなのである。
 東京大空襲・・・そして東日本大震災・・・。こういった悲劇は、たとえ復興が進もうとも、そっくりそのまま存在し続ける。取り繕うとしてはならない。廃墟なしには旋律はないのである。相反する二つは地と図のように分離不可能である。
 両義性を感受することができないと、現実は平板になり、人間は薄っぺらくなる。現実は現実性を失い、人間は人間性を失うのである。

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根本的両義性(5)――受肉(下)

 自分にとって不都合な発言を行なう者に対して、耳を傾けるどころか横柄な態度で発言を遮る人間の醜さは、例えば最近の首相官邸での官房長官会見において見られるが、しかしこの世にはそうした驕りたかぶる人間の醜さとまさに対極をなす美しさがある。十字架の美しさがそれである。その美しさは純粋な善の美しさである。先の投稿で、「受肉」はへりくだりを意味するということ、神こそは真に自分をむなしくすることができるということを述べたが、真に自分を無にすることのできる者のみが純粋な善の美しさを帯びることができるのである。
 なお、ここで言う純粋な善は決して観想(テオリア)の対象ではない。それは実践的なものである。我々はイエスのように自分を無にすることはできないが、しかし純粋な善は我々の生活(諸々の活動)の原動力であり得るのである。
 さて、殉教は自己犠牲であり美しい行為であるが、しかしその殉教でさえ十字架には遠く及ばない。無限に及ばない。シモーヌ・ヴェイユが言うには、殉教者は自分の召命の偉大さに酔っているのである。原始キリスト教の殉教者は、猛獣の放たれた闘技場に讃美歌を口ずさみながら入場した。彼らは嬉々として死を受容した。しかし彼らがそうすることができたのは、天の国で神の子キリストの右に座すという栄光を約束されていると信じていたからである。とすれば、殉教は善であるとしても純粋な善ではない。自分というものがむなしくなっていないからである。
 一方、打って変わって、イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだ。イエスは断末魔の苦しみを苦しみつつ、神からも人からも見捨てられた孤独を経験したのである。こうしたまったき絶望の中で行なわれる自己犠牲こそが真に自分を無にすることなのであり、それこそが純粋な善なのである。
イエス・キリストの両義性については別の機会に考察することにする。


根本的両義性(4)――受肉(中)


♦ 前の投稿では、魂の響きが〈肉〉耳に聞える音の響きとなることについて受肉という言葉を用いたが、受肉とは本来、「ロゴスが肉となった」(ヨハネ福音書)ことであり、即ち神のひとり子(イエス・キリスト)が人間となってこの世に現われたことである。このイエス・キリスト受肉ヒエロファニー(聖体示現)の最高のものであると言われるが、それは単なるヒエロファニーではなくて、イエス・キリストの数々の行ないと数々の言葉、そして十字架の死にいたる受難 Passion をも含むのである。
♦ ところで、着目したいのは、こうした受肉がへりくだりを意味することである。「フィリピの人々への手紙」にはこうある。
  キリストは神の身でありながら、
  神としてのあり方に固執しようとはせず、
  かえって自分をむなしくして、
  僕(しもべ)の身となり、
  人間と同じようになられました。
  その姿はまさしく人間であり、
  死に至るまで、十字架の死に至るまで、
  へりくだって従う者となられました。
  (he was humbler yet, even to accepting death, 
   death on a cross.)
♦ へりくだることは容易ではないように思われる。へりくだりは多くの場合、偽善であるか、あるいは自分は謙虚である(=偉い)という思い上がりであるか、どちらかなのではないであろうか。実は真の謙虚さには神々しさがある。つまり神こそが真にへりくだることができるのであり、神こそが真に自分をむなしくすることができるのである。十字架の死は無力と悲惨の極点であるが、それ故にそれはキリストが神であることの証しなのだ。イエス・キリスト人間性(人間であること)はその神性(神であること)を証しする。というのも、イエス人間性はその神性を前提するからである。
♦ ところで、人間も悔悛によって一瞬であれ真にへりくだることができるのではないか。有名な逸話を例に挙げよう。イエスは姦通の罪を犯した女が石打の刑(これは死刑である)に処せられるところを救ったのであるが、その時こう語ったのである。「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」と。そうすると年長者から順番に一人また一人と立ち去っていったのであるが、もし石を投げようとした人々のめいめいにわずかなりとも改悛の情が湧かなかったならば女は助からなかったであろう。しかし改悛というものも或る種の恩寵なのではないであろうか。(続く)

根本的両義性(3)――受肉(上)

昨夜はソプラノの高橋美千子さん主催のコンサート「魂の響き 旋律の鼓動」を聴きにオペラシティに。

高橋さん、佐藤亜紀子さん(リュート・テオルボ・バロックギター)、立岩潤三さん(パーカッション)という三人の互いに異質な才能とスタイルを交錯させる冒険的な試みを楽しみながら、魂の響きを感覚的に味わったわけであるが、演奏会が終わった今、今度は魂の響きとは何かについて自分なりの観点から論じてみることにしたい。

「魂は時空を超えて彼方に響いていき ・・・」とポスターにある。何と魂は響くのである。人の声や楽器の音のように響くのである。しかし魂の響きとはどのような響きなのであろうか。それは人の声や楽器の音の響きと同じものであるとは思えない。人の声や楽器の音の響きは物理的な振動から成るが、魂の響きはそうではない。それはいわば〈肉〉耳には聞えないものであろう。とすれば、魂の響きとは魂の振動、即ち(愛などの)情動émotionという動きmotionのことであると言ってよいであろう。

物理的振動である人の声や楽器の音の響きは、どれほど大きな響きであっても、それが伝わる範囲は限られている。しかし情動としての魂の響きは国境を越え時代を越えて、果てしなく伝播してゆくのである。こうした情動の伝播の仕方は情報の伝達の仕方とはまったく異なる。「音楽が泣いている時、音楽と一緒に人類全体が、そして自然全体が泣いているのである」とベルクソンは語っているのであるが、この場合、音楽は我々の中に感情を移し入れるのではない。そうではなくて感情の中に我々を引き込むのである。街角で人々が踊っていると通りすがりの人は否応なくダンスの中に引き込まれるが、それと同じである。

さて、考えるべきことは、物理的振動としての「音の響き」と、情動としての「魂の響き」はどのような関係にあるのかということである。演奏者は何も感じないで演奏をはじめることはできない。演奏者は楽譜に潜む「魂の響き」(即ち或る情動)を自分の魂の耳で聴き取り、それを〈肉〉耳に聞える具体的な「音の響き」にするのである。それが表現ということであり、演奏=解釈ということであるが、このように演奏者はあくまでも魂の響きに先導されて演奏するのである。しかし魂の響きは音の響きに対して一方的に先行するわけではない。魂の響きは〈肉〉耳に聞える音の響きとなって――即ち「受肉」して――はじめて存在しはじめると言うことも他方でできるのである。つまり演奏とは或る種の創造的行為なのであり、そうであるからこそ演奏することは深い歓びであり得るのである。

このように、魂の響きは音の響きに先行し、また逆に後者は前者に先行する。二つは互いに前提し合い、従ってまた互いに侵入し合う。音楽とは魂の響きと音の響きの、即ち時間を越えたものと時間的なもの(儚いもの)の、相互前提であり相互侵入である。音楽は根本的両義性である。

根本的両義性(2)――聖なる遊び

 

真面目に仕事したり勉強したりしている人たちの生活においては、遊びというのは休養のためのものでありレクリエーションのためのものであるが、このことが示すように、「真面目」と「遊び」は対立し合い排除し合うものである。ところがホイジンガはこれとはまったく異なる見方をする。彼は真面目と遊びを一致させるのである。

ホイジンガーは祭祀に注目する。祭儀というのは厳粛に執り行われるものであり、この上なく真面目なものである。だが、それは遊びなのだ。そのように彼は言う。しかし神聖な儀式を遊びとすることは冒瀆なのではないか。否、ホイジンガによれば、遊びというものの最も重要な特徴は日常生活から空間的に分離されているということである。従って、人々を別の世界に連れ去って行く神聖な行事は、最も真面目なものでありながら最も美しい遊びであると言えるのである。

本来、遊びというのは真面目と一つのものであり、真面目というのは遊びと一つのものであるのではないか。しかし今日の近代的社会・経済システムの中では、そのような真面目と遊びは消滅しつつあるように思われる。言い換えると、遊びおよび真面目さの聖性(=超越性)が失われつつあるように思われるのであるが、このことは真の謙虚さの喪失、「知」の増長を意味する。私は今、録画したアリス=紗良・オットのピアノ演奏を聴いているのであるが、取り分け哲学研究は空疎さを脱却するために、「音楽する」ことから高度の遊び、即ち高度の真面目さを学ぶべきであろうとつくづく思った。

さて、私は先の投稿で、根本的両義性を示すものとして次のパスカルの言葉を引いた。

「人間とは、あらゆるものの審判者にして愚かなミミズ、真理の受託者にして不確実と誤謬の溜り場、宇宙の栄光にして宇宙の屑。誰がこの〈縺れ〉を解くことができようか?」

この縺れ(両義性)は決して解くことのできない根本的なものである。ところが、人はそのことを洞察することができずに、矛盾する二つを切り離してしまう。つまり自分はあくまでも「愚かなミミズ」であるという自覚なしに「あらゆるものの審判者」であることができると思ってしまう。こうして「知」の傲慢が生まれ、真理は聖性(=超越性)を失うのである。

根本的両義性(1)

昨日の声楽アンサンブル「オリエンス」の定期演奏会。演奏が始まるや、合唱の声とハーモニーの美しさに驚かされた。またバスはもとより器楽奏者たちのレベルも高いものであった。そして嬉しかったのはプログラムのパンフレットの読みやすさである。

ところで、私はいわゆる信仰者ではなく、また宗教に関する知識も皆無に等しい人間であるが、インカルナティオ(受肉)と聖体の秘蹟にはかねてより強い関心を抱いている。これらの神秘は決してローカルな真理にとどまるものではないと考えるのである。因みにモンテウェルディ「4声のミサ」のクレドには次のような件りがある。

  Et incarnatus est de Spiritu sancto ex Maria virgine

イエス・キリストは〕・・・そして聖霊により、肉体を処女マリアから受けました (「オリエンス」プログラムより)

受肉や聖体の秘蹟については別の機会に書くことにするが、問題は次のような根本的両義性である。--「人間とは、あらゆるものの審判者にして愚かなミミズ、 真理の受託者にして不確実と誤謬の溜り場、 宇宙の栄光にして宇宙の屑である。誰がこの縺れを解くことができようか?」(パスカル

芸術の存在意義

 昨日は品川聖さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ)と土居瑞穂さん(チェンバロ)の演奏会に赴き、バッハを堪能してきた。土居さんのチェンバロ独奏で奏でられたBWV964は、私にとって馴染みの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の編曲なので、聴いていて楽しかった。一方、品川さんはJ.S.バッハのガンバとチェンバロのためのソナタを2006年から毎年色々なチェンバロ奏者と共演されているとのことであるが、その演奏は使命感と志を感じさせるものであった。
 さて、話は変わるが、例えばバッハを演奏したり聴いたりする時、我々は実は自分と闘っているのだ。自分を何とかしなければ音楽に接近することはできない。少しでも邪な気持ちがあれば、バッハを聴いたり弾いたりする資格はない。美や善を求める純粋な心が音楽活動の条件である。逆に言うと、我々は音楽によって自分を試されるのである。
 音楽に限らず、一般に芸術は自分との闘いである。その点で、芸術は政治と基本的に異なる。政治というのはあくまでも敵との闘いである。一時期自己批判という言葉が或る方面でさかんに用いられたが、たとえ政治家が反省と自己批判とかといった言葉を口にするとしても、政治家は自分と闘っているわけではない。そのような言葉自体、敵に対する闘いの一環なのである。
 ところで、ウィトゲンシュタインは、「仮に科学上のありとあらゆる問題がすべて解決したとしても、生の問題〔人生の価値というような問題〕はそっくりそのまま残るであろう」と書いている。生の問題、即ち心の問題は科学の管轄外にあるのだ。科学は心について説明することはできるが、「生をよく導く」(デカルト)ことは科学の役割ではない。生をよく導くことは芸術や哲学の役割である。科学は我々の生活の利便性を高めるという点で極めて重要なものである。しかし科学がどれだけ進歩しても、そのことは「よく生きる」(プラトン)ということに、少なくとも直接的には関係しないのである。
 プロであろうとアマチュアであろうと、芸術の存在意義について一度じっくり考えなければならないであろう。

知性と品格

♦ 今年の夏私は、或る学会の会員の方々に向かって、せめてこの学会だけは「知性と品格」を感じさせる学会であってほしいということを述べたのであるが、この知性と品格というのは実は互いに切り離すことのできないものである。つまり、知性はあるが品格はないということはあり得ないのである。

♦ 品格とは生き方の美しさであるとひとまず言っておこう。では、知性とは何なのか。知性があるとは、才気煥発であるとか博覧強記であるとかといったことではまったくない。知性とは疑う能力である。即ち、自分が(いつのまにか)正しいと信じていることが本当に正しいのかどうかを吟味する能力である。自分の意見の正しさを敢えて疑い吟味する余裕(謙虚さ)を持たないことこそは、思考の停止であり知性の欠落である。

♦ 但し、自己懐疑・自己吟味は信じることをやめることではない。逆である。例えばデカルトは、自分は疑うために疑うのではなくて、確信を得るために疑うのであると語っているが、疑うことによって信念は新たにされるのであり、洗練した深みのある信念、寛容な信念へと成長するのである。ということはつまり、知性はそのまま品格につながるということである。

♦ 確信のある人は美しい。信念のある人には品格がある。但しこの場合の信念は自己吟味を容れる本物の信念である。

音楽的表現について

♦ 先日、バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」の楽譜を購入した。第4番(BWV 1017)の第1楽章シチリアーノを弾きたくなったからである。この曲は元はマタイ受難曲の中のアリア「憐れみ給え、わが神よ」なのであろうか。ともあれ、この曲において表現されている深い悲しみは、人間の感情の一つというより、まさに我々の生vieの最深の深みであるように思われる。では、この深い悲しみはどのように表現されているのであろうか。一般に、音楽的表現とは如何なるものなのであろうか。

♦ 音楽が流れるという言い方がある。一つの音は次の音に取って代わられ、そして次の音はその次の音に取って代わられ・・・というようにして、様々な音が次から次に流れ去ってゆく。これは月日が流れるのと似ている。但し、音楽はただ単に流れるのではない。音楽は流れつつ流れないのである。これはどういうことであろうか。

♦ 音楽を演奏している時、あるいるは身を入れて音楽を聴いている時、曲の中の一つ一つの音は孤立した音ではない。それは直前の音を受け継ぎつつ(保ちつつ)、同時に直後の音を予想(先取り)するのである。そしてこのことはすべての音について言えることであるので、継起する個々の音には、直前と直後の音だけではなくて、他のすべての音が秘かに侵入しているのである。様々「異なる」音が入れ替わり立ち替わり現れても、奏でられているのは常に「同一の」曲であり続ける所以がここにある。

♦ 曲は移りゆきつつ移りゆかない。継起するすべての音は或る意味で同時的である。というわけで、音楽は流れつつ流れないのである。ところで、音楽において表現されるもの――例えば件の深い悲しみ――とは、「流れないもの」である。但し、流れないものは流れから独立したものではない。それは流れと不可分である。つまり音楽の表現性・表現力は、演奏者が時間の只中で「流れ」をどのように作ってゆくかによって決まるのである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その12 「考える葦」(下)

デカルトは自叙伝『方法序説』の中で学生時代のことを振り返りつつ、「私は多くのことを知れば知るほど、ますます自分は何も知らないということを思い知った」というようなことを語っているが、デカルトは決して知識におぼれるような人間ではなかった。彼は若い時から、「知る」ということはどういうことなのかという強烈な問題意識を抱いていたのである。

♦ しかしデカルト研究の長い歴史の中で、デカルトにおける知の問題はごく表面的にしか捉えられてこなかったと言わざるを得ない。一般に研究者には、みずから根本的なところから考えるというまさに哲学(者)的な姿勢が欠如しているのである。人々は例えばデカルト的懐疑について、それは方法的懐疑であると頭から信じ込み、デカルト的懐疑に関する伝統的理解についてデカルト的に疑ってみるということを決してしないのである。

♦ ところで、デカルトは第三省察のはじめのところで、我々が明晰判明に認識すること(例えば2+3=5ということ)でさえ疑うことができる(どうしてかはここでは省略する)という主張と、我々が明晰判明に認識することは真であるという主張とを、つまり互いに否定し合う二つの主張を、順次行なっているのであるが、面倒な議論をいっさい抜きにして言うと、是非指摘しなければならないことは、「可能な懐疑を取り払うことができるならば我々は確実な知を獲得することができる」という素朴な考え方を、デカルト解釈に持ち込んではならないということである。

♦ 普通我々は、疑いの可能性は我々を半信半疑に陥らせるだけであると考えている。しかしそのようなことが言えるのは、知の対象が超越性(神秘性)を持たない場合である。つまり、何が言いたいのかというと、疑いの可能性は知を〈超越的なものへの信〉たらしめることができるのである。疑うことができるということは知の有限性を、つまり人間の「弱さ」を意味するが、しかし疑いの可能性は、翻って考えると、神とか美といったいわゆる形而上学的なものだけではなくて、2+3=5ということをも、超越的(神秘的)なものにすることができるのである。

♦ このように、人間の本質的な弱さは逆説的にも人間に崇高さ、ディニテdignité――尊厳(品格)――を与える。一般にデカルトパスカルは対照的なイメージで見られているが、前の記事で示した「考える葦」における「弱さと尊さの弁証法」は、実はデカルトにも存するのである。