芸術の存在意義

♦ 昨日は品川聖さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ)と土居瑞穂さん(チェンバロ)の演奏会に赴き、バッハを堪能してきた。土居さんのチェンバロ独奏で奏でられたBWV964は、私にとって馴染みの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の編曲なので、聴いていて楽しかった。…

知性と品格

♦ 今年の夏私は、或る学会の会員の方々に向かって、せめてこの学会だけは「知性と品格」を感じさせる学会であってほしいということを述べたのであるが、この知性と品格というのは実は互いに切り離すことのできないものである。つまり、知性はあるが品格はな…

音楽的表現について

♦ 先日、バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」の楽譜を購入した。第4番(BWV 1017)の第1楽章シチリアーノを弾きたくなったからである。この曲は元はマタイ受難曲の中のアリア「憐れみ給え、わが神よ」なのであろうか。ともあれ、この曲にお…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その12 「考える葦」(下)

♦ デカルトは自叙伝『方法序説』の中で学生時代のことを振り返りつつ、「私は多くのことを知れば知るほど、ますます自分は何も知らないということを思い知った」というようなことを語っているが、デカルトは決して知識におぼれるような人間ではなかった。彼…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その11 「考える葦」(中)

♦ パスカルは「考える葦」に関する断章の中で次のように語っている。 (a) 〔自然の中で最も弱い葦に過ぎない〕人間を押しつぶすのに、宇宙全体が武装する必要はない。蒸気や一滴の水だけでも、人間を殺すのに十分である。 (b) しかし宇宙が人間を殺すとして…

哲学のプロ

ベルリン・フィルのホルン奏者曰く、「プロになると、演奏の意味を見失うことがあります。」哲学のプロはもっと悲惨である。哲学することの意味など端から問題にしたことがないのである。

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その10 「考える葦」(上)

♦ 「考える葦」はパスカルの言葉として余りにも有名であるが、しかしその内実は必ずしも知られていないように思われる。そもそも、パスカルは単に「人間は考える葦である」と言っているのではない。「人間は〔自然の中で最も弱い〕葦に過ぎない。しかし考え…

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(4)

♦ 一昨日の27日はソプラノの高橋美千子さん主催のコンサートに出かけた。演奏の素晴らしさをここで具体的に語ることはできないが、ともあれ、この演奏会は私にとってとても有益であった。「歌詞=詩それ自体の音楽性」そして「音楽に本質的な沈黙」について…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その9  ~伊集院静氏の言葉~

♦ 「孤独を学べ。孤独を知ることは、他人を知ることだ。」――私と同世代の伊集院静氏の本を或る偶然がきっかけではじめて開いたのであるが、この言葉は私の心に強く響いた。氏は次のように語っている。「大人になるために何からはじめるか。私はこう思う。自…

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(3)

今回は体(body)に関するピレシュ言葉を取り上げることにする。メルロ=ポンティは『眼と精神』の中で、「画家は自分の体を世界に貸し与えることによって世界を絵に変えるのである」というヴァレリーの言葉を引いているが、ではピアニストはどうなのであろう…

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(2)

今回は自由と制限をめぐるピレシュの言葉を取り上げることにする。 ♦ (ピレシュいわく)「完全な自由か完全な秩序(completely free or completely strict)。どちらかの選択ではない。一定の秩序を保ちながら自由にしていいの。楽譜に書かれた制限を理解して…

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(1)

♦ ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(1944生)が、6月10日のNHKの番組に登場した。1970年代にモーツァルトのレコードを聴いて以来ピレシュ(昔はピリスと呼んでいた)のことは一応知っていたが、彼女は特に気になるピアニストではな…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その8

♦ いつでも好きな時に透明人間になることのできる魔法の指輪を使って、一介の羊飼い(ギュゲス)がついに王にまで上り詰めるという「ギュゲスの魔法の指輪」の話は、プラトンの『国家』篇に出てくるのであるが、人目を逃れ懲罰を免れさえすれば何をしてもよ…

古楽をめぐって:音楽と時間

昨夜はマラン・マレの生誕を祝うコンサートを聴きに出かけた。茗荷谷のラ・リールは音が柔らかく響き、余韻まではっきり聞こえる、とても良い会場だった。演奏者の方々もバロック音楽の醍醐味を十分に味わわせてくれた。 ♦ さて、ここからは哲学的考察である…

森有正「パリに住んで:思考を深めた21年間」

森有正(1911~76)という人はオルガンでバッハなどを演奏していた哲学者であり、「思索の源泉としての音楽」というレコードもあるが、どうして急にこのような話を始めたのかと言うと、机の引き出しの中を整理していたら、茶色に変色した一片の新聞の切り抜き…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その7

♦ 人を蔑んではならない。人を差別してはならない。そのように言われる。しかし差別意識を無くすにはどうすれば良いのであろうか。差別意識には原因がある。即ち差別意識は(例えば或る特定の国に関する)偏見=歪んだ認識から生まれるのである。従って、こ…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その6

♦ 最近、ニュースや報道番組でセクハラやパワハラのことが大きく取り上げられているが、確かにハラスメントについての理解を広めるための啓蒙や研修を行なうことが必要であろうし、また被害を減らすための何らかの法的対策を講じることも必要であろう。しか…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その5  

♦ 久しぶりに池田晶子(1960-2007)の本を開いてみた。 「学内政治や同僚の悪口に飽きない方々は、驚きを所有せずに哲学を生業(なりわい)としている方と思って、皆さん、まず間違いありません。「悪い」と言っているのではない、「好かない」と言っているの…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その4

♦ 悪事を働きながらいささかも罪悪感を抱かない人間、羞恥心というものがまるきりない人間が、社会の片隅ではなくて社会の中枢でのさばっている。これはかなり深刻な事態である。一体どのようにして、そのような人間が生まれるのを防ぐことができるのであろ…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その3

★ ところで、財産や名誉はともかくとして、どうして知力や知識はそれを所有する人に「本当に」属するのではないのであろうか。どうして優れた知力や豊かな知識は自尊心を抱く「正当な」理由ではないのであろうか。デカルトの言うことはおかしいのではないで…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その2

別にどこかの総理大臣のことを念頭に置いているわけではないが、傲慢な人間というのは相手に応じて傲慢であったり逆に卑屈であったりする。傲慢は本当の自信を伴わない自尊心である故に、そういうことになるのである。本当の自信を伴う自尊心は決して卑屈に…

魂の響き

♦ 思いがけなくチケットをいただき、昨夜はロラン・ドガレイユのヴァイオリンを聴きに紀尾井ホールに出かけた(ピアノはジャック・ルヴィエ)。ドガレイユ Daugareil 氏はパリ管弦楽団のコンサートマスター、そしてパリ国立高等音楽院の教授であり、かのサン…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その1

♦ 偉そうに出しゃばり、そのくせ無責任で、狡賢く羞恥心のない人間、このような〈傲慢で卑劣な人間〉は決して稀な存在ではない。「憎まれっ子世に憚る」と言われるが、そのような人間は各分野で幅を利かせている者の中に比較的多く見られるのであろう。しか…

西部邁氏の最後の言葉

♦ 引き続きデカルトの決意(2)として、生き方の芯を成す決意に関して考察を試みる予定であるが、その前に、先日亡くなられた西部邁氏のことを少し考えておきたい。といっても、私は昔から氏に関心があったわけではない。わりと最近になって『生と死:その非凡…

デカルトの決意--(1) 森の中の旅人

♦ デカルトは旅を住処とする生涯を送った哲学者であるが、『方法序説』第三部において彼は森の中で道に迷った旅人について次のように語っている。――迷子になった旅人はあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往してはならず、ましてや一箇所に留まってはな…

デカルトと知行合一:真理の探究と実生活

どうしてデカルト研究者はデカルトの問題性を摑めないのか。それはデカルトの哲学を「紹介・解説する」(しかも決まり切った仕方で)からであり、「みずから哲学する」ことをしないからである。 徒な思弁に耽らずに、みずから哲学するならば、『方法序説』第…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 6

私は学生時代から、研究書や研究論文の焼き直しのようなことはまったくしなかったが、パリでデカルトと格闘することで、この態度を決定的に固めた。いくら情報的知識を寄せ集めても哲学は決して分からない。みずから事柄そのものに触れつつ思考しなければ哲…

都立大哲学会と倫理問題

都立大哲学会と倫理問題 ――発会六十周年を迎えて―― 実川 敏夫 ♦ 他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは、哲学会という名に恥じることのない、品格dignityのある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対して、…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 5

デカルト研究者でさえ、デカルトの問題性を摑めていない。 否、デカルト研究者はデカルト研究者である故に、デカルトの問題性が掴めないのである。 本ブログの最初の記事(2016.9.12)でも関連することを述べたが、 哲学研究は学問的であろうとすればするほ…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 4

繰り返し述べたように、 デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない。 但し、デカルトの問題性を的確に摑むことはそれ自体非常に難しいことである。 実際、デカルト研究者--彼らは基本的に哲学史家であって哲学者ではない--からして、…