音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(2)

今回は自由と制限をめぐるピレシュの言葉を取り上げることにする。 ♦ (ピレシュいわく)「完全な自由か完全な秩序(completely free or completely strict)。どちらかの選択ではない。一定の秩序を保ちながら自由にしていいの。楽譜に書かれた制限を理解して…

音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(1)

♦ ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(1944生)が、6月10日のNHKの番組に登場した。1970年代にモーツァルトのレコードを聴いて以来ピレシュ(昔はピリスと呼んでいた)のことは一応知っていたが、彼女は特に気になるピアニストではな…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その8

♦ いつでも好きな時に透明人間になることのできる魔法の指輪を使って、一介の羊飼い(ギュゲス)がついに王にまで上り詰めるという「ギュゲスの魔法の指輪」の話は、プラトンの『国家』篇に出てくるのであるが、人目を逃れ懲罰を免れさえすれば何をしてもよ…

古楽をめぐって:音楽と時間

昨夜はマラン・マレの生誕を祝うコンサートを聴きに出かけた。茗荷谷のラ・リールは音が柔らかく響き、余韻まではっきり聞こえる、とても良い会場だった。演奏者の方々もバロック音楽の醍醐味を十分に味わわせてくれた。 ♦ さて、ここからは哲学的考察である…

森有正「パリに住んで:思考を深めた21年間」

森有正(1911~76)という人はオルガンでバッハなどを演奏していた哲学者であり、「思索の源泉としての音楽」というレコードもあるが、どうして急にこのような話を始めたのかと言うと、机の引き出しの中を整理していたら、茶色に変色した一片の新聞の切り抜き…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その7

♦ 人を蔑んではならない。人を差別してはならない。そのように言われる。しかし差別意識を無くすにはどうすれば良いのであろうか。差別意識には原因がある。即ち差別意識は(例えば或る特定の国に関する)偏見=歪んだ認識から生まれるのである。従って、こ…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その6

♦ 最近、ニュースや報道番組でセクハラやパワハラのことが大きく取り上げられているが、確かにハラスメントについての理解を広めるための啓蒙や研修を行なうことが必要であろうし、また被害を減らすための何らかの法的対策を講じることも必要であろう。しか…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その5  

♦ 久しぶりに池田晶子(1960-2007)の本を開いてみた。 「学内政治や同僚の悪口に飽きない方々は、驚きを所有せずに哲学を生業(なりわい)としている方と思って、皆さん、まず間違いありません。「悪い」と言っているのではない、「好かない」と言っているの…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その4

♦ 悪事を働きながらいささかも罪悪感を抱かない人間、羞恥心というものがまるきりない人間が、社会の片隅ではなくて社会の中枢でのさばっている。これはかなり深刻な事態である。一体どのようにして、そのような人間が生まれるのを防ぐことができるのであろ…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その3

★ ところで、財産や名誉はともかくとして、どうして知力や知識はそれを所有する人に「本当に」属するのではないのであろうか。どうして優れた知力や豊かな知識は自尊心を抱く「正当な」理由ではないのであろうか。デカルトの言うことはおかしいのではないで…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その2

別にどこかの総理大臣のことを念頭に置いているわけではないが、傲慢な人間というのは相手に応じて傲慢であったり逆に卑屈であったりする。傲慢は本当の自信を伴わない自尊心である故に、そういうことになるのである。本当の自信を伴う自尊心は決して卑屈に…

魂の響き

♦ 思いがけなくチケットをいただき、昨夜はロラン・ドガレイユのヴァイオリンを聴きに紀尾井ホールに出かけた(ピアノはジャック・ルヴィエ)。ドガレイユ Daugareil 氏はパリ管弦楽団のコンサートマスター、そしてパリ国立高等音楽院の教授であり、かのサン…

デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その1

♦ 偉そうに出しゃばり、そのくせ無責任で、狡賢く羞恥心のない人間、このような〈傲慢で卑劣な人間〉は決して稀な存在ではない。「憎まれっ子世に憚る」と言われるが、そのような人間は各分野で幅を利かせている者の中に比較的多く見られるのであろう。しか…

西部邁氏の最後の言葉

♦ 引き続きデカルトの決意(2)として、生き方の芯を成す決意に関して考察を試みる予定であるが、その前に、先日亡くなられた西部邁氏のことを少し考えておきたい。といっても、私は昔から氏に関心があったわけではない。わりと最近になって『生と死:その非凡…

デカルトの決意--(1) 森の中の旅人

♦ デカルトは旅を住処とする生涯を送った哲学者であるが、『方法序説』第三部において彼は森の中で道に迷った旅人について次のように語っている。――迷子になった旅人はあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往してはならず、ましてや一箇所に留まってはな…

デカルトと知行合一:真理の探究と実生活

どうしてデカルト研究者はデカルトの問題性を摑めないのか。それはデカルトの哲学を「紹介・解説する」(しかも決まり切った仕方で)からであり、「みずから哲学する」ことをしないからである。 徒な思弁に耽らずに、みずから哲学するならば、『方法序説』第…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 6

私は学生時代から、研究書や研究論文の焼き直しのようなことはまったくしなかったが、パリでデカルトと格闘することで、この態度を決定的に固めた。いくら情報的知識を寄せ集めても哲学は決して分からない。みずから事柄そのものに触れつつ思考しなければ哲…

都立大哲学会と倫理問題

都立大哲学会と倫理問題 ――発会六十周年を迎えて―― 実川 敏夫 ♦ 他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは、哲学会という名に恥じることのない、品格dignityのある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対して、…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 5

デカルト研究者でさえ、デカルトの問題性を摑めていない。 否、デカルト研究者はデカルト研究者である故に、デカルトの問題性が掴めないのである。 本ブログの最初の記事(2016.9.12)でも関連することを述べたが、 哲学研究は学問的であろうとすればするほ…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 4

繰り返し述べたように、 デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない。 但し、デカルトの問題性を的確に摑むことはそれ自体非常に難しいことである。 実際、デカルト研究者--彼らは基本的に哲学史家であって哲学者ではない--からして、…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 3

メルロ=ポンティの哲学は単なる心身合一の立場ではない。 デカルトには「心身の区別」と「心身の合一」という二つの面があるが、メルロ=ポンティはこのデカルト的二面性を引き受けているのである。 (但し、これら二つの面がどのように結ばれるのかがまさ…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 2

私は在外研究で、ジャン・マリー・ベイサード教授(パリ大学第十大学)の授業に参加しつつ、教授の主著『デカルトの第一哲学:形而上学の〈時間と整合性〉』をノートをとりながら繰り返し繰り返し読んだ。 その間、考え続けたのはもっぱら「デカルトの循環」…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 1

メルロ=ポンティのデカルト論をいくら読んでもデカルトは分からない。 しかしデカルトを読めばメルロ=ポンティは分かる。 というより、デカルトの問題性が掴めなければメルロ=ポンティは分からないのである。 これが1986年度におけるパリ大学での在外研究…

「デカルトの循環」 (i) ~死の問題へ

繰り返し述べたことであるが、「デカルトの循環」と呼ばれる循環は循環論法の循環ではない。というのも、それは超越関係における循環だからである。 ところで、循環は超越関係における循環であるということは、この場合の超越関係とは循環関係であるというこ…

「デカルトの循環」(h)

前の12月1日の記事で、信じることと疑うことの矛盾に言及したが、この矛盾について少し考えてみよう。 「上から」見れば丸いが「横から」見れば三角形である(つまり丸くない)、そのようなものがあるとして、これについて矛盾を指摘する者はいないであろう…

「デカルトの循環」(g) ・・・ デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑧

「デカルトの循環」(e)で見たように、 我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを…

「デカルトの循環」(f)

前回見たように、デカルトは循環論法の疑惑に対して、現在の明証と過去の明証とを区別し、(即ち現に明らかであることと、かつて明らかであったこととを区別し、)現在の明証は保証を必要としないが、過去の明証は保証を必要とした。 つまり、こういうことで…

「デカルトの循環」(e)

最初から話を始めることにしよう。「デカルトの循環」について論じるためには、まずはデカルトの答弁そのものを正確に理解しなければならない。では、循環論法の嫌疑に対してデカルトはどのように答えたのか。『省察』「第四答弁」を見てみよう。 (a)明晰判明…

「デカルトの循環」(d)

「デカルトの循環」と呼ばれる問題は、デカルト研究の歴史において過去最も多く取り上げられた問題の一つであるが、それは簡単に言うと、 神が存在し神が欺瞞者ではない(誠実である)ことは、明証の規則(明晰判明なことはすべて真であるという規則)に従っ…

「デカルトの循環」(c)

デカルトの循環に関する話を先に進める前に、念のため「デカルトと信仰」について確認しておきたい。 以下、2016年9月19日に本ブログに掲載した拙稿から抜粋する。 筆者は前稿「デカルトと死の修練」において、デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立…