読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 3

メルロ=ポンティの哲学は単なる心身合一の立場ではない。 デカルトには「心身の区別」と「心身の合一」という二つの面があるが、メルロ=ポンティはこのデカルト的二面性を引き受けているのである。 (但し、これら二つの面がどのように結ばれるのかがまさ…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 2

私は在外研究で、ジャン・マリー・ベイサード教授(パリ大学第十大学)の授業に参加しつつ、教授の主著『デカルトの第一哲学:形而上学の〈時間と整合性〉』をノートをとりながら繰り返し繰り返し読んだ。 その間、考え続けたのはもっぱら「デカルトの循環」…

デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 1

メルロ=ポンティのデカルト論をいくら読んでもデカルトは分からない。 しかしデカルトを読めばメルロ=ポンティは分かる。 というより、デカルトの問題性が掴めなければメルロ=ポンティは分からないのである。 これが1986年度におけるパリ大学での在外研究…

「都立大哲学会と倫理問題」2017.01.28

都立大哲学会と倫理問題 ――発会60周年を迎えて―― 実川 敏夫 他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは哲学会という名に恥じることのない、品格のある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対してかねてより違和…

「デカルトの循環」 (i) ~死の問題へ

繰り返し述べたことであるが、「デカルトの循環」と呼ばれる循環は循環論法の循環ではない。というのも、それは超越関係における循環だからである。 ところで、循環は超越関係における循環であるということは、この場合の超越関係とは循環関係であるというこ…

「デカルトの循環」(h)

前の12月1日の記事で、信じることと疑うことの矛盾に言及したが、この矛盾について少し考えてみよう。 「上から」見れば丸いが「横から」見れば三角形である(つまり丸くない)、そのようなものがあるとして、これについて矛盾を指摘する者はいないであろう…

「デカルトの循環」(g) ・・・ デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑧

「デカルトの循環」(e)で見たように、 我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを…

「デカルトの循環」(f)

前回見たように、デカルトは循環論法の疑惑に対して、現在の明証と過去の明証とを区別し、(即ち現に明らかであることと、かつて明らかであったこととを区別し、)現在の明証は保証を必要としないが、過去の明証は保証を必要とした。 つまり、こういうことで…

「デカルトの循環」(e)

最初から話を始めることにしよう。「デカルトの循環」について論じるためには、まずはデカルトの答弁そのものを正確に理解しなければならない。では、循環論法の嫌疑に対してデカルトはどのように答えたのか。『省察』「第四答弁」を見てみよう。 (a)明晰判明…

「デカルトの循環」(d)

「デカルトの循環」と呼ばれる問題は、デカルト研究の歴史において過去最も多く取り上げられた問題の一つであるが、それは簡単に言うと、 神が存在し神が欺瞞者ではない(誠実である)ことは、明証の規則(明晰判明なことはすべて真であるという規則)に従っ…

「デカルトの循環」(c)

デカルトの循環に関する話を先に進める前に、念のため「デカルトと信仰」について確認しておきたい。 以下、2016年9月19日に本ブログに掲載した拙稿から抜粋する。 筆者は前稿「デカルトと死の修練」において、デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立…

「デカルトの循環」(b)

前の記事で、次のような神と聖書の循環を取り上げた。神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。では、どうして聖書を信じることができるのか。それは聖書は神から授けられたものであるからである。 ここには明らかに循環がある。…

「デカルトの循環」(a)

『省察』に付された「ソルボンヌ宛書簡」の中で、デカルトは循環論法のよく知られた例を取り上げている。 神の存在を信じなければならないというのは本当である。というのも、神が存在することは聖書において教えられているからである。また逆に、聖書を信じ…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑦

我々は実生活においてしばしば疑心暗鬼に陥るが、デカルトの懐疑は不安に陥ることによる疑いとはまったく異なるものである。では、それは故意に疑うことなのであろうか。そのように言えないこともないが、しかし「ではやっみろ」と言われて易々と実践できる…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑥

デカルトの懐疑は世界の外に出る企てであることは、果たして一般に理解されているのであろうか。例えば、いくら世界の外部ということを声高に述べても、世界の外部についてただ単に知的・観念的に論じるだけでは、世界の外部を真に理解しているとは言えない…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑤

どうして、2+3=5 とか、四角形は四つの辺を持つといった算術や数学の真理は疑い得るのに、コギト(考える私が存在するということ)は疑い得ないのか。――そのような疑義を人は呈する。しかしそれはデカルトの懐疑の基本を理解していないからである。 デカル…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ④

論理や数学は「詩」と対極的なものであると思っている向きは少なくないであろう。しかし本当にそうなのであろうか。 我々は自分の偏見に気づかなければならない。むしろ論理や数学は「詩」を欠くならば真に創造的ではあり得ないのではないであろうか。 とこ…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ③

デカルトの懐疑は確実性に至るための一時的な方法=手段ではない。即ち、デカルトは確実性に至ることによって懐疑を乗り越え、乗り捨てたのではない。 むしろ確実性に至ることは懐疑を深めること以外のことではないのであり、言ってみれば確実性とは懐疑なの…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ②

神の存在は疑い得ない故に私はそれを信じるのではない。むしろ、神の存在を私は信じる故にそれは疑い得ないことになるのである。ということは、形而上学的確信においては、疑いは背景に退いているだけで、実は疑いの可能性は排除されていないということであ…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ①

方法的懐疑という言い方はデカルト自身のものではない。デカルトは方法的懐疑などということは言っていない。どうしてなのか。それはデカルトの懐疑は方法的懐疑ではないからである。 デカルトの懐疑は「自らを解体することを目指す方法論的手段」であると説…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【7】【8】

【7】 信仰のロゴス このように蜜蝋の分析は神への熱望によって動機づけられた死の修練として純粋精神に到る。つまり心身合一を乗り越える。しかし実はこれは一方の真理である。もう一方の真理が存在する。それは心身合一は決して乗り越えられないというこ…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【5】【6】

第二節 蜜蝋の分析 以上、パスカルの聖体観に哲学的考察を加えて信仰のロゴスを明るみに出したが、念のため断っておくと、筆者は何もカトリシズムに与しているわけではない。我々の立場はあくまでも哲学であり、デカルトの信仰心ということを言う場合も、そ…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【3】【4】

【3】 時と永遠 十字架のイエスの記念ということが言われる[b]が意味することは、十字架上の生贄は既に終わったということ、イエスの生涯は既に終わったということである [12]。十字架における犠牲は過去の出来事であり、イエスは過去の者、既に死んだ者…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【1】【2】

第一節 聖体の秘蹟 【1】 内的なものと外的なもの エリアーデはキリスト者にとって「受肉」は最高の聖体示現であるとしているが [7]、「聖体」も受肉と同様に(あるいは或る意味で受肉以上に)高度の聖体示現であると言えるであろう。そして聖体は受肉と同…

拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 序

2016.3『人文学報』 L’eucharistie et la cire : Le logos de la foi 〔Pascal et Descartes〕 聖体と蜜蝋――信仰のロゴス 〔パスカルとデカルト〕 実川 敏夫 神は不在という形でしか被造物の内に現前し得ない。 ――シモーヌ・ヴェイユ 筆者は前稿「デカルトと…

デカルトには「懐疑論」なるものは存在しない

デカルト的二元論なるものと同様に、デカルト的懐疑論なるものも、後世の作り物に過ぎない。そのようなものはデカルトには存在しないのである。 後世の哲学者や哲学研究者たちは、当然のごとくに、デカルトの哲学は「○○論」や「○○説」や「○○主義」から成り立…

デカルトにとって哲学はライフワークではなくてライフであった

真の哲学者にあっては哲学と人生とは別のものではない。自分の哲学を語るために自分の人生を一幅の絵画として描いた哲学者にとって、哲学は趣味でも仕事(職業)でもなかった。哲学は人生であった。ライフワークではなくてライフであった。このことを感受せ…

哲学と哲学研究とはあくまでも別物であるが・・・・・

哲学研究は、学問的(?)であろうとすればするほど、哲学に本質的な〈生との結びつき〉を見失い、それを切り捨ててしまう。 哲学研究者は、哲学を哲学たらしめる哲学と〈生との結びつき〉を敏感に感じ取り、それを明るみに出すのでなければならない。 もし…