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デカルトには「懐疑論」なるものは存在しない

デカルト的二元論なるものと同様に、デカルト懐疑論なるものも、後世の作り物に過ぎない。そのようなものはデカルトには存在しないのである。

後世の哲学者や哲学研究者たちは、当然のごとくに、デカルトの哲学は「○○論」や「○○説」や「○○主義」から成り立っていると看做してきた。確かに、そのように看做さなければデカルトの哲学を論じたり説明したりすることは容易ではないであろう。しかしそうであるからと言って、そのように看做してよいというわけではない。

デカルトの哲学は「○○論」や「○○説」や「○○主義」から成る合成物ではない。従ってデカルト的二元論と同様にデカルト懐疑論などというものもデカルトには存在しない。しかしもちろん懐疑は存在する。まず指摘すべきは、デカルト的懐疑は単なる理屈の問題ではないということである。単なる理屈の上の懐疑、言葉の上だけの懐疑は、デカルトとは無縁のものである。デカルト的懐疑は決して(懐疑論者の懐疑のような)ポーズではないのである。それは自分と世界を変容させる真の懐疑なのである。

もちろん省察には理路がある。しかし理路を辿るだけでは十分ではない。理路を整理するだけでは十分ではない。むしろ理路の源泉となっているものを読み取らなければならない。つまりデカルトをして言葉を語らしめている無言の声を我々も聴き取らなければならない。これが先日述べた〈生とのつながり〉を感じ取り明るみに出すということである。

デカルトの懐疑が意志的なものであることはしばしば指摘されてきた。では、懐疑の意志を発動させる最も深い動機は何なのか。デカルト的懐疑とは根本的には何なのか。