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拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【1】【2】

第一節 聖体の秘蹟

 

【1】 内的なものと外的なもの

 

エリアーデキリスト者にとって「受肉」は最高の聖体示現であるとしているが [7]、「聖体」も受肉と同様に(あるいは或る意味で受肉以上に)高度の聖体示現であると言えるであろう。そして聖体は受肉と同様に矛盾を含んでいる。その矛盾の内容は後に回すことにして、まずは矛盾の由来を探ることにしたい。『パンセ』Br.250を読んでみよう。「神から受け取るためには、外的なものが内的なものに結びつけられなければならない。即ち、跪いたり、口に出して祈るとかしなければならない」とある。つまり例えば跪くこと、口に出して祈ることによって内的なものに外的なものが結びつけられるのである(内的なものとは知的・精神的・霊的なもののことであると言うことができる)。では、どうして外的なものが内的なものに結びつけられなければならないのか。「それは、神に服従しようとしなかった傲慢な者たちが今や被造物に服従させられるためである」。傲慢な者たちは被造物に服従させられることで、神に服従し神から受け取ることができるようになるのである。しかしパスカルは、「外的なものを内的なものに結びつけようとしないのは尊大である」と述べる一方で、「外的なものに助けを期待するのは迷信である」とも言う。つまり、内的なものには外的なものが結びつけられなければならないのと同様に、外的なものには内的なものが結びつけられなければならないのである。そうでなければ、信仰は迷信になってしまう。内的なものに外的なものが結びつけられていないのは「尊大」であるが、外的なものに内的なものが結びつけられていないのは「迷信」なのである [8]

そしてパスカルは、外的なものも内的なものもそこに混ざっているのは、様々な宗教の中でキリスト教だけであると言うのであるが(Br.251)、これは言い換えれば、外的なものが内的なものに結びつけられ、内的なものが外的なものに結びつけられるのはキリスト教だけであるということであろう。キリスト教においてのみ、内的なものには外的なものが結びつけられ、外的なものには内的なものが結びつけられているのである。――信仰者は「尊大」に陥っても「迷信」に陥ってもならない。内的なものと外的なものという互いに相容れないものが相容れないものでありながら互いに結びつけられなければならない。受肉と聖体拝領は信仰が単に内的なものではないことを意味するが、それらが含む矛盾は根本的にはこの要請に由来すると考えられる。

 

【2】 聖体の秘蹟――現前と不在

 

パスカルは『パンセ』Br.862において、「イエス・キリストは神でありかつ人間である」という(矛盾した)ことについて述べた後、今度は聖体の秘蹟に言及する。

 [a] パンの実体は変化し実体的変化を行なって我々の主の御体の実体となるのであり、イエス・キリストはそこに現実に現前する。

[b] この秘蹟はまた十字架のイエス・キリストおよび栄光のイエス・キリストの表徴、記念でもある。

 これら二つのことをパスカルはそれぞれ真理として語るのであるが、[a]と[b]とは相反する。というのも、秘蹟イエス・キリストの表徴であり記念であるということ[b]は、イエス・キリストは聖体に現実に、即ち実体的に現前するのではない(秘蹟イエス・キリストの表象なのだから)ということであり [9]イエス・キリストは現実に現前する者ではなくて過去の者である(聖体はイエス・キリストの記念なのだから)ということであって、まさに[a]を否定することであるからである。

しかしパスカルはこう言う。相反するように見える [10]二つの真理を包含する(comprendre)のがカトリック信仰なのであり、これに対して今日の異端は、二つの真理の一方を認めるならば他方を排除しなければならないと考える。即ち今日の異端は、秘蹟イエス・キリストの現存とその表徴とを同時に含む(contenir tout ensemble)ということ、秘蹟は犠牲であると共に犠牲の記念 [11]でもあるということを理解しないのである、と。一方、聖体はパンという物ではない。イエス・キリストはペルソナとして聖体に現実的・実体的に臨在する。しかし他方、聖体はあくまで秘蹟であり感覚的な印である。つまりイエス・キリストはそこには現前しない。そこには不在である。こうした相矛盾する二つの真理をカトリック信仰は包含する。即ちこの信仰においては、秘蹟イエス・キリストの現存とその表徴とを同時に含むのである。そのようにパスカルは述べているわけであるが、では、相反する二つの真理を包含するとはどういうことであろうか。秘蹟イエス・キリストの現存と表徴とを、即ちイエス・キリストの臨在と不在とを、同時に含むとはどういうことであろうか。秘蹟は犠牲そのものであると共に犠牲の記念でもあるとはどういうことであろうか。――信仰は相反する二つを止揚するのではない。それらを弁証法的に綜合するのではない。それは確かであろう。では、如何なる仕方で相反する二つは信仰において両立するのであろうか。我々は信仰のロゴスを考究しなければならない。

パスカルの言葉をもう一度繰り返すと、今日の異端は二つの真理の一方を認めるならば他方を排除しなければならないと考えるのである。ということは、他方を排除することなしに一方を認めることができるとするのが正統の考え方であるということであろう。しかしカトリック信仰は二つの真理を同時に包含するということは、単に、一方を認めたからといって他方を排除することはしないというような消極的なことなのであろうか。そうではないのではないか。

 

[7] エリアーデは聖なるものと俗なるものという対を用いるが、この対はこれから論じる内的なものと外的なものという対と或る意味で重なるので、聖体示現に関する一節を引用しておく。「人間が聖なるものを知るのは、それがみずから顕われるからであり、しかも俗なるものとはまったく違った何かであると判るからである。この聖なるものの顕現をここでは聖体示現(Hierophanie)という語で呼ぶことにしよう。・・・・・およそ宗教の歴史は――最も原始的なものから高度に発達したものまで――多数の聖体示現、すなわち聖なる諸実在の顕現から成り立っていると言ってもよかろう。最も原始的な聖体示現(たとえば何かある対象、石とか木に聖なるものが顕われること)から、最高の聖体示現(キリスト者にとってイエス・キリストにおける神の化身)に至るまで一貫した連続が流れている。われわれはいつも同じ神秘な出来事に直面する。すなわちかの〈全くの他者〉、この世のものならざる一つの実在が、この〈自然〉界、〈俗〉界の不可欠な要素を成す諸事物のなかに顕われるのである。」(ミルチャ・エリアーデ『聖と俗』、風間敏夫訳)

[8] 以下はウィリアム・ジェイムズ『宗教的諸経験の諸相』(桝田啓三郎訳)第十九講からの引用であるが、これについてパスカルの立場から前以てコメントすると、教会が奨励する古臭い信条や儀式の多くが、プロテスタントにとっては悪い意味で子供っぽい(ばかばかしい嘘いつわりであるという意味で子供っぽい)のは、外的なものに内的なものが結びつけられないからである。つまりプロテスタントの眼から見ると、儀式の多くは「迷信」なのである。――「カトリシズムは空想に対して〔プロテスタンティズムよりも〕はるかに豊かな牧草と樹陰とを提供し、種々さまざまな種類の蜜のたまった巣穴をもち、そのさまざまな訴えにおいてはなはだ人間性に寛大であって、ために、プロテスタンティズムカトリック信者の目にはつねに養老院の相貌を呈して見えるであろう。プロテスタンティズムの厳しい否定的態度はカトリック信者の心には理解できないのである。知性のすぐれたカトリック信者にとっては、教会が奨励する古臭い信条や儀式の多くは、文字どおりにとっては、プロテスタントたちにとってと同じく、子供っぽい(childish)ものである。しかしそれらの信条や儀式は「子供らしい(childlike)」という好ましい意味で子供っぽいのであって、――無邪気で、愛らしく、そして・・・・・むしろ微笑ましいものである。ところがプロテスタントにとっては、反対に、そういう信条や儀式はばかばかしい嘘いつわりであるという意味で子供っぽいのである。プロテスタントカトリック信者のそういう信条や儀式という優雅で愛らしい飾り物を撲滅し、自分たちの融通のきかない厳しさにカトリック信者を震え上がらせずにはおかない。」(原語の挿入は引用者による)

[9] 表徴(figure)とは表象(représentation)のことである。つまりそれは非現前性・不在性を意味する。

[10] 相反するように「見える」という言い方をパスカルがしているのは、カトリック信仰は相反する二つの真理を「包含する」からである。即ち相反する二つの真理は両立するからである。

[11] 犠牲の記念ということに関してであるが、聖書には以下のように書かれている。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」(コリントの信徒への手紙一11章 23-24節)