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拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【3】【4】

【3】 時と永遠

 

十字架のイエスの記念ということが言われる[b]が意味することは、十字架上の生贄は既に終わったということ、イエスの生涯は既に終わったということである [12]。十字架における犠牲は過去の出来事であり、イエスは過去の者、既に死んだ者である。というわけで、[b]は時の経過の観点に立つものであると言える。では、[a]はどうなのか。「イエス・キリストはそこに現実に現前する」ということは、単なる時の流れの中での今現在の現前を意味するのではないであろう。「パンの実体は変化し実体的変化を行なって我々の主の御体の実体となる」ということは、いわば時間の超脱を意味すると考えられる。つまりこの場合の現実的・実体的な現前は、時の経過の中での今現在の現前ではなくて、いわば永遠の現在の現前であると考えられるのである。[a]は時の経過の観点と垂直に交わる永遠の観点に立つものであると言える。(念のために言うと、この現実的現前は想起による現前化ということとは異なる。想起による過去の現前化は必ずしも表象という再現前化ではなく、想起は過去との直接的な接触でもあり得るが、しかしイエス・キリストの現実的現前は永遠の現在の現前であって、それは過去との直接的接触としての過去の現前と混同されてはならない。)では、決して相容れないと思われる時と永遠とはどのように両立するのであろうか。過去性=不在性と永遠性=現前性とはどのように両立するのであろうか。

十字架上の生贄は過去のことであり、それはイエスの生涯と同様に既に終わった。それは「イエスが頭を垂れて息を引き取られた」 [13]時に終わったのである。しかし生贄は既に終わったということは、実は未だ終わらないということなのである。それは、終わらないことが始まったということなのである。イエスは「頭を垂れて息を引き取られた」とは、「御自分の霊を神に渡された」ということであり、このイエスの最期の霊がミサのたびごとに戻ってくる。イエスはミサのたびごとに永遠の聖霊の働きによって現前する。

最後の晩餐の席においてイエスは、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 [14]と言ったが、この場合の「体」は人間の一部ではなくて人間全体を意味する [15]。即ち身体的な条件の下で死すべきものとして生きる限りにおける人間全体を意味するのであり、つまりイエスは受肉の最初の瞬間から十字架での最期の瞬間までの己れの全生涯を我々に贈り物として残したわけであるが、時の経過に従うイエスの生涯が決定的に断ち切られたからこそ、つまりは時の経過というものがあるからこそ、時の経過を越えたものが創設され、永遠の次元が拓かれたのである。

近代科学は再現性を真理の基準とするが、十字架上の犠牲はそれが一度限りであるからこそ、即ちそれが決定的に終わったからこそ、永久に終わらない。再現不可能な一度限りの出来事である故に、十字架上の犠牲は終らないものの誕生であり、永遠なるもの、真実なるものの誕生である。このように、永遠があるためにはそれと相容れない時の経過がなければならないのである。即ち、過去性=不在性なしには永遠性=現前性は成り立たない。[a]は[b]を排斥するどころか、それを前提条件にするのである。しかし逆も言える。永遠は時の流れから生まれるのではもちろんない。永遠は過ぎ行く時を絶対的に越えているから永遠なのであり、一度限りの十字架上の犠牲が永遠なるものの誕生となり得るのは、それがそれとは相容れない永遠の光に照らされるからなのである。その意味で、永遠性=現前性なしには過去性=不在性は成り立たない。[b]は[a]を排斥するどころか、それを前提条件にするのである。

従って、カンタラメッサが語っていることはよく理解できる。彼はアウグスティヌスが「更新する」と「祝う」という二つの言葉を使っていることに言及し、これらは互いに照らし合わせて考えられるならば適切な言葉であると言う。即ち、ミサは十字架上の出来事を、単に繰り返すことによって更新するのではなくて、それを「祝うことによって更新する」のであり、また、それを単に思い起こすのではなくて、それを「更新することによって祝う」のであると言うのである [16]。この場合、十字架上の出来事を「更新する」ということはイエス・キリストの現実的現前(永遠の現在の現前)に対応し、「祝う」ということはイエス・キリストの記念(過去という不在)に対応する。つまり、〈祝う〉ことによって〈更新し〉、〈更新する〉ことによって〈祝う〉というキアスムは、[a]と[b]が相互媒介というキアスムの関係にあることを意味するのである [17]カトリック信仰は聖体におけるイエス・キリストの現前と不在という相反する二つを包含するということは、結局、この信仰においては相反する二つは互いに媒介し合い求め合うということなのであり、これが信仰のロゴスであると言うことができる。

 

【4】 露わなる神と隠れたる神

 

ところで、聖体の秘蹟に関するこれら[a]と[b]は、時と永遠という観点とは別の観点からも見ることができる。即ち[a]と[b]は、それぞれ〈隠れた神〉と〈露わな神〉を意味すると言うことができるのである。一方、[a]における「我々の主の御体の実体」は感覚されるものではない。形色(けいしょく)は感覚されるが主の御体の実体は感覚されない。つまり「イエス・キリストはそこに現実に現前する」ということは、イエス・キリストは不可視なものとしてそこに〈隠れている〉ということなのである。他方[b]における、秘蹟は「イエス・キリストの表徴である」ということは、先に見たように、イエス・キリストはそこには不在であるということであるが(象徴はそれによって象徴されるものそのものではないので)、しかし受肉という出来事において神が人間となって現われるのと同様に、ミサにおいてイエス・キリスト秘蹟としての感覚的な形色となって現われると言えるのであるから、秘蹟イエス・キリストの表徴であるということは、イエス・キリストが可視的なものとしてそこに〈露わになっている〉ということを意味すると言うことができるのである。

もしこのように[a]と[b]がそれぞれ〈隠れた神〉と〈露わな神〉を意味するのだとすれば、聖体の問題は傲慢と絶望という問題と関連している。というのも、『パンセ』の断章Br.586には次のように記されているからである。言葉を補足しつつこの断章を再構成すると以下のようになる。

 [*a] 一方、神は隠れている。そうであるからこそ、我々は己れの〈悲惨〉を知ることができる。「もし闇が存在しないならば、人間は自分の堕落に気づかないであろう」。つまり傲慢になるであろう。

[*b] しかし他方、神は露わである。そうであるからこそ、我々は〈神〉を知ることができる。「もし光が存在しないならば、人間は救いを望まないであろう」。つまり絶望するであろう。

というわけで、「神が半ば隠れ半ば露わであることは、正しいことであるだけではなくて、我々にとって有益なことである」。

 我々は己れの悲惨を知るのでなければならず、なおかつ神を知るのでなければならない [18]。即ち神は隠れているのでなければならず、なおかつ露わであるのでなければならない。そうであることによって、我々は傲慢と絶望という罪を免れることができるのである。――

ロアンネス嬢への私信〔Ⅳ〕(1656年10月末)では、今見た『パンセ』Br.586と或る意味で対応することがまず語られる。――もし神が絶えず人間に己れを露わにするならば、神を信じることに価値はなくなるであろうし、もし神が決して己れを露わにしないならば、信仰は殆どなくなってしまうであろう。しかし神は通常は隠れているが、稀に、神に仕えようとする者に己れを露わにするのである。――このように述べた後、パスカルはこう語る。――神は受肉に至るまで自然のヴェールの下に隠れたままであったが、この受肉においても神は人間性によって己れを覆うことによってなおいっそう己れを隠した。そしてその後、最後の到来に至るまで聖体の形色の中に留まることを選んだのであるが、「パンの形色の下に神を認めることは、カトリック教徒のみの特性であり、そこまで神の光が照らしているのは我々だけなのである。」

ここで指摘したいのは、神が己れを隠す段階は神が己れを露わにする段階でもあるということである。即ち神はまず自然の蔭に、次いで人間性の蔭に、そして最後にパンの形色の蔭に己れを隠したのであるが、それは言い換えれば、神はまず自然における奇蹟として、次いで人間として、そして最後にパンの形色として、段階的に己れを露わにしたということでもある。もちろん神に仕えようとする者にしか神は己れを露わにしないのであるが、しかし隠れることは露わになることでもあるのである。つまり神がその下に隠れるヴェールは、神がその下に己れを隠すものであると同時に、神がそれを介して己れを露わにするものでもあるのである。

とすると、隠れていることと露わであることとの間には或る種の同一性が存することになる。ここでもう一度[a]と[b]に関して言うと、イエスはパンや葡萄酒の外観の内に現存するのではない。イエスは感覚的に現存するのではない。イエスは感覚で捉えることのできない奥深い実体の内に現存するのである。つまりイエスは〈隠れて〉いるのである。しかし隠れていると言うことができるためには、イエスは感覚的に現われているのでなければならないのではないであろうか。つまり〈露わに〉なっているのでなければならないのではないであろうか。然り、眼に見えない神が眼に見えないものとして現存すると言うことができるためには、眼に見えない神は己れを眼に見える形で示さなければならないのである。そうでなければ、見えざる神はそこに現存すると言うことはできない。但しこれは神が眼に見えるものになるということ(それは神が神ではなくなることである)ではない。神はあくまでも見えざるものである。つまり神は家の中にいる者が家の外に出てくるように己れを示すのではない。不可視な神は不可視なもののまま可視的なものの中に己れを示すのである。つまり神は己れを露わにすることにおいて己れを隠すのである。神はただ単に己れを隠すのではない。まさに己れを露わにするという仕方で己れを隠すのである。言い換えれば、神は己れを隠すという仕方でのみ己れを露わにし得るのである。露わであることは隠れていることであり、隠れていることは露わであることである。

そして件の三つの段階について言うと、これは神が増々己れを隠す段階であると同時に、神が増々己れを露わにする段階である。プロテスタントイエス・キリストが神であることは認めるが、パンの形色の下に神を認めることはしない。即ち[b]は肯定するが、[a]は否定する。どうしてそうするかと言うと、それは聖体において神は最も暗い闇の中に隠れているからである。しかしカトリック教徒はその最も暗い闇の中に最も明らかに神を認める。神が隠れているから信じないのではない。また神が露わであるから信じるのでもない。神が隠れているからこそ信じる、神が密やかなものであるからこそ信じる、そして信じることにおいて神が己れを露わにする、というのが信仰であり、この逆説が信仰のロゴスなのである。

 

[12] [b]では「十字架のイエス・キリスト」と「栄光のイエス・キリスト」とが並べられているが、後者は最後の審判におけるイエス・キリストである。

[13] ヨハネによる福音書19章 30節

[14] 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイによる福音書26章26節)

なお、ここでの聖書への言及は、ラニエロ・カンタラメッサ『ミサと聖体 私たちの成聖』(片岡仁志他訳)〔Raniero Cantalamessa, The Eucharist, our Sanctification 〕を参考にしている。

[15] この「体」は[a]における「主の御体の実体」とは異なる。

[16] 前掲書

[17] 『パンセ』Br.525では、傲慢に対処するために必要なのは、純然たる低劣ではなくて「偉大に進むための低劣」であり、絶望に対処するために必要なのは、純然たる偉大ではなくて「低劣を経由したのちの偉大」であるということが語られている。つまり、「低劣」と「偉大」という相反するものがキアスムによって統一されているのであるが、必要とされる低劣と偉大は宗教に関わるものである。即ち、傲慢に対処するために必要な「偉大に進むための低劣」とは、「自然から生じる低劣ではなくて、悔悛から生じる低劣」であり、絶望に対処するために必要な「低劣を経由したのちの偉大」とは、「功徳から生じる偉大ではなくて、恩寵から生じる偉大」なのである。拙稿「パスカル的〈ロゴス〉とイエス・キリスト」(『人文学報』第489号、2014年)を参照。

ところで、信仰とは「悔悛から生じる低劣」、「恩寵から生じる偉大」に他ならない。従って、「偉大に進むための低劣」、「低劣を経由したのちの偉大」というように、「低劣」と「偉大」という相反するものをキアスムによって統一するのはつまりは信仰なのである。

[18] 「人は神と己れの悲惨とを同時に知る(connatre tout ensemble et dieu et sa misère)ことなしには、イエス・キリストを知ることはできない」(Br.556)と言われる。