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デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ③

デカルトの懐疑は確実性に至るための一時的な方法=手段ではない。即ち、デカルトは確実性に至ることによって懐疑を乗り越え、乗り捨てたのではない。

むしろ確実性に至ることは懐疑を深めること以外のことではないのであり、言ってみれば確実性とは懐疑なのである。

詩人の直観と言葉がこのことを理解する一助となる。

(なお引用する前に予め一言しておくと、デカルトの哲学を詩と関連づけることを意外と思う者、とんでもないことと思う者は、デカルトについて“勉強”しかしていない者である。即ち、教科書や事典に書いてあること、後世の哲学者や研究者が語ったことを出発点にしてしか考えない者、つまり本当にものを考えることをしない者である。)

降りていった人、墜ちていった人はたくさん居る。〔パリ時代の金子光晴よりも〕もっと凄まじい煉獄を他動的な力によって這わされた庶民も多かろう。けれどそこから浮上できた人は、一刻も早くそれを忘れたがり、そんな汚辱の経緯はおくびにも出さず秘したがる。金子光晴はそこが決定的に違っていた。下降の途次で視たもの、底で摑んだむき出しの「人間の原理」「人間の地金」「人間の解析」を、たっぷり時間をかけて反芻し、ゆっくりと吐き出したのだ。・・・・・「墜っこちることは向上なんだ」(『人非人伝』)と語っているが、この断定的な言葉がずしりと重いのは、人のよく為しえない反語的世界を生き抜き、みずからが成就してしまったところからくるものだろ。 

         【茨木のり子金子光晴――その言葉たち」】

「墜っこちることは向上なんだ」と言われる。――墜ちることは向上の前段階なのではない。墜ちることは向上であり、向上とは墜ちることなのである。従って、向上は墜ちることによって浸食されている。

確実性も同じである。確実性は懐疑によって浸食されている。それ自身を否定するものによって浸食されていない確実性、つまり自己充足した確実性は、どうして〈超越性〉を持ち得るのであろうか。