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デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ④

論理や数学は「詩」と対極的なものであると思っている向きは少なくないであろう。しかし本当にそうなのであろうか。

我々は自分の偏見に気づかなければならない。むしろ論理や数学は「詩」を欠くならば真に創造的ではあり得ないのではないであろうか。

ところで、デカルトは数学者でもあったわけであるが、そうであるからといって、その懐疑は「詩」と無縁であるわけではない。むしろデカルトの懐疑は詩人の創造的な生と類縁のものである。

「合理主義者デカルト」という実に怪しいレッテルと共に、「方法的懐疑」とか「知の基礎づけ」とかといった、非常に浅薄である故に非常に分かりやすい物語を頭から信じて疑うことを知らない向きには、是非以下の文を考えてもらいたい。

 詩を書くためには降りてゆかねばならない、それが唯一のルートだ、などと言うつもりはない。第一「手をぽっぽに入れている側」の人間としては、そんなこと言えた義理ではないし、詩がそれだけで説明し尽くせるものとも思ってはいない。

けれど、環境も、体験も、絶望の質も異なる人々の胸に、まごうことなく達してしまう金子光晴の言葉の秘密の根幹は、降りて行ったことと関係を持ち、手をぽっぽから出して泥まみれになったことと、深くかかわっているのは否定すべくもない。

どこを切っても血の噴き出すような、生きて脈打つ日本語たち、それらは生きるか死ぬかの境目で、何か大きな犠牲とひきかえでなければ、到底獲ることのできないものだろうか?

     【茨木のり子金子光晴――その言葉たち」】

デカルトは懐疑を実生活で行なうことは当然のことながら禁じたが、しかしデカルトの懐疑は決して「手をぽっぽに入れて」行なう知的遊戯ではない。それは己れの全存在を賭けて行なうべきものである。いずれ詳しく述べるつもりであるが、デカルトの懐疑は実は「死の修練」(脱身体=脱世界の練習)である。つまり「我思う、故に我あり」という原理は死の修練から切り離して理解することはできないものなのである。