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デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑤

どうして、2+3=5 とか、四角形は四つの辺を持つといった算術や数学の真理は疑い得るのに、コギト(考える私が存在するということ)は疑い得ないのか。――そのような疑義を人は呈する。しかしそれはデカルトの懐疑の基本を理解していないからである。

デカルトの懐疑は、いわば、世界の外に出る企てなのである。

2+3=5 が疑い得るのは、2+3=5 が世界内に属することだからである。世界内に属することである限りにおいて、数学的明証は世界の外に出る企てである懐疑によって越えられてしまう。つまり2+3=5 は疑い得る。

それに対して、コギトは世界内のことではなくて、世界外のこと、即ち形而上学的なことである故に、世界の外に出る企てである懐疑はコギトの明証に直面してその目的に達する。つまりコギトの明証は懐疑を停止させる(但し壊滅させるのではない)。

我々は 2+3=5 を疑うことに非常に大きな困難を覚える。それはほとんど不可能なように我々には思える(屁理屈をこねて疑うふりをすることはできるが)。しかしそれは、デカルトの懐疑は世界の外に出る企てであることを理解していないからであり、相変わらず世界にぬくぬくと安住しているからである。研究者たちはデカルト「と一緒に本気で」(『省察』読者への序言)懐疑を遂行するのではなくて、手をぽっぽに入れたまま膨大な論議を作り出してきた。

デカルトはそのような形而上学的に怠惰な読者を見越していたようである。