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デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑥

デカルトの懐疑は世界の外に出る企てであることは、果たして一般に理解されているのであろうか。例えば、いくら世界の外部ということを声高に述べても、世界の外部についてただ単に知的・観念的に論じるだけでは、世界の外部を真に理解しているとは言えないのである。

デカルトは第一省察の締めくくりとして、牢獄に繋がれた囚人の話をしている。囚人は自分が牢獄から解放されて自由の身になっている夢を見ていた。ところが、そのうち目を覚ましかける。そこで、その囚人は快い夢の中に戻るために、もう一度眠りに入ろうとするのである。

この囚人は結局安楽への欲求に負けてしまうのかもしれない。しかしそうであるとしても、快い夢――即ち天と地が存在するとか、2に3を加えると5になるといったことがそこに属する、慣れ親しんだ「この世(=信念世界)」――を拒む苦しみを、少なくとも一瞬味わっている。しかし世界の外部をただ単に知的に論じるだけの学者は、世界の内部で安穏として2+3=5 を疑う学者と同様に、やはり手をぽっぽに入れているのではないであろうか。

では、デカルトはどうして快い夢の誘惑に打ち克ち、苦しみに耐えることができるのであろうか。懐疑に身を投じることは暗黒の中に身を投じることであるかのように思えるが、しかし光がまったく見えていないということはあり得ないであろう。デカルトは確実に超越を感知している。即ち形而上学的欲求に目覚めている。そうでなければ、世界の外に出ることを実際に企てることはできないのであり、従ってまた世界の外部を真に理解することもできないのである。