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「デカルトの循環」(c)

デカルトの循環に関する話を先に進める前に、念のため「デカルトと信仰」について確認しておきたい。

以下、2016年9月19日に本ブログに掲載した拙稿から抜粋する。

筆者は前稿「デカルトと死の修練」において、デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立しているとしても、あるいは表面上は信仰に依拠していないように見えるとしても、この哲学は実は神への生ける信仰によって実質的に根拠づけられているのではないか、それは黙せる篤き信仰心によってこそ実現され得ているのではないか、従ってデカルトの秘められた信仰心を感取せずにそれを等閑視するならば、その哲学を本当の意味で理解することはできないのではないか――論語読みの論語知らずの如き「デカルト読みのデカルト知らず」になってしまうのではないか――という旨のことを述べ、そのことを「懐疑」「証明」「観念」「方法」をめぐって示した(・・・)

  拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルデカルト〕」【序】

 

 そしてまたデカルトはれっきとした信仰者であることも確認しておきたい。パスカルデカルト批判は余りにも有名であるが、しかし『ド・サシ氏との対話』におけるパスカルモンテーニュ批判をそのまま信じてはならないのと同じように、パスカルが書き残したデカルトに関する断片的な批判を絶対化してもならない。もちろんデカルトキリスト教の擁護を主眼として哲学したわけではないし、パスカルと同種の信仰を有したわけではない。しかし哲学史が築き上げた “合理主義者デカルト” というイメージ(巨大な虚像)を払拭し、哲学史的偏見を排して虚心坦懐にデカルトの言葉に耳を傾けなければならない。デカルトは例えば、神への信仰が我々に何も教えていない事柄は別として、それ以外のことについては超自然的な光を自然の光よりも優先させなければならない、恩寵の光を理性の光よりも優先させなければならないと言っているのであるが、これを啓示に対する単なるお決まりの敬意表明と受け取ってはならないのである。

そして受肉とか三位一体といった「信仰の真理」以外の真理、即ち自然の光によって認識される真理も、実は信仰の光に照らされていることを察しなければならない。そのことを感じ取らなければならない。確かに理性と信仰とは区別される。しかし区別されるということは切り離されるということではない。理性と信仰とは不可分なのである。デカルトにあっては、信仰は理性の内奥に潜み理性を活動させている。つまり信仰は理性の内に浸透している。そのことは特に「神の観念」によく表れているが、しかし神の観念は例外的なものではない。デカルト的明証は超自然的な光から切り離されるならば貧しく無力なものとなってしまうのである。

  拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルデカルト〕」【5】

それでは、「デカルトの循環」に話を戻すことにしよう。