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「デカルトの循環」(d)

デカルトの循環」と呼ばれる問題は、デカルト研究の歴史において過去最も多く取り上げられた問題の一つであるが、それは簡単に言うと、

神が存在し神が欺瞞者ではない(誠実である)ことは、明証の規則(明晰判明なことはすべて真であるという規則)に従って証明されることであり、また、明証の規則が正しいことは神によって保証されていることである、

という循環である。

デカルトは「循環論法」を犯しているのではないかという指摘は、既にA.アルノーなどデカルトの同時代の学者によって行なわれ、また後世においてはこの指摘をめぐって数多のデカルト研究者が様々な議論が試みたが、しかし我々は研究者たちの煩瑣な議論をいちいちフォローする必要はないと考えている。

どうして循環論法という批判が出てくるのか。それは要するに、哲学を信仰から完全に切り離されたものと看做すからである。即ち、(信仰において感知される)神の超越性を度外視して、「神」と「明証の規則」とを同列に置くからである。そのようにする限り、デカルトを循環論法という非難から救うことは決してできない。弁明や釈明を行なうことしかできない。あるいは、デカルトは循環論法を犯していないことを独断的に前提することしかできない。

「神」と「明証の規則」との間の循環は、実は、以前に取り上げた「神」と「聖書」との間の循環と同種のものである。「明証の規則」の正しさは、(神の存在が証明される第三省察において何度か現われる言葉で言い換えると)「自然の光」による認識の正しさということであるが、「自然の光」とはまさに「神から我々に与えられた認識能力」(『哲学原理』I-30)であり、或る意味で「聖書」に対応するものなのである。

「神」と「明証の規則」との間の循環は、「神」と「聖書」との間の循環と同種のものであり、つまり確かに循環ではあるが、しかし循環論法ではない。

では、循環論法の循環ではない循環とは何なのであろうか。どうしてそのような循環が存在するのであろうか。