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「デカルトの循環」(e)

最初から話を始めることにしよう。「デカルトの循環」について論じるためには、まずはデカルトの答弁そのものを正確に理解しなければならない。では、循環論法の嫌疑に対してデカルトはどのように答えたのか。『省察』「第四答弁」を見てみよう。

(a)明晰判明に認識されることが真であることが我々にとって確定されるのは、神が存在するからに他ならず、また、(b)神が存在することが我々にとって確定されるのは、そのことが明晰に認識されるからに他ならないと、そのように私が述べた時、私は循環論法を犯していない。

デカルトはそのように答弁している。では、どうして循環論法を犯していないと言うことができるのであろうか。デカルトの言い分は次の通りである。

  1. まず(b)の方に関してであるが、「最初に神が存在することが我々にとって確定されるのは、神が存在することを証明する根拠に我々が注意を向けているからである」。つまり、神の存在は「我々が実際に明晰に認識すること」であるからである。
  2. しかし、我々はいつまでも根拠に注意を向けているわけにはいかない。では、「その後は」どうなのであろうか。今度は(a)の方に関してであるが、我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを我々が確信する」ためには、その事物を「明晰に認識したことを我々が想起する」だけでは十分ではない。更に、「神は存在し神は欺くことはないということを我々が知っているのでなければ」ならないのである。

明証の規則が神的保証を必要とするのは明証が過去のものとなった場合(即ち私は神が存在することをかつて明晰に認識したという場合)だけであって、最初に神の存在を証明する際には、即ち明証が現在のものである際には、明証の規則は神的保証を必要としない。つまり、(b)は(a)を前提しない。それ故に自分は循環論法を犯していない。――デカルトの言い分は要するにそういうことである。

しかしこの答弁は多くの者にとって納得のできるものではないであろう。というのも、「神が存在することは明らかである」という明証は、それが現在的なものである場合も、想起の対象となっている場合も、内容に変わりはないからである。

しかし問題は、明証が現在のものであろうと過去のものであろうと、その内容は変わりない、という見方それ自体なのである。多くの者は明証から時間性を奪う。ということは、デカルトの証明を単なる証明としてしか見ないということである。デカルトの証明を単なる証明としてしか見ないから、明証を無時間的なものと看做す。つまり現在の明証と過去の明証とを区別することの意味を理解することができない。しかしその場合には、デカルトを循環論法の嫌疑から救い出すことは不可能である。