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「デカルトの循環」(g) ・・・ デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑧

デカルトの循環」(e)で見たように、

我々が実際に明晰に認識することは、神の存在であれ何であれ、いずれ想起の対象となる。即ち、「以前に明晰に認識したことを我々が想起すること」となる。しかし、神の存在であれ何であれ、或る「事物が真であることを我々が確信する」ためには、その事物を「明晰に認識したことを我々が想起する」だけでは十分ではない。更に、「神は存在し神は欺くことはないということを我々が知っているのでなければ」ならないのである。

ということは、神は存在し神は欺くことはないという明証、つまり神の存在と誠実性という明証も、それが過去の明証となった場合には、即ちそれが想起の対象となった場合には、「神は存在し神は欺くことはない」ということの知を必要とするということである。つまり神的保証を必要とするのである。

しかし神の存在と誠実性という明証の真理性を保証する「神は存在し神は欺くことはない」ということの知それ自体も、それが過去の明証となった場合には保証を必要とするということに我々は気づかなければならない。

つまり、明証の規則の正しさが神の存在と誠実性によって保証されるのは、神の存在と誠実性が現在の明証である限りにおいてなのである。それが過去の明証である場合には、明証の規則は確乎たるものではあり得ないのである。

ということは、神の存在と誠実性が証明された後も、懐疑の可能性は残る(実際には疑わないとしても)ということである。

デカルトは、(例えば 2+3=5 を)疑う根拠として「欺く神」を持ち出し、次いで神は存在し神は欺く者ではない(誠実である)ことを証明して、「欺く神」という懐疑の根拠を否定し却下する。しかし、神の存在と誠実性も、それが過去の明証となるならば、「欺く神」は生き返る。つまりそれも疑い得るものになるのである。

デカルト研究者はこのことを決して理解しない。デカルトの懐疑は懐疑の可能性を決定的に抹殺するためのもの、つまり方法的懐疑であると信じ込んでいるのである。しかし、少し考えれば分かるように、絶対に疑い得ないことなどあるわけがないのである。実際、デカルトは「絶対に疑い得ない」などという言い方は、『方法序説』においても『省察』においてもしていない。

第三省察の冒頭でいわゆる明証の一般規則を仮に立てた後、デカルトは例えば 2+3=5 という明証は、それが現在の明証である場合にはその真理性を信じざるを得ず、それが過去の明証である場合にはその真理性を疑うことができるということを語っている。

つまり信じることと疑うことの矛盾を示しているのであるが、こうした矛盾・二重性はあってはならないものではなくて、それこそが深く了解すべき真のデカルト的問題であり、真の哲学的問題なのである。

この矛盾にはいずれまた触れることにして、我々はここで改めてデカルトの懐疑は方法的懐疑ではないということを確認したわけである。