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「デカルトの循環」 (i) ~死の問題へ

繰り返し述べたことであるが、「デカルトの循環」と呼ばれる循環は循環論法の循環ではない。というのも、それは超越関係における循環だからである。

ところで、循環は超越関係における循環であるということは、この場合の超越関係とは循環関係であるということである。

再度、神と聖書の例で考えてみよう。

[A]神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。

   ーーではどうして聖書を信じることができるのか。

[B]聖書を信じることができるのは、聖書は神から授けられたものであるからである。

  • 神は聖書を超越しているのであるが、上の[B]はその超越性を表している。
  • しかし[A]は神は聖書に依存することを意味する。神は聖書によって己れを示さなければならないのである。

つまり超越とは単なる超越ではなくて超越と依存(=非超越)との矛盾であり、また神と聖書の間の循環である。

 

ところで、こうした神と聖書との関係は、精神と身体との関係でもある。

デカルトにおいては、精神は身体を超越していると同時に、身体に依存しているのである。

言い換えると、精神は身体から区別されると同時に、身体と一つになっている(心身合一)のである。

精神は身体を越えたものであると同時に、身体なしにはあり得ない。

こうしたデカルト矛盾は詩人の洞察によっても裏づけられる。

 [1]肉体をうしなって あなたは一層 あなたになった       

   純粋の原酒(モルト)になって 一層わたしを酔わしめる   

   恋に肉体は不要なのかもしれない

[2]けれど今 恋いわたるこのなつかしさは 

   肉体を通してしか ついに得られなかったもの

[3]どれほど多くのひとびとが 潜って行ったことでしょう

   かかる矛盾の門を 惑乱し 涙し          

          茨木のり子『歳月』「恋唄」

 番号はもちろん引用者が便宜上付したものであるが、デカルト的に言うと、

[1]は純粋精神の立場に立つ言葉であり、

[2]は心身合一の立場に立つ言葉である。

そして純粋精神と心身合一という矛盾した二つが同時に問題になるのは、上の詩人の場合もそうであるが、とりわけ「死」においてなのである。

というのも、

一方、死は精神が身体から離れて純粋精神になることを可能にするが、

しかし他方、死はそもそも心身合一体にとってしか存在しないからである。