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「都立大哲学会と倫理問題」2017.01.28

         

都立大哲学会と倫理問題

――発会六十周年を迎えて――

 

                                実川 敏夫

 

 

他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは、哲学会という名に恥じることのない、品格のある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対して、かねてより違和感を覚えている。

これまでは個人的な会話で意見を述べるにとどめていたが、しかし今や、学会できちんと話さなければ埒があかないと考えるにいたった。そこで今日は、今年迎える発会六十周年(人間でいうと還暦)が学会の新たな門出となることを祈りつつ、僭越ながら学会の将来に向けて提言・要望を行なうことにしたい。

 

           『哲学誌』について

 

a.『哲学誌』に審査制を導入する議決が為されたのは19765の総会においてであり(この時は編集委員とは独立に新たに選考委員が設けられた)、そしてこの歴史的な変革の立役者は坂井秀寿・久保元彦という二人の助教授だったのであるが、両助教授がみずから選考委員を買って出る姿勢をも示したのは、まさに哲学に関して或る志を持っていたからである。当時博士課程に在学していた私は坂井邸を訪ねた際にお二人の志にインスパイアーされ、そしてそのお陰で私はこれまでずっと哲学を続けてこられたのであるが、ここで言う志とは「個人的な趣味・教養としての哲学」や「党派的なイデオロギーとしての哲学」といったタコツボ主義が決定的に欠いている「哲学に対する責任感」であり、そしてこれは教員にとっては論文の査読に対する(つまり学生に対する)責任感でもある。私は『哲学誌』の今の査読の仕方に、あとでその内容を偶々知って以来、事あるごとに疑義を呈したが、それは哲学に本質的な倫理(=美)であると言える「哲学に対する責任感」に駆られて、『哲学誌』に初めて審査制を導入した二人の哲学者を裏切るようなやり方を、黙って見過ごすことができなかったからである。

 

(注1)今の査読の仕方は指導教官の評価を徹底的に排除することを狙うもののようであるが、学生の論文を最もよく理解していると考えられる――それ故に卒論・修論・博論の審査では主査を務める――者を、どうして徹底的に締め出さなければならないのか(“Schule”といったものは存在せず、また採否を決定する権限はもっぱら編集委員に存していたのにも拘わらず)。そもそもそのことが不可解なのであるが、仮に百歩譲って指導教官の評価を絶対的に排斥しなければならないのだとしても、このことは外部委託という責任放棄的なやり方をしなければならない理由にはならないのではないか。 ★ここで念のため断っておくと、私は指導教官が査読すべしと主張したいのではない。教育者として学生に対して責任を持つべき本学の現役教員が査読の役目を負うべしというのが私の主張である。但し、必要に応じて臨機応変に、指導教官にも、あるいは信頼できる外部の研究者にも、見解を聞かなければならないと考えている。

 

(注2)聞くところによると、科学論文の場合でさえ客観的な査読が行なわれるとは限らないらしい。というのも、査読は専門が同じか近い研究者たちによって行なわれるが、彼らは論文提出者のいわば競争相手competitorでもあるので、そのことが評価を歪めることが多いからである。こうした例からも分かるように、指導教官を外しさえすればフェアな審査が行なわれると見るのは余りにも楽観的過ぎる。哲学界は公平無私な人格者だけで占められているわけではないのである。 ★もう一度念を押すと、私は指導教官が査読すべしと主張したいのではない。

 

b.一般的に言って、外との交わり(海外留学など)は大事なことである。従って応募論文について言うと、もちろん他大学に信頼できる人がいれば(そういう人を見つけるのは実は容易ではないが)、その人に読んでもらうのはよいことである。「(これはよい論文だから)是非あの人にも読んでもらいたい」という人がもしいれば、その人に論評を仰ぐべきである。しかし丸投げのようなやり方はよくない。一体、他の大学でも紀要の査読を外部に委託しているのであろうか。それは知らないが、都立大哲学会は学会といっても母体を持たない全国学会とは違って、本学を母体とし本拠とする学会であり、しかも査読の対象となるのは実際には本学の在学生だけであるということからしても、修士論文や博士論文の評価・合否判定と同様に、応募論文の査読・採否決定は本学の現役教員が責任を負うのが当然である。出過ぎたことを言うようであるが、本学の教員には、坂井・久保両助教授のように気概と気骨を行動で示してほしい。

 

c.責任の所在を曖昧にすることは倫理に悖ることである。しかしそれだけではない。本学の教員の責任感が疑われるようなことがもしあれば、それは決して得なことではないのである。都立大(首都大)の教員はそんなにも責任感がないのか、そんなにも的確な評価を行なう自信がないのか、そんなにも相互信頼がないのか、そんなにも世間からの信用がないのか、そんなにも権威がないのか、などと思われるならば、例えば本学の教員が評価・合否判定の責任者となっている修士号や博士号の世間的価値もそれによって影響を蒙ることになるであろう。

 

d.ところで、1976年5月の総会に関する記録には、『哲学誌』の質を高めるために論文は厳選するという旨が記されているが、但し査読を専門家に委ねるというようなことは坂井・久保両助教授の念頭にはまったくなかった。両氏の念頭にあったのはむしろ逆のことである。問題とされていたのは、私が了解したところでは、専門主義=タコツボ主義の弊害である。(趣味や教養あるいはイデオロギーといった)タコツボに潜り込むことは根本的な疑問を閉め出してしまうことである。従ってタコツボの中に埋没した者は根本的な視点を持ち得ない故に、自分のやっていることの意味が実はよく分からない。それをやらなければならない必然性が実はよく分からない。ただそれをやりたいからやっているだけである。そのような者の書いた論文は専門家の間では、即ち仲間内では、評価されることがあるかもしれないが、専門外の者に真に評価されることはないであろう。というのも、その哲学的意味が不明だからであり、つまり哲学論文としての普遍性を持たないからである。

 

e.というわけで、論文の質を高めるためには専門主義=タコツボ主義の弊害を問題にしなければならない。但し、何かを専門にすることそれ自体が悪いことであるというわけではもちろんない。肝腎なのは根本的な疑問を抱くことができるか否かであり、言い換えれば哲学に対して責任感を持つことができるか否かである。例えば久保元彦氏はカントしか論じなかったが、つまりカントを専門にしていたが、しかし常に「哲学とは何か」という問いを最重要視し、この根本的な問いを常に思索の原点に据えていた。これは感受性を要することであり、指示されてただちにできることではないが、そのようにすることが既定の枠組みに盲信的に依拠せずに真にオリジナルな研究を生み出すための(従って真に専門を究めるための)条件であると考えられる。

 

f.そこで『哲学誌』が全国で最も水準が高く、かつユニークな紀要となることを願って、憚りながら以下のような提案をしたい。――①編集委員は選考委員を兼ねる。②必要な場合には委員以外の人(専門家など)にも応募論文を読んでもらうとしても、査読・採否決定の責任者はあくまでも編集委員である。③編集委員の仕事として特に重要なのは、(枝葉の問題は二の次にして)大所高所から根本的な指摘を行なうことである。④委員は本学の現役教員から三名選出する。