都立大哲学会と倫理問題

都立大哲学会と倫理問題

――発会六十周年を迎えて――

 

実川 敏夫

 

 

♦ 他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは、哲学会という名に恥じることのない、品格dignityのある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対して、かねてより違和感を抱いている。

これまでは個人的な会話や研究室会議などで意見を述べるにとどめていたが、しかし今や、学会の場できちんと話をしなければ埒があかないと考えるにいたった。そこで本日は、今年迎える発会六十周年(人間でいうと還暦)が学会の新たな門出となることを祈りつつ、僭越ながら、学会の将来に向けて具体的な提言・要望を行なうことにしたい。これは本学会に永年所属する者としての責務もであると考えている。

  

 Ⅰ.『哲学誌』について

 

a.『哲学誌』に審査制を導入する議決が為されたのは19765の総会においてであり(この時は編集委員とは独立に新たに選考委員が設けられた)、そしてこの歴史的な改革の立役者は坂井秀寿・久保元彦という二人の助教授だったのであるが、両助教授がみずから選考委員を買って出る姿勢をも示したのは、まさに哲学に関して或る志を持っていたからである。当時博士課程に在学していた私は坂井邸を訪ねた際にお二人の志にインスパイアーされ、そしてそのお陰で私はこの年齢になるまでずっと哲学を続けてこられたのであるが、ここで言う志とは〈個人的な趣味・教養〉としての哲学や〈党派的なイデオロギー〉としての哲学といったタコツボ主義後述)には欠けている、「哲学に対する責任感」であり、そしてこれは教員にとっては論文の審査に対する(つまり学生に対する)責任感でもある。私は『哲学誌』の今の査読の仕方に、偶々或る時その内容を知って以来、事あるごとに疑義を呈したが、それは哲学に本質的な倫理(あるいは美)であると言える「哲学に対する責任感」に駆られて、『哲学誌』に初めて審査制を導入した二人の先達を完全に裏切るようなやり方を、黙って見過ごすことができなかったからである。

 

(注1) 今の査読の仕方は指導教授の評価を徹底的に排除することを狙うもののようであるが、学生の論文を最もよく理解していると考えられる――それ故に卒論・修論・博論の審査では主査を務める――者を、どうして徹底的に締め出さなければならないのか。そもそもそのことが不可解なのであるが、仮に指導教授の評価を絶対的に排斥しなければならないのだとしても、このことは外部委託という責任放棄的なやり方をしなければならない理由にはならないのではないか。 ★ここで念のため断っておくと、私は指導教授が査読に加わるべしと主張したいのではない。教育者として学生に対して責任を持つべき本学の現役教員が査読の役目を負うべしというのが私の主張である。但し、必要に応じて臨機応変に、指導教授にも、あるいは信頼できる外部の研究者にも、見解を聞かなければならないと考えている。

 

(注2) 聞くところによると、科学論文の場合でさえ客観的な査読が行なわれるとは限らないらしい。というのも、査読は専門が同じか近い研究者たちによって行なわれるが、彼らは論文提出者のいわば競争相手competitorでもあるので、そのことが評価を歪めることが多いからである。これはほんの一例であるが、こうした例からも分かるように、指導教授を外しさえすればフェアな審査が行なわれると見るのは余りにも楽観的過ぎる。私が他の学会の査読者として経験したことは、哲学界は好意や敵意などに左右されずに審査を行なう公平無私な人格者だけで占められているわけではないということである。 ★もう一度念を押すと、私は指導教授が査読に加わるべしと主張したいのではない。

 

b.一般的に言って、外部との交流(海外留学など)は大事なことである。従って応募論文について言うと、もちろん他大学に信頼できる人がいれば(そういう人を見つけるのは実は容易ではないが)、その人に読んでもらうのはよいことである。「(これは面白い論文だから)是非あの人にも読んでもらいたい」という人がもしいれば、その人に論評を仰ぐべきである。しかし丸投げのようなやり方はよくない。一体、他の大学でも紀要の査読を外部に委託しているのであろうか。それは知らないが、都立大哲学会は学会といっても母体を持たない全国学会とは違って、特定の大学(つまり本学)を母体とし本拠とする学会であり、しかも査読の対象となるのは実際には本学の在学生だけであるということからしても、応募論文の査読・採否決定は本学の現役教員が責任を負うのが当然である。口幅ったいことを言うようであるが、本学の教員には、坂井・久保両助教授のように気概と気骨を行動で示してほしい。

 

c.責任の所在を曖昧にすることは倫理に悖ることである。しかしそれだけではない。本学の教員の責任感が疑われるようなことがもしあれば、それは決して得なことではないのである。首都大の教員はそんなにも責任感がないのか、そんなにも的確な評価を行なう自信がないのか、そんなにも相互信頼がないのか、そんなにも世間からの信用がないのか、そんなにも権威がないのか、などと学内外で思われるならば、一体どういうことになるのか。そのことを考える必要がある。

 

d.ところで、1976年5月の総会に関する記録には、『哲学誌』の質を高めるために論文は厳選するという旨が記されているが、但し審査を専門家に委ねるというようなことは坂井・久保両助教授の念頭にはまったくなかった。両氏の念頭にあったのはむしろ逆のことである。問題とされていたのは、私が了解したところでは、専門主義=タコツボ主義の弊害である。

 

e.例えばフランスのアカデミズムにおいては(私が知っているのはデカルト研究の場合であるが)、先行研究を基本的に踏襲しつつそれを批判・修正したり補足したりすることが要求されるが、しかしこの要求にそのまま応じることは、「そもそも哲学って何なのか」とか、「そもそもどうしてデカルトを研究しなければならないのか」といった、極めて知的な根本的疑問(研ぎ澄まされた問題意識)を締め出してしまうことであり、先行研究を根本的な観点から批判することをしないことである。このようなことが、専門分野=タコツボに潜り込みそこに埋没することの弊害である。

 

f.論文の質を高めるためには、この弊害を取り除かなければならない。即ち、根本的な疑問を抱くことができなければならないのであり、言い換えれば哲学に対して責任感を持つことができなければならないのである。例えば久保元彦氏はカントしか論じなかったが、つまりカントを専門にしていたが、しかし常に「哲学とは何か」という根本的な問いを最重要視していた。「哲学とは何か」という最も根本的な問い、素朴さから懸け離れた極めて知的な問い、――これは答えによって終息する通常の問いと違って、いわば創造の源である問いである。即ち、既定の出来合いの分野にどっぷりとつかることを回避し、真にオリジナルな研究を生み出すための条件である問いであり、また哲学的に真に有意義な研究を生み出す(これこそが専門を深く究めることである)ための条件でもある問いなのである。