魂の響き

 ♦ 思いがけなくチケットをいただき、昨夜はロラン・ドガレイユのヴァイオリンを聴きに紀尾井ホールに出かけた(ピアノはジャック・ルヴィエ)。ドガレイユ Daugareil 氏はパリ管弦楽団コンサートマスター、そしてパリ国立高等音楽院の教授であり、かのサン=テクジュペリが所有していた1708年製のストラディヴァリウスを使用しているとのことである。演奏されたのは、プーランクラヴェルドビュッシー、フランクのVnソナタで、いずれも馴染みの曲だったが、これらがこんなに素晴らしい曲であるとは ・・・ 知らなかった。特にsotto voceで歌うところが印象的で、まさにフランス音楽の神髄を教えてくれるコンサートだった。

♦ チラシには大きな文字で「魂の響き」とある。これはありふれたフレーズかもしれないが、この言葉について少し考えるために、パリ在住のピアニスト船越清佳氏によるドガレイユ氏への独占インタヴュ(2015年9月)記事を参照してみよう。このインタヴュでドガレイユ氏は、コンサートマスターとして若い頃から数々の世界的指揮者と共に演奏したことに言及し、彼らから音楽的なアドヴァイスを受けたことを強調している。指揮者というのは楽器の演奏家と違って、「演奏の技術ではなくて、音楽そのものを尊重する耳を持っている」と氏は述べているが、(ヴァイオリンの巨匠のレッスンからは得られない)音楽的なアドヴァイスこそが、氏にとって貴重なものなのである。氏が言いたいのは、音楽に奉仕する心、音楽に対する謙虚な姿勢である。

ドガレイユ氏が言うには、まずテクニックの問題を解決し、その次にテクニックが及ぶ範囲で音楽的探求を行なうというのは「本末転倒」である。「感動」よりも技術的な確実さを優先させてはならない。感動というのは「自由さ、大胆さ、ファンタジーからこそ生まれる」からである。ドガレイユ氏に代わって私の考えを述べると、演奏技術が進歩することによって感動が生まれるということはあり得ない。もちろん感動を血肉化する(あるいは呼び起こす)ためには然るべき相応の演奏技術が要求されるのであるが、自己目的化した技術から音楽が生まれることはあり得ないのである。技術優先の姿勢からは音楽なき演奏、「魂の響き」なき演奏しか生まれないのである。

♦ 実は哲学研究についても同じようなことが言える。哲学研究者は哲学そのものにはまるで関心がないかのようである。つまり自分の研究にはどのような哲学的意味があるのかを大所高所から問うことをまったくせずに、専門領域というタコツボの中でテクニカルな(即ち専門的=技術的な)研究に勤しんでいるのである。しかし「哲学とは何か」という根本的な問いから逃避し続け、哲学というものに対する責任感を欠いている限り、哲学なき論文、「魂の響き」なき論文しか生み出すことができないことは言うまでもない。 

♦ 私は昨年、或る研究計画に関して次のような論評を書いた。――ヘーゲルの論理学における「概念は規範性をもつ」という主張を再構成するというようなことは、テクニカルな課題であって、哲学的な課題ではない。哲学的な課題とは、最近の研究動向、学会の動向(流行)に迎合するようなことは一切せず、また他人のふんどしで相撲を取るようなことは一切せずに、みずからの力と責任で、ヘーゲルの論理学の本質=根本的問題性をしっかり摑み取ることであり、そしてその上で、(例えば概念の規範性に関する)他の諸研究やアリストテレス主義の復権などに対して批判と評価を行なうことである。