デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その2

 別にどこかの総理大臣のことを念頭に置いているわけではないが、傲慢な人間というのは相手に応じて傲慢であったり逆に卑屈であったりする。傲慢は本当の自信を伴わない自尊心である故に、そういうことになるのである。本当の自信を伴う自尊心は決して卑屈に転じることはない。それは(卑屈に転じるのではなくて)それ自体が謙虚さでもあるのである。では、この真の自信を伴う自尊心、それ自体が謙虚さでもある自尊心とは、如何なるものなのであろうか。それを明らかにするために、デカルトの言う「高邁」なるものについて考察を試みることにしたい。
人はどのような理由で自尊心を抱くのであろうか。総理大臣だからであろうか、有名大学を出ているからであろうか、頭がいいからであろうか、特殊な技能を有するからであろうか、勲章を受章したからであろうか、資産家だからであろうか、容姿が美しいからであろうか・・・。デカルトは財産とか名誉とか知力とか知識とか美しさを例に挙げるのであるが、何とデカルトによればこうした価値は(それを所有する人に属すると言えば属するのであるが)本当にその人自身に属するのではないのである。ということは、名誉や知力といった価値は本当の自信を人に与えるものではないということであり、そうした価値は自尊心を抱く正当な理由ではないということである。
では、本当にその人自身に属するものとは何なのであろうか。本当の自信を人に与える価値とは何なのであろうか。自尊心を抱く正当な理由とは何なのであろうか。――それは或る<確乎不変の決意>なのである。(続く)