デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その4

♦ 悪事を働きながらいささかも罪悪感を抱かない人間、羞恥心というものがまるきりない人間が、社会の片隅ではなくて社会の中枢でのさばっている。これはかなり深刻な事態である。一体どのようにして、そのような人間が生まれるのを防ぐことができるのであろうか。最近話題になっている教育勅語や道徳の教科書によってそれを防ぐことは可能なのであろうか。否、恐らく無理であろう。では、罪悪感や羞恥心を欠いた人間にならないためには、一体どうすればよいのであろうか。

♦ まずは「善」の感覚に目覚めそれを育てることが必要であろう。しかしこのように言うと必ず、「善とは何ですか?」という質問を受ける。確かに善というものを何か抽象概念のようなものとして受け取るならば、善は漠然としたよく分からないものであることになる。しかし、である。「善とは何か」という質問は、或る意味で「美味しいとは何か」という質問と同じなのである。つまり、(既にこの段の冒頭で「善」の感覚という言い方をしたが)善とは食べ物の美味しさと同様に感覚的なものなのである(真も善も美も、心が求め、心が感じるものである)。もちろん倫理的な善は食べ物の美味しさとは違う。しかし我々は味覚を洗練させるのと同様にして、善を味わう感覚を磨くことができるのである。

♦ 罪悪感や羞恥心を欠いた人間にならないためには、まずは人間関係や読書などの経験を通して善を感じる感覚を育てなければならないのであるが、次に必要なのは意志を善く用いることを習得することである。意志というのは単なる願望ではない。それは行動に直結している。つまり、何かを意志しながらそれを実現する行動に出ない、ということはあり得ないのである。また、意志の善悪は行動を賞賛し非難する基準である(デカルトはこのことを強調した)。即ち、たとえ人助けなどの善行を行なっても、それが善い意志(意志の善い使用)によるのでなければ決して褒められないのである。(続く)