デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その6

♦ 最近、ニュースや報道番組でセクハラやパワハラのことが大きく取り上げられているが、確かにハラスメントについての理解を広めるための啓蒙や研修を行なうことが必要であろうし、また被害を減らすための何らかの法的対策を講じることも必要であろう。しかしそれだけでは根本的な解決にはならないような気がする。つまり、それだけでは懲罰や非難を恐れて善人を装う者つまり偽善者が世の中に更に増えることにしかならないのではないかという気がするのである。一方、道徳的なお説教が虚しいことも分かっている。では、どのようにして人を差別し人を見下す心性を根治することができるのであろうか。――この課題こそが私の関心事であり、またデカルトの高邁についてこうして連続して論じていることの理由の一つでもあるのである。

♦ さて、既に先の投稿(4/17)において見たように、『情念論』153節によれば、高邁な人とは、

  1. 意志を善く用いるか悪く用いるかということのみが、人が褒められたり咎められたりする理由でなければならないということを「認識し」、
  2. 自分の意志を善く用いようという〈確乎不変の決意〉を自分自身の内に「感じる」、

そのような人なのであるが、続く『情念論』154節では、このような「認識」と自己「感覚・感情」を持つ人(つまり高邁な人)は、自分だけではなくて誰でも皆この「認識」と自己「感覚・感情」を持つことが<できる>ことを容易に確信するということがまず言われる。

♦ どうして誰でも皆<できる>のか。それはデカルトが言うには、件の「認識」と自己「感覚・感情」を持つことにおいて、人は他人にまったく依存しないからである。それに対して、富や名誉を得ることは自分だけではできないのであり、それは他人に依存することである。従って富や名誉を得ることは誰にでも<できる>ことではない。

♦ 以上のことからデカルトは、件の「認識」と自己「感覚・感情」(=自尊感)を持つ人は、「決して誰をも軽蔑しない」と結論する。(続く)