音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(3)

今回は体(body)に関するピレシュ言葉を取り上げることにする。メルロ=ポンティは『眼と精神』の中で、「画家は自分の体を世界に貸し与えることによって世界を絵に変えるのである」というヴァレリーの言葉を引いているが、ではピアニストはどうなのであろうか。

なお、字幕の翻訳では話を正確に捉えることは無理なので、今回は元の言葉に即した訳を試みることにする。

♦ ピレシュいわく。――今日ではピアノは大ホールで大きく響くように作られています。つまりピアノという楽器は独りでに(by themselves)音を出すように作られているのです。近頃私はピアノを弾くのが以前よりずっと難しく感じるようになったのですが、それは年を取ってキャパシティが低下したせいだけではなくて、ピアノが奏者に依存しない楽器になってしまったことにその原因があります。かつては、誰もが自分で響きや色彩を創出するのでなければなりませんでした。歌いながら音を生み出し音を伝えるには、どのように自分の体を使ったら良いのかを学ぶ(learn how to use your body)のでなければならなかったのです。

♦ ピレシュはまた次のようにも語っている。――音は天からやって来るものではないし、頭脳からやって来るものでもありません。音は自分の体から(from your body)やって来るのです。従って、私たちの体はそれぞれ違っているので、私たちの音はそれぞれ違うのです。私たちは楽器で音を生み出すのではありません。そうではなくて、歌手と同じように自分の体で(with our body)音を生み出すのです。とはいえ、内部に楽器を持つ歌手とは異なり私たちは外部に楽器を持つので、楽器とコミュニケーションすることによって自分自身の音が楽器を通して存在するようにすることを学ぶのでなければならないのです。

♦ さて、以上のようにピレシュは、音は自分の体からやってくるのであり、ピアニストは歌手のように自分の体で音を生み出すのであると語っているわけであるが、これは自分の体が楽器になり、楽器が自分の体になるということである。とすれば、「ピアニストは自分の体を楽器に(そして世界に)貸し与えることによって、世界を音楽に変えるのである」と言うことができるであろう。(続く)

(追記)

顔の表情やバレエやダンスのことを考えると最も分かり易いのであるが、身体というのは表現体(何かを表現するもの)であり、しかも、それによって他のものが表現体となり得る基本的な表現体である。つまり、自分の体で何かを表現することのできない人は、音楽を演奏したり美術作品を制作したりすることができないと考えられるのである。