デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その9  ~伊集院静氏の言葉~

♦ 「孤独を学べ。孤独を知ることは、他人を知ることだ。」――私と同世代の伊集院静氏の本を或る偶然がきっかけではじめて開いたのであるが、この言葉は私の心に強く響いた。氏は次のように語っている。「大人になるために何からはじめるか。私はこう思う。自分は何のために生まれてきたか。自分はどんな人になりたいか。それを考えることだ。考えること、その答えを探すことには不可欠なものがひとつある。それは一人で考え、一人で歩き、一人で悩むことだ。孤独を学べ。孤独を知ることは、他人を知ることだ。」(『贈る言葉』)

♦ 私は青年デカルトのことを思う。デカルトは当時としては最高水準の学問が教えられていたエリート校に入学し、そこでありとあらゆる学問を学んだ。いずれ教師として学校に留まることを約束されてもおかしくないほど、デカルトは抜群に勉強ができた。しかし学業を終えるや、彼は学校の勉強というものを完全に棄てたのである。そして「世間という大きな書物」を読むために、旅に出る決心をした。青年デカルトは宮廷や軍隊を見たり、様々な身分、様々な気質の人と交わったりして、そのことから学校の勉強からは得られない真理を見出した。学者が書斎で行なう推論は所詮虚栄心を満たすためのものに過ぎないのである。

♦ しかしデカルトは「世間という書物の中で」研究しただけではない。同時に「私自身の中で」も研究したのである。これら二つのこと、つまり世間という書物の中で研究することと、自分自身の中で(即ち孤独の中で)研究することとは、実は密接に結びついている。前者なしには後者はなく、後者なしには前者はないのである。私はかつて、「デカルト/生の循環性」という論文(本ブログ2017/10/27に掲載)でそのことを詳細に論じた。

♦ 高邁な人とは孤高の人である。但し5月20日の投稿で示したように、最も高邁な者は最も謙虚な者である。高邁な人は自分だって他の人が犯した過ちを犯し得ること、また他の人も自分と同じように意志を善く用いることができることを、十分に心得ているのである。孤高の人こそ、自分を他人より優位に置いたりしない。つまり本当の意味で他人をよく理解しているのである。