デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その10 「考える葦」(上)

♦ 「考える葦」はパスカルの言葉として余りにも有名であるが、しかしその内実は必ずしも知られていないように思われる。そもそも、パスカルは単に「人間は考える葦である」と言っているのではない。「人間は〔自然の中で最も弱い〕葦に過ぎない。しかし考える葦である」と書いているのである。そして指摘しなければならないことは、(a)葦に過ぎないことと、(b)考える葦であることとは相反することであり、しかも(a)は(b)によって乗り越えられてしまうのではないということである。結論から言ってしまうと、(a)「〔自然の中で最も弱い〕葦に過ぎない」ことが、(b)「考える葦である」ことの条件なのである。つまり、弱いものであるからこそ考えることができるのである。では、この場合の弱さとは何なのであろうか。

パスカルが自然の中で最も弱いと形容する葦、この葦は田辺保氏によると、マタイ福音書12章(イザヤ書42章)における「彼は傷ついた葦を折らず」に由来する。このことをも踏まえて、私は問題の弱さfaiblesseを、傷つきやすさvulnérablitéという意味での弱さと解したいと思う。どうしてかと言うと、傷つきやすさは或る種の感受性を含意するからである。いくら人間は弱いものであると言っても、その弱さを人間自身が感受し認めなければ意味がないのである。

♦ ところで、現代の深刻なしかも根本的な問題は、傷つきやすさという感受性を失っている人たちが昔よりも顕著に見られることである。これは政治家だけの問題ではない。「子どもの悪態にさえ傷ついてしまう 頼りない生牡蠣のような感受性」(茨木のり子)を持たない人間の醜悪さ(横柄・厚顔無恥・狡猾・権力欲・暴力・・・)は至る所に見られる。

「初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人とも思わなくなったとき 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました」(「汲む―Y・Yに―」)

♦ しかし、人間は傷つきやすいということに留まるものではない。(続く)