芸術の存在意義

 昨日は品川聖さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ)と土居瑞穂さん(チェンバロ)の演奏会に赴き、バッハを堪能してきた。土居さんのチェンバロ独奏で奏でられたBWV964は、私にとって馴染みの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の編曲なので、聴いていて楽しかった。一方、品川さんはJ.S.バッハのガンバとチェンバロのためのソナタを2006年から毎年色々なチェンバロ奏者と共演されているとのことであるが、その演奏は使命感と志を感じさせるものであった。
 さて、話は変わるが、例えばバッハを演奏したり聴いたりする時、我々は実は自分と闘っているのだ。自分を何とかしなければ音楽に接近することはできない。少しでも邪な気持ちがあれば、バッハを聴いたり弾いたりする資格はない。美や善を求める純粋な心が音楽活動の条件である。逆に言うと、我々は音楽によって自分を試されるのである。
 音楽に限らず、一般に芸術は自分との闘いである。その点で、芸術は政治と基本的に異なる。政治というのはあくまでも敵との闘いである。一時期自己批判という言葉が或る方面でさかんに用いられたが、たとえ政治家が反省と自己批判とかといった言葉を口にするとしても、政治家は自分と闘っているわけではない。そのような言葉自体、敵に対する闘いの一環なのである。
 ところで、ウィトゲンシュタインは、「仮に科学上のありとあらゆる問題がすべて解決したとしても、生の問題〔人生の価値というような問題〕はそっくりそのまま残るであろう」と書いている。生の問題、即ち心の問題は科学の管轄外にあるのだ。科学は心について説明することはできるが、「生をよく導く」(デカルト)ことは科学の役割ではない。生をよく導くことは芸術や哲学の役割である。科学は我々の生活の利便性を高めるという点で極めて重要なものである。しかし科学がどれだけ進歩しても、そのことは「よく生きる」(プラトン)ということに、少なくとも直接的には関係しないのである。
 プロであろうとアマチュアであろうと、芸術の存在意義について一度じっくり考えなければならないであろう。