根本的両義性(2)――聖なる遊び

 

真面目に仕事したり勉強したりしている人たちの生活においては、遊びというのは休養のためのものでありレクリエーションのためのものであるが、このことが示すように、「真面目」と「遊び」は対立し合い排除し合うものである。ところがホイジンガはこれとはまったく異なる見方をする。彼は真面目と遊びを一致させるのである。

ホイジンガーは祭祀に注目する。祭儀というのは厳粛に執り行われるものであり、この上なく真面目なものである。だが、それは遊びなのだ。そのように彼は言う。しかし神聖な儀式を遊びとすることは冒瀆なのではないか。否、ホイジンガによれば、遊びというものの最も重要な特徴は日常生活から空間的に分離されているということである。従って、人々を別の世界に連れ去って行く神聖な行事は、最も真面目なものでありながら最も美しい遊びであると言えるのである。

本来、遊びというのは真面目と一つのものであり、真面目というのは遊びと一つのものであるのではないか。しかし今日の近代的社会・経済システムの中では、そのような真面目と遊びは消滅しつつあるように思われる。言い換えると、遊びおよび真面目さの聖性(=超越性)が失われつつあるように思われるのであるが、このことは真の謙虚さの喪失、「知」の増長を意味する。私は今、録画したアリス=紗良・オットのピアノ演奏を聴いているのであるが、取り分け哲学研究は空疎さを脱却するために、「音楽する」ことから高度の遊び、即ち高度の真面目さを学ぶべきであろうとつくづく思った。

さて、私は先の投稿で、根本的両義性を示すものとして次のパスカルの言葉を引いた。

「人間とは、あらゆるものの審判者にして愚かなミミズ、真理の受託者にして不確実と誤謬の溜り場、宇宙の栄光にして宇宙の屑。誰がこの〈縺れ〉を解くことができようか?」

この縺れ(両義性)は決して解くことのできない根本的なものである。ところが、人はそのことを洞察することができずに、矛盾する二つを切り離してしまう。つまり自分はあくまでも「愚かなミミズ」であるという自覚なしに「あらゆるものの審判者」であることができると思ってしまう。こうして「知」の傲慢が生まれ、真理は聖性(=超越性)を失うのである。