根本的両義性(3)――受肉(上)

昨夜はソプラノの高橋美千子さん主催のコンサート「魂の響き 旋律の鼓動」を聴きにオペラシティに。

高橋さん、佐藤亜紀子さん(リュート・テオルボ・バロックギター)、立岩潤三さん(パーカッション)という三人の互いに異質な才能とスタイルを交錯させる冒険的な試みを楽しみながら、魂の響きを感覚的に味わったわけであるが、演奏会が終わった今、今度は魂の響きとは何かについて自分なりの観点から論じてみることにしたい。

「魂は時空を超えて彼方に響いていき ・・・」とポスターにある。何と魂は響くのである。人の声や楽器の音のように響くのである。しかし魂の響きとはどのような響きなのであろうか。それは人の声や楽器の音の響きと同じものであるとは思えない。人の声や楽器の音の響きは物理的な振動から成るが、魂の響きはそうではない。それはいわば〈肉〉耳には聞えないものであろう。とすれば、魂の響きとは魂の振動、即ち(愛などの)情動émotionという動きmotionのことであると言ってよいであろう。

物理的振動である人の声や楽器の音の響きは、どれほど大きな響きであっても、それが伝わる範囲は限られている。しかし情動としての魂の響きは国境を越え時代を越えて、果てしなく伝播してゆくのである。こうした情動の伝播の仕方は情報の伝達の仕方とはまったく異なる。「音楽が泣いている時、音楽と一緒に人類全体が、そして自然全体が泣いているのである」とベルクソンは語っているのであるが、この場合、音楽は我々の中に感情を移し入れるのではない。そうではなくて感情の中に我々を引き込むのである。街角で人々が踊っていると通りすがりの人は否応なくダンスの中に引き込まれるが、それと同じである。

さて、考えるべきことは、物理的振動としての「音の響き」と、情動としての「魂の響き」はどのような関係にあるのかということである。演奏者は何も感じないで演奏をはじめることはできない。演奏者は楽譜に潜む「魂の響き」(即ち或る情動)を自分の魂の耳で聴き取り、それを〈肉〉耳に聞える具体的な「音の響き」にするのである。それが表現ということであり、演奏=解釈ということであるが、このように演奏者はあくまでも魂の響きに先導されて演奏するのである。しかし魂の響きは音の響きに対して一方的に先行するわけではない。魂の響きは〈肉〉耳に聞える音の響きとなって――即ち「受肉」して――はじめて存在しはじめると言うことも他方でできるのである。つまり演奏とは或る種の創造的行為なのであり、そうであるからこそ演奏することは深い歓びであり得るのである。

このように、魂の響きは音の響きに先行し、また逆に後者は前者に先行する。二つは互いに前提し合い、従ってまた互いに侵入し合う。音楽とは魂の響きと音の響きの、即ち時間を越えたものと時間的なもの(儚いもの)の、相互前提であり相互侵入である。音楽は根本的両義性である。