根本的両義性(4)――受肉(中)


♦ 前の投稿では、魂の響きが〈肉〉耳に聞える音の響きとなることについて受肉という言葉を用いたが、受肉とは本来、「ロゴスが肉となった」(ヨハネ福音書)ことであり、即ち神のひとり子(イエス・キリスト)が人間となってこの世に現われたことである。このイエス・キリスト受肉ヒエロファニー(聖体示現)の最高のものであると言われるが、それは単なるヒエロファニーではなくて、イエス・キリストの数々の行ないと数々の言葉、そして十字架の死にいたる受難 Passion をも含むのである。
♦ ところで、着目したいのは、こうした受肉がへりくだりを意味することである。「フィリピの人々への手紙」にはこうある。
  キリストは神の身でありながら、
  神としてのあり方に固執しようとはせず、
  かえって自分をむなしくして、
  僕(しもべ)の身となり、
  人間と同じようになられました。
  その姿はまさしく人間であり、
  死に至るまで、十字架の死に至るまで、
  へりくだって従う者となられました。
  (he was humbler yet, even to accepting death, 
   death on a cross.)
♦ へりくだることは容易ではないように思われる。へりくだりは多くの場合、偽善であるか、あるいは自分は謙虚である(=偉い)という思い上がりであるか、どちらかなのではないであろうか。実は真の謙虚さには神々しさがある。つまり神こそが真にへりくだることができるのであり、神こそが真に自分をむなしくすることができるのである。十字架の死は無力と悲惨の極点であるが、それ故にそれはキリストが神であることの証しなのだ。イエス・キリスト人間性(人間であること)はその神性(神であること)を証しする。というのも、イエス人間性はその神性を前提するからである。
♦ ところで、人間も悔悛によって一瞬であれ真にへりくだることができるのではないか。有名な逸話を例に挙げよう。イエスは姦通の罪を犯した女が石打の刑(これは死刑である)に処せられるところを救ったのであるが、その時こう語ったのである。「あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」と。そうすると年長者から順番に一人また一人と立ち去っていったのであるが、もし石を投げようとした人々のめいめいにわずかなりとも改悛の情が湧かなかったならば女は助からなかったであろう。しかし改悛というものも或る種の恩寵なのではないであろうか。(続く)