根本的両義性(5)――受肉(下)

 自分にとって不都合な発言を行なう者に対して、耳を傾けるどころか横柄な態度で発言を遮る人間の醜さは、例えば最近の首相官邸での官房長官会見において見られるが、しかしこの世にはそうした驕りたかぶる人間の醜さとまさに対極をなす美しさがある。十字架の美しさがそれである。その美しさは純粋な善の美しさである。先の投稿で、「受肉」はへりくだりを意味するということ、神こそは真に自分をむなしくすることができるということを述べたが、真に自分を無にすることのできる者のみが純粋な善の美しさを帯びることができるのである。
 なお、ここで言う純粋な善は決して観想(テオリア)の対象ではない。それは実践的なものである。我々はイエスのように自分を無にすることはできないが、しかし純粋な善は我々の生活(諸々の活動)の原動力であり得るのである。
 さて、殉教は自己犠牲であり美しい行為であるが、しかしその殉教でさえ十字架には遠く及ばない。無限に及ばない。シモーヌ・ヴェイユが言うには、殉教者は自分の召命の偉大さに酔っているのである。原始キリスト教の殉教者は、猛獣の放たれた闘技場に讃美歌を口ずさみながら入場した。彼らは嬉々として死を受容した。しかし彼らがそうすることができたのは、天の国で神の子キリストの右に座すという栄光を約束されていると信じていたからである。とすれば、殉教は善であるとしても純粋な善ではない。自分というものがむなしくなっていないからである。
 一方、打って変わって、イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだ。イエスは断末魔の苦しみを苦しみつつ、神からも人からも見捨てられた孤独を経験したのである。こうしたまったき絶望の中で行なわれる自己犠牲こそが真に自分を無にすることなのであり、それこそが純粋な善なのである。
イエス・キリストの両義性については別の機会に考察することにする。