根本的両義性(8)――マリアの純潔(中)

 パリのノートルダム大聖堂の火災のニュースに接して、私は最初、フランスそのものが崩壊していくような錯覚を起こした。パリのノートルダムは私にとってまさにフランスの象徴であったということである。とはいえ、私は宗教というものを重んじているわけではない。私が何よりも重要と考えるのは、○○教とか△△教とかといった宗教ではなくて信仰心である。いわゆる“宗教”や“道徳”は生の表層を形づくるだけであるが、信仰心は生の最深部に発するのである。
 ところで、フランスを代表する哲学者ルネ・デカルトは独自の仕方で神の存在を証明した。そのことはよく知られているが、しかし彼は一方で、神は理解不可能なものであること、即ち神は合理性を無限に越えた不合理なものであることを強調したのであり、我々はこのことを見落としてはならない。実は、デカルトにあっては、この不合理な神への不合理な信仰こそが、神の存在の合理的な証明を可能にし、そしてそれを支えているのである。
 デカルトの哲学は建て前上は神への信仰から独立しているとしても、あるいは表面上は信仰に依拠していないように見えるとしても、この哲学は実は善美なる神への生ける信仰によって実質的に根拠づけられている。それは黙せる篤き信仰心によってこそ実現され得ているのである。従ってデカルトの秘められた信仰心を感取せずにそれを等閑視するならば、彼の哲学を本当の意味で理解することはできない。即ち論語読みの論語知らずの如き、デカルト読みのデカルト知らずになってしまうのである。――こうしたことを、私はかつて幾つかの角度から示した。
 さて、前の投稿で取り上げたマリアの純潔(処女懐胎)ももちろん合理的ではない。それは不合理なのであるが、信仰は意志によって不合理を突破するのである。即ち意志によって疑わしさを突破するのである。ということは、疑いは信じることに本質的なものであるということである。疑わしさが消えた時に我々は神を信じるのではない。疑うことができるからこそ神は神なのであり、疑うことができるからこそ我々は神を信じるのである。神への信仰は両義的であり、この両義性は決して解消されない根本的なものである。