フランクル『夜と霧』――「人生の意味」という問題

♦ 生きる意味があるということは、生きることに何か目的があることである。まずはそう考えることができる。例えばオリンピックでメダルという名誉を獲得することを目的に毎日練習に励んでいる選手は、練習の辛さや本番に関する不安が常にあるとしても、大きな目的がある限り、意味のある充実した人生を送っていると想像することができる。

♦ 対照的なのはナチス強制収容所に入れられた者である。被収容者は迫り来る死に怯えるだけで、将来に明確な目的を設定することなどできないのである。ただフランクルは、或る日現場監督が彼自身の朝食から取りおいておいた小さなパンを自分にそっとくれて、涙が止まらなかったという話をしている。この種のことがあるお陰で被収容者たちは何とか絶望し切ることを免れたのであろう。風前の灯火のようなものであるとしても、彼らはぎりぎり最低限の生きる意味を感じることができていたのかもしれない。一方、カポーと言われる、仲間のユダヤ人を裏切ってさえ自分だけ生き延びようとする者もいたが、その者にとっても収容所を抜け出すという目的を必ず実現することができるという保証はない。目的の実現はほとんど運次第である。

♦ ところで、その意味が偶然によって左右される人生――即ち運よく成功すれば意味を持つが、そうでなければ意味を持たない人生――は、そもそも生きるに値しない人生ではないであろうか。そう考えるフランクルは、「生きる意味という素朴な問題」からきっぱりと離れる。彼は生きる意味よりもむしろ死ぬ意味や苦しむ意味を問題にするのであり、また次のような転換を行なうのである。即ち彼は、

  (a)自分が人生から何を期待するのかを問題にするのではなくて、(b)逆に人生が自分から何を期待するのかを問題にするのであり、

言い換えると、

  (c)人生の意味について尋ねることを止めて、(d)その代わりに自分自身を人生によって尋問される者と看做すのである。

♦ (b)(d)は人生(Leben生)が主語になっているが、それぞれ、何か「自分を越えた」ところからの自分への期待であり尋問である。我々は例えば、自分に運命的に与えられた苦しみを自分の苦しみとして苦しみそれに耐えることを己れの責務としなければならないのであり、そうすることで己れの真価を発揮するのでなければならないのだ。――対して、人生から何かを期待することや、人生の意味について尋ねることには、成功という「自己中心的」な欲求が透けて見える。

♦ (a)→(b)、(c)→(d)という転換は我々にとっても必要である。この転換がなければ、我々の生が美しくなる可能性はないであろう。但し、強制収容所という過酷な状況に置かれているのでないのであれば、成功という価値を頭ごなしに否定することは戒めなければならない。必要なことは、件の転換を行なった上でみずからの生を改めて見つめ直すことである。そうすることで、「生きる意味」という問題は以前とは別のかたちで甦るであろう。