根本的両義性(11)――bodyとnobody 池田晶子をめぐって


禅宗に「父母未生(ぶもみしょう)以前」という言葉がある。私は小学校の何年生頃からだったか、時々不意に、「自分はどこから来たのか」という茫漠とした問いに襲われたのであるが、この問いにおける「自分」とは父母未生以前の自分(自分の父母が生まれる以前の自分)のことである。もちろん、さすがに子供の頃ははっきりとそのように認識できたわけではないが。
ところで、池田晶子は次のような話をしている。――我々は普通自分というものを名前とか肉体と同一視している。つまり自分とは誰それ(例えば池田晶子)であるとか、この肉体であるとか「と思っている」。しかし、では、「そう思っている自分」とは何なのか。それは誰なのか。自分は池田晶子である「と思っている自分」、それは池田晶子ではない。自分は誰それである「と思っている自分」、それは誰それではない。それは誰でもない。私というのはnobody(誰でもないもの)なのである。私は誰かなどということは絶対に分からない。しかし分からないそれが私であり自分なのである。
池田は父母未生以前の自分を問題にしているのであり、それがnobodyであることを強調しているのである。そのように言えるが、池田は続いてこう語る。――その分からない誰でもない自分が、しかしここで某(なにがし)をやっているのは、何故なのか。誰でもない自分が、某としてこの肉体をやっているこのおかしさ、これは何なのか。(『人生のほんとう』)
誰でもないnobodyである自分が例えば池田晶子としてその肉体をやっていること、これは偶然であり、また必然なのであるが、こうしたことに気づくと、名前や肉体と同一視される自分(通常の意味での自分)を相対化して見ることができるようになる。そうなると、生身が被る苦しみを消すことはできないとしても、苦しみの感情を味わう余裕さえ生まれるのである。nobodyという原点から人生を相対化して、「たかが人生ではないかと覚悟を決める」ことは、難しいことではあるが極めて大事なことである。それは人生を放棄することとは違う。それは世俗的な欲望の虜にならないための条件であり、真に幸福な生へとみずからを導くための条件なのである。
しかし池田自身指摘しているように、人生を生きるということは某の人生を生きることであって、誰でもない者として人生を生きることはできない。生きることはbodyとして生きることである。(因みにbodyは「人」と訳すこともできる言葉である。)私はnobodyであると言うことができるのは、あくまでも哲学的・宗教的に「観ずる」限りにおいてであって、実際に「行ずる」最中においては、我々は具体的な人間関係に巻き込まれる故に、自分だけではなくて人は皆bodyであることになるのである。nobodyによってbodyを相対化することは不可能である。
我々はbodyとnobodyとの間を往還するのでなければならないのだ。即ち行ずることと観ずることとの間を往復するのでなければならないのだ。池田は書物の執筆においては専ら観照(テオリア)に耽っているが、しかし池田が一般の哲学研究者と全然違うのは、つまりその言葉が信用できるのは、人間関係のトラブルや病気などの自身の経験を文字通り糧にして思索しているからである。デカルトは書斎の中で思弁(単なる理論)に勤しむ学者をひどく軽蔑したが、もちろん池田晶子もそうなのである。