大竹まこと著『俺たちはどう生きるか』――強者にはならないという生き方

本書は著者が古希を迎えて上梓した小さな自伝とも言えるものであるが、ひとことで言うと、著者の「優しさ」の秘密をそこから読み解くことができる本である。

♦♦ 大竹氏は二〇歳から二年半、風間杜夫氏と一緒に住んでいたのであるが、ある日二人は麻雀で負けてスッテンテンにされ、朝の八時頃アパートがある祐天寺の駅を降りたところ、駅に向かう通勤客たちと出会い、それら仕事に行く人たちとは反対方向にボロアパートへ帰って行くことになった。そして二人は次のように言葉を交わす。

「毎日がこんなんだなあ。俺たち、どうするんだろ」・・・ ・・・ 

「いいんだヨ、これで、大竹」

いいんだヨ、これで。――このような生き方の選択ができたのは、時代のせいもあるかもしれないが、決してそれだけではないであろう。

氏は進学校の高校に通ったが、大学には行かなかった。行かなかったのか、それとも行けなかったのか。いずれにしても、少なくとも心の奥底では大学に行かないことが選択されていたのではないか。そもそも高校時代に勉強していなかったのであり、しかもわざわざ難しい一校しか受験しなかった。おまけに予備校の授業料も使い込んでしまった。ライフプランに従って抜け目なく世の中に適応するという生き方はしないし、できないのである。しかし賢しらな生き方をしないこのような人間こそが、生きることと死ぬことに対して豊かな感受性を有することができるのであり、そして己としっかり向き合うことができるのである。

著者は57歳を過ぎてから始めたラジオの帯番組(月~金)を十二年以上も続けてきた。しかし今になってもなお己の所在がつかめないと言う。とすると、「街のチンピラ」として職を転々とするだけで、何をしたくて生まれてきたのか分からなかった二十代くらいまでの時と基本的に変わっていないのである。私はラジオ以外のところでの大竹氏の活躍は知らないが、氏は著名な芸人として押しも押されもせぬ存在であるはずである。しかしそれにも拘わらず、高校を出てすぐに社会に飛び込んでしまった自分には若者に送る言葉はないと言い切る。これは決して謙遜や気取りではない。立派な言葉を語って聞かせるような“ひとかど”の人物にはならないという、(密かに)選択された生き方がそう言わせるのである。

ところで、人生というものが面白いのは、それがいわば弁証法的であることである。「あの時、負けて良かった」(第二章)という件りや、「弱者は弱者のまま終わらない」(第四章)という件りは実に印象的である。但し弱者は弱者のまま終わらないということは、弱者は弱者であることをやめて強者になるということではない。大竹氏は強者なのではなくて、弱者のまま終わらない弱者なのであり、あくまでも弱者なのである。但し単なる弱者ではない。弱者のまま終わらない弱者である。このような人間こそが弱者の気持ちが分かるのであり、真の「優しさ」を身につけているのである。