解釈と理解

 

♦ 昨日は『亀井由紀子特別公開レッスン』を聴講するために目白のソルフェージスクールまで出かけた。亀井氏はかつてヤッシャ・ハイフェッツの助手を務めたヴァイオリニストであるが、決して偉そうに威張らない方である。楽器を構える姿勢は凜としていて、どこかハイフェッツを彷彿とさせるが、指導の仕方はハイフェッツのように(?)怖くはない。むしろ優しすぎる。また説明する際に歌うその歌声もなかなか美しい。

この日の私のお目当てはプログラムの二番目、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第三番の中のフーガだった。フーガのような対位法音楽をヴァイオリン一丁で演奏することは非常に難しいのである。私は学生の時からアウアー版やイザイ版といった古い版の楽譜(下の写真)を使ってきたが、最近は演奏法の研究の進歩により、バッハの無伴奏は以前よりもずっと近づき易いものになった。とはいえ、技術的困難が軽減されればスムーズに演奏できるようになるというわけではないのである。

昨日の公開レッスンで私が得た収穫は、何よりも重要なのは楽曲の「理解」であることを改めて会得したことである。亀井氏が秀でているのは、まさに理解――これには実は人間の品性が深く関わっている――ということにおいてなのであり、本当の意味でスムーズに弾けるためには、楽曲の全体および細部(全体と細部はもちろん連関している)の理解が何よりも大事なのである。

ところで、音楽の演奏に関してはしばしば「解釈」という言い方が用いられるが、解釈という言葉を使うとどうしても、解釈は自由であるとか、解釈は色々あり得るとかといった話になってくる。しかしそうなると我々は演奏の恣意性を排除することができなくなるのであり、つまり相対主義に陥ることを余儀なくされるのである。私が改めて思ったのは、理解ということが解釈ということの根底に置かれなければならないということである。独創的な解釈とは独創的な理解によって裏打ちされた解釈なのである。

音楽の場合に限らず、理解というのは単に学問や知識の問題ではない。理解の正しさと深さは、実は各人の生き方そのものに根ざすものなのである。