バッハと踊り、そしてメルロ=ポンティのこと

 

♦ 昨日の昼下がりは、「古楽の調べ」という催しに参加するために西国分寺に赴いた。チラシに、「バッハのメヌエットは、どのような踊りだったのでしょう?」とあったからである。取り上げられたのは、バッハのメヌエットそのものというより、バッハにおける舞曲の背景というかルーツ(クープラン、ダングルベール、等々)だったのであるが、Pas de menuet の実演をじかに観ることができたことなど色々収穫があった。

♦ ところで、当代随一のバッハ解釈者とも称されるアンジェラ・ヒューイットが、いつかテレビのインタビューの中で次のように語っていた。――舞曲であるメヌエットやガヴォットやプーレにおいてはもちろんのこと、インヴェンションやプレリュードやフーガにおいても、バッハは踊りのリズムを使っているのであるが、バッハの音楽がこれほど我々の胸に訴えるものであるのは、それが歓喜 great joy を踊りのリズムで表現しているからなのである、と。彼女は<踊り>と<バッハの内なる歓喜>とのコンビネーションを強調しているのである。

♦ 私が思うに、踊りという身体的動作は歓喜を表現するための単なる手段なのではない。むしろ歓喜は踊りという身体的動作と共に身体自身から湧き出るのである。身体の表現性は実に独特である。身体は予め身体とは別のところにある何かを表現するというより、身体はみずからそれが表現するもの(例えば歓喜)に成るという仕方で表現するのであり、つまり身体はいわば自己創造的に何かを表現するのである。そして、身体がそのようなものであるからこそ、踊りや音楽のみならずあらゆる表現活動が可能になるのである。

♦ ところで、フランス哲学は伝統的に身体を問題にしてきた(この点がフランス哲学とドイツ哲学との顕著な違いの一つである)のであるが、「身体」――表現としての身体――を哲学の原理に据えた哲学者はメルロ=ポンティをおいて他にいない。メルロ=ポンティに関しては取り分けフッサールサルトルからの影響が研究者によって取り沙汰されてきた。実際、メルロ=ポンティフッサールサルトルを、批判を交えつつも大いに援用しているのである。しかしフッサールの哲学とサルトルの哲学は、身体についてどれほど豊富に論じていようと、あくまでも「意識」を原理とする哲学である。つまりそれらは「身体」を原理とするメルロ=ポンティの哲学とは根本的に異なるのである。

♦ ついでに言うと、フッサールサルトルデカルトのコギト[=われ思う]を継承していることは、両者自身が率先して述べているところであるが、但しデカルトのコギトはフッサールサルトルが言う意味での「意識」とは異なる。デカルトのコギトは一方で「神の存在」という真実(信)を、そして他方で「心身の実体的合一」という真実(信)を、暗黙裏に前提しそれらと深く繋がっているのである。