美と超越――花の美しさ

♦ 人間は誰でも必ず過ちを犯す。しかし過ちを犯してその醜さが露呈してしまう人もいれば、たとえ過ちを犯しても決して醜くない人もいる。いや、美しい人さえいる。しかし今の世の中に、できる限り美しく生きることを無意識的にであれ心がけている人は一体どのくらいいるのであろうか・・・。せめて美しい国を創ると宣言している人には、美しい生の模範を身をもって示してもらいたいのであるが、しかし中身のある理念がまったくなく、ただ人を支配したい威張りたいというだけの人間は、美しいどころか非常に醜い。しかしこれからはますます美しい生への志が見失われた時代になってゆくのではないであろうか。そういう懸念を私はどうしても拭い去ることができない。――こうした深刻な思いが、私が美について考える深い動機である。

♦ 25歳で夭逝した詩人ジョン・キーツは親友の詩人に宛てた手紙の中で、「詩は崇高でかつ慎み深く great and unobtrusive なければならない」と述べたあと、続いて花の美しさについて次のように語っている。

   奥まったところに咲く花the retired flowersは何と美しいことか!

   もし花が人通りの多い道に押し掛けて、

   『私を褒めてください、私は菫です! 私を可愛がってください、

   私は桜草です!』と叫んだならば、

   花はどれだけその美しさを失ってしまうことだろう!」

♦ 人はこの件りを、奥ゆかしさを重んじる古典的な(陳腐な)価値観の焼き直しと見るかもしれない。しかしそれは表面的な見方であろう。花は慎みを忘れるとその美しさを失うこと、奥ゆかしさは花の美しさを構成すること、このことは美の超越性を象徴的に表すものであると私は見る。(芸術美に関しても別のアプローチでその超越性を指摘することができるであろう。)このように見ることによって、私はキーツの言う「消極的能力」(後述)という問題にやがて巡り会うことになるのである。

♦ では、美の超越性とは何か。それは美は我々の理解 comprehension を越えているということである。つまり美の分からなさということである。例えば政治理念であれば、それを言葉で規定し尽くすことは不可能ではないと思われる。しかし山道で遭遇する可憐な花々の美しさ、夜道で仰ぎ見る朧月の美しさは、まさに得も言われぬものである。美しさというのは誰しもが何となく分かっているつもりになっているものであるが、しかしいざそれについて考え始めると人は言葉に窮してしまい、美的感覚とか美的感情とかに訴えるしかなくなってしまう。美の超越性とはこうした、美は理解を越えたものであり分からないものであるということである。

♦ しかし実は、この「分からない」ということが大事なことなのである。つまり「分からないということが分かる」ということが大事なことなのである。美(例えば花の美しさ)は、分からないということが分かるという形で分かるものであり、しかもそれ以外の、またそれ以上の、分かり方は存在しないものである。美の超越性とは、改めて言い直すと、こうした<分かりかつ分からない>という両義性である。

♦ ところで、「分からないということが分かる」ということは、意外にもそう易々とできることではない。分からないことを分からないまま受け容れることは案外と難しい。しかし分からないことをそのまま受け容れる能力、即ち「消極的能力」 negative capability――これはキーツが最初に用いた言葉である――を身につけることは、美を深く味わう秘訣であるとともに、美しく生きる秘訣でもあると思われるのである。