「肉は悲し」①

 

♦悲しみを知る者は決して戦争を起こさない。戦争を起こすのは悲しみを知らない者である。悲しむことができない者は謙虚であることができない者であり、人を尊重することができない者であるからである。ところで、悲しみは必ずしも喜びの反対物ではない。悲しみは必ずしも陰気な感傷ではない。愛の絆である悲しみも存在するのである。

♦元旦の日に柳宗悦の「妹の死」を読んだ。これは日本政府による三一独立運動弾圧を念頭に置いた「朝鮮の友に贈る書」(1920)が書かれた翌年に発表されたものである。柳の妹は6人目の子供を出産後まもなくして30歳を過ぎたばかりで亡くなったのであるが、女中たちなども含めた家族の一人ひとりに優しい別れの言葉を遺しながら死にゆく場面、そしてそこに流れる厳かな時間は、実に印象的である。しかし死に際が美しかったのは、故人が美しく生きた人だったからに他ならない。

「妹は正しき事を愛した人間であった。疚しい事や、歪んだ事や、心暗い行いを非常に嫌った。彼女は汚れていない光の多い真直な道をと選んで歩いた。」

このことに誤りがないと柳は言う。

♦しかしこのような妹を失った彼の悲しみはどのようなものだったのか。

「おお悲しみよ、汝がなかったなら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。・・・ 悲しみこそは愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾れに燃やすものが何処にあろう。悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒やしてくれる。」

♦特に注目すべきは、「死の悲哀」よりも強く「生命への愛」を燃やすものはないという逆説である。この逆説は、人間は自分が悲惨であることを知ることにおいて偉大であるというパスカル弁証法を彷彿させる。