誠実と個性(承前)

 

♦ 検察官定年延長法案がもしかしてこのまま国会を通過してしまうかもしれない情勢なのであるが、私にとって何よりも耐えがたいのは、法案自体のことは別にして、権力者が然るべき理由なしに姑息なやり方で己れの権力の保持と拡大を図ることであり、また大方の与党議員や閣僚・官僚が忖度=損得勘定によってだんまりを決め込んでいることである。彼らは国を少しでもより良いものにしようという気持ちなど実は持ち合わせていないのではないか。国民のことなど本気で考えていないのではないか。口で何と言おうと私的利益という殻の中に閉じ籠ってしまっているのではないか。

♦ ところで、社会学者の宮台真司氏は或るところでほぼ次のように語っている。――昨今の日本人には損得に閉じ込められ、損得を越えられない「クズ」が多い。このことはグローバル化の潮流のさなかで個人を支えるべき共同体が日本では空洞化してしまっていることに原因があるのであるが、ともあれ、人々の政治への関心にしても多くの場合浅ましい損得勘定にのみ基づく故に、それはもっぱら失業率とか株価とかに向けられ、政治家や役人が嘘をつきまくることには向けられないのである。必要なのは正しい仲間づくり(これは共同体の復活ではない)である。仲間に恥ずかしい姿を見せたくない、仲間の恩義に報いたい、といった感情が、「個」を自立させるのである。――「損得で動く大人に育てるな!」

♦ 仲間がいれば、羞恥心を持つことができる。恩に報いるために身を犠牲にして戦うこともできる。つまり、私なりに言い換えると、損得を越えた超越的な価値に向かって自分を越えることができるのである。そして、先の投稿で述べたように、このような自己超越の運動が〈誠実〉ということの実現であり、この運動を通して形成されるのが各人のかけがえのない〈個性〉なのである。宮台氏は「個」の自立という言い方をしているが、ともあれ、人は基本的に誠実な生き方をすることによってしか本当の意味での個性personality / individuality たり得ないというのが私の主張である。保身や忖度に埋没し切った嘘つきには個性と言えるものは存在しないのである。

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♦ 念のため付言すると、私の言う「誠実」はサルトルの言う「くそまじめの精神」、つまり社会の秩序に無責任に「適応」する精神ではまったくないが、また単純なアウトローを指すのでもない。それは社会に対する微妙な距離を意味する。因みに、宮台氏は驚くべきことに、中学に入学した時点で既に、「実存が分からなければ社会は分からない」という感覚を有していたということである。映画を観る際も、ストーリーはそっちのけで、男の実存・女の実存、差別される者の実存・差別する者の実存・・・に反応したのであり、映画が描く権力や制度ではなくて、もっぱら劇中人物の体験に注目したのである。――「『正義から享楽へ』刊行記念インタビュー」

「科学者がいくら綿密に自然を研究しても、自然は元の自然のままであり、自分も元の自分のままである」(夏目漱石「中味と形式」)。しかし社会とかあるいは心理というものは、自然科学者にとっての自然と同様の純然たる客体なのではない。つまり人間社会や人間心理については、自然科学がそうであるような厳密な意味での客観的学問は原理的に成り立たないのである。「実存を通じて社会を見る」という方法に、私は学問的誠実さを感じる。