「ゲルニカ」と未完という問題

♦ 先日の日曜美術館「アートシェア 今こそ見て欲しいこの一作」を録画で観た。番組では10名ほどの美術関係者がそれぞれとっておきの一作をシェアしたのであるが、その中で横尾忠則氏はピカソの「ゲルニカ」(1937)を挙げた。この有名な作品については改めて説明するまでもないが、これはスペイン・バスク地方の古都ゲルニカが1937年4月26日にナチス・ドイツの空軍によって爆撃された(これは世界史上初の都市無差別空爆と言われる)ことを、当時パリいたピカソが知り、「スペインを苦悩と死に沈めた軍隊に対する憎悪を表現」するものとして描いたものである。死んだ子供を抱えて悲嘆に暮れる女性(左端)、血相を変えて逃げ惑う罪なき牛や馬、・・・は、写実的描写ではない故に却って、途方もない悲惨さを圧倒的な迫力で語りかけてくる。

ゲルニカの悲劇は我々日本人にとって異国のことであるが、我が国とまったく無関係の出来事ではない。しかしそれはともあれ、問題は権力者の卑劣で横暴な所業をピカソのように心の芯から告発する能力を我々は有しているのかどうかということである。否、それ以前に、そもそも我々は心の芯を持ち合わせているのかどうか、「言葉の自動機械」(宮台真司氏の用語)になってしまっていないかどうか、それが問題なのである。

「ふと思う なんだ、みんな同じことをいっていやがる」(太宰治「もの思う葦」)

♦ さて、横尾氏は番組の中で、この「ゲルニカ」という作品は今の世界的コロナ禍の時代と深く結びついていると思うと語ったのであるが、これが決してこじつけでないことは続く話から分かる。――この絵には横尾氏の心をとらえて離さない部分があるという。それは書き直しをそのままにしてしまったかのような牛の顔(絵の左上の部分)である。芸術家の話は直感的で飛躍があり必ずしも分かりやすくはないので、それを私の言葉で補いつつ紹介すると、書き直しをそのままにしてしまったということは、ピカソはその部分を書き直しつつあったということであり、つまりその部分は未完であるということであるが、「未完の部分は或る意味で未来を描いている」のである。どういうことかというと、後世の人間はその未完の部分を〈入り口〉にして、その時代に即した新たな解釈を行なうことができるのであり、つまり過去の作品は現在の出来事の予示となり得るのである。

♦ ところで、私の考えでは、未完ということは芸術というものに本質的なことである。即ち、優れた芸術作品は美術でも音楽でもみな未完の作品なのである。但しこの場合の未完とはいまだ完成に至っていないということではない。作品が未完であるということは、作者が何かを探究しつつあるということなのであり、そしてこの〈何かを探究しつつある〉ということこそは芸術の本質なのである。そうであるからこそ、ダ・ヴィンチの絵にしてもバッハの音楽にしても、後世の人々をして様々な作品解釈(演奏)へと駆り立てるのであり、あるいは後世の芸術家たちを魅惑して探究(=創造)へと導くのである。

しかし何かを探究しつつあるというのはどのようなことなのであろうか。(続く)