事実と真実

♦ 少し前のことになるが、神奈川県の津久井

「やまゆり園の虐待調査、コロナに乗じて闇に?」

という記事を目にした。やまゆり園というのは今から4年前に凄惨な大量殺人事件が起こった障害者施設なのであるが、記事によると、昨年秋に新たに虐待の疑いが浮上したことで有識者による検証委員会が設置され、今年の5月に当委員会は中間報告書を提出した。ところが、報告書で長期にわたる虐待の疑いが指摘されるや、県側は唐突に検証を中止させたのである。

♦ その後、県は一転して虐待の検証を継続させることにしたらしいが、ここで検証というものについて門外漢ながら管見を述べてみたい。物事を隠蔽したりあやふやにしたりするのではなくて、きちんと事実を確かめることはもちろん大事なことである。ただ、科学技術を活用して犯人を特定するというような場合は別として、虐待などに関する証言にはどうしても主観が入り込む。目撃した事実をそのまま正直に語っている場合にも、証言には何らかの価値づけや意味づけが潜んでいると推測されるのである。しかし、だからといって証言は当てにならないというわけではない。むしろ、そうであるからこそ、証言は重要なのだと言うべきである。物事は必ず一定の観点から見られるのであり、検証者はそうした厳然たる現実を考慮に入れて結論を導かなければならないであろう。

♦ さて、私は今「ゴッホ 草木への祈り」という番組を録画で観ているのであるが、番組に登場した絵本作家・画家のいせひでこ伊勢英子)氏は、自分は「木の根と幹」が最も好きな作品であり、「カラスのいる麦畑」よりもずっと好きであると言う。根の力強さ、そして根を描いているゴッホの凄いエネルギー … 。いせ氏はこの絵に、命に対するゴッホの強い思いを感じ取る。彼女によれば、ゴッホの植物を見る眼は命を見る眼なのである。そしてそれは愛情を注ぐ眼であって、ゴッホの人の愛し方、神の愛し方もそれと同じなのである。

ゴッホの絵は命という人間よりも大きなものの〈真実〉を表現するものなのだ。虐待はよくないという道徳的説教よりも、命の真実に対する感受性を磨くことの方がはるかに重要なのではないだろうか。〈事実を求める精神〉とは別に、それとは異なる〈真実を求める精神〉があることを、私は今や改めて思い知る。前者は科学的精神であり、後者は芸術的精神であると言えるが、今後は益々芸術よりも科学が重視され勢力を持つ時代になってゆくのであろう。コロナ禍がこの流れに拍車を掛けることがなければよいのであるが。

* 写真は「木の根と幹」(1890)

f:id:teresadix:20200701164741j:plain