生としてのデカルト哲学

一昨日投稿した拙稿「デカルトと死の修練」の[結び」の部分のみをここに掲載する。 ********** デカルトの哲学は数学をモデルにしているといった類いの、恐ろしく表面的でまことしやかな哲学史的解説を投げ捨て、生(魂)そしてその核を成す信仰心にまで降…

デカルトと死の修練 Descartes et la < meditatio mortis >

Descartes et la < meditatio mortis > デカルトと死の修練 実川 敏夫 「こうしてこれらの格率を確保し、〈私の信念の中で常に第一の真理であった信仰の真理〉と一緒にこれら格率を別にした後、私の意見の残りのすべてについては、それらを捨て去ることを自…

雪に隠れた白梅~~隠れたる神 ⑴

――惢心「ふつうは紅梅を探すのに、なぜ敢えて白梅を探すのですか? 雪に隠れた白梅のどこがいいのですか?」 ――嫻妃「雪の中の紅梅は目に鮮やかで美しい。 それに対して雪に隠れた白梅は香りで見分けるしかない。 この世の美は見極めるのが難しいからこそ尊…

身体への回帰――倫理の土台

♦ 「韓国なんて要らない」という嫌韓特集が昨年『週刊ポスト』(9月13日号)で組まれたそうなのであるが、この特集に関して内田樹氏は二つの点を指摘している(同氏の『サル化する世界』を参照)。一つは、このように世間の良識に反する攻撃的で差別的な言葉…

霊感と論理

♦ 去る 15日の「魂の響き 旋律の鼓動 vol.3 〜祈りの日に〜」のライブ配信を視聴した。 高橋美千子さんの歌と佐藤亜紀子さんのリュート。名コンビであると思う。 ところで、前回9日のたまひびのあと高橋さんから、 「場所から得るインスピレーションに、音楽…

歌うことは生きることそのもの 

♦ 9日に横浜エアジンで行われた『Pastime with Good Company たまひび古楽ライブ』をオンラインで視聴した。高橋美千子さん(ソプラノ)と佐藤亜紀子さん(リュート)のデュオ。――以前コンサートでお二人の演奏を聴いた時より以上にアット・ホームな雰囲気だ…

あったことは無かったことにはならない――生の不滅性

♦ 森友改ざん訴訟が去る15日に大阪地裁で始まった。誰かも言っていたが、このように悲惨な犠牲者が出たというのに、どうして首相は裁判などを待つことなく第三者機関に徹底的な調査をさせないのであろうか。このような時にこそ権力者はその権力を最大限に行…

個と全体

昨日はインターネット配信で、《最愛王のコンセール〜ルイ15世の宮廷音楽〜》 コルテ・デル・トラヴェルソ Vol. 7 を視聴した。 音楽史のことは知らないが、宮廷音楽には独特の合奏の妙があるようである。ともあれ、四人の演奏者のそれぞれが、達者な技巧の…

事実と真実

♦ 少し前のことになるが、神奈川県の津久井 「やまゆり園の虐待調査、コロナに乗じて闇に?」 という記事を目にした。やまゆり園というのは今から4年前に凄惨な大量殺人事件が起こった障害者施設なのであるが、記事によると、昨年秋に新たに虐待の疑いが浮…

「ゲルニカ」と未完という問題

♦ 先日の日曜美術館「アートシェア 今こそ見て欲しいこの一作」を録画で観た。番組では10名ほどの美術関係者がそれぞれとっておきの一作をシェアしたのであるが、その中で横尾忠則氏はピカソの「ゲルニカ」(1937)を挙げた。この有名な作品については改めて説…

誠実と個性(承前)

♦ 検察官定年延長法案がもしかしてこのまま国会を通過してしまうかもしれない情勢なのであるが、私にとって何よりも耐えがたいのは、法案自体のことは別にして、権力者が然るべき理由なしに姑息なやり方で己れの権力の保持と拡大を図ることであり、また大方…

誠実と個性

♦ 昔高校生の時に少しかじったヒルティの『眠られぬ夜のために』(1935)の中に次のような一節がある。 「人間のあらゆる性質の中で最高のものは ≪誠実≫ Treue である。この誠実という性質は他のほとんどすべての性質を埋め合わせることができるが、それ自身は…

自我は憎むべきものである―パスカル

♦ 善と悪は対概念である。しかし私が経験したところでは、「善」は学生にとって殆どピンとこない言葉であった。ところが同じ抽象概念であっても「悪」は違う。恐らく多くの人にとって、悪は善と違って圧倒的なリアリティを持つのである。それはどうしてなの…

「肉は悲し」④

♦ よく晴れて青空が澄んだ昨日は、練馬区立美術館で開催されている「背く画家/津田青楓」の回顧展に出かけた。印象深かったのはやはり「犠牲者」(1933)だった。これはプロレタリア作家の小林多喜二(1903~33)の獄死(拷問死)に触発されて描かれたもので…

「肉は悲し」③

♦ この前テレビのチャンネルを回していて「世界の子どもの未来のために」という番組に偶然出会った。カンボジアのスラム(寺院の敷地につくられたあばら家)に住む8歳の少女。父親が亡くなったため毎日、しかも朝5時から1日中働かなければならない。そうしな…

「肉は悲し」②

♦ 昨日は昼下がりに「セタガヤクォドリベット第5回演奏会」を聴きに出かけた。立錐の余地もない満席の会場で演奏されたのは、バッハのカンタータ4曲とモテット1曲であった。実は曲目の内容からして途中で退屈するのではないかと心配していたのであるが、ど…

「肉は悲し」①

♦悲しみを知る者は決して戦争を起こさない。戦争を起こすのは悲しみを知らない者である。悲しむことができない者は謙虚であることができない者であり、人を尊重することができない者であるからである。ところで、悲しみは必ずしも喜びの反対物ではない。悲し…

美と超越――花の美しさ

♦ 人間は誰でも必ず過ちを犯す。しかし過ちを犯してその醜さが露呈してしまう人もいれば、たとえ過ちを犯しても決して醜くない人もいる。いや、美しい人さえいる。しかし今の世の中に、できる限り美しく生きることを無意識的にであれ心がけている人は一体ど…

ラモーの『プラテ』――「人間・この劇的なるもの」

♦ 昨日はフランスバロック・オペラ『プラテ』を観に池袋のBrillia HALLに出かけた。ジョイ・バレエ ストゥーディオの上演を観たのは一昨年の『レ・パラダン』に続いて二度目である。バレエも歌もすべて日頃の修練を感じさせる見事なものであったが、今回は特…

バッハと踊り、そしてメルロ=ポンティのこと

♦ 昨日の昼下がりは、「古楽の調べ」という催しに参加するために西国分寺に赴いた。チラシに、「バッハのメヌエットは、どのような踊りだったのでしょう?」とあったからである。取り上げられたのは、バッハのメヌエットそのものというより、バッハにおける…

『ハノン』と個性の問題

♦ 以前テレビでピアニストの伊藤恵さんが音階練習の『ハノン』について、この教本は「自分はどのような音を出したいのか」、「自分にとって感動する音というのはどのような音なのか」を「探す」のにとても役に立つものではないか、というようなことを話され…

政治の問題と魂の問題

♦ 己れの魂に無頓着な人間が権力を持つと必ず権力に溺れる。このことは政治の世界に限らずどこにでも見られることであろうが、そのような人間にとっては自分の権力(歪んだ自尊心)を守ることだけが重要なのであって、事実などどうでもよいのである。――例え…

根本的両義性(13)――アガペーとエロス

♦ このところずっと日本と韓国との関係が大きな問題になっているが、報道に接してつくづく思うことことは、日本政府の韓国政府に対する対応と、アメリカ政府に対する対応とが余りにも違うということである。日本政府は両国政府に対して、できるだけ対等でフ…

解釈と理解

♦ 昨日は『亀井由紀子特別公開レッスン』を聴講するために目白のソルフェージスクールまで出かけた。亀井氏はかつてヤッシャ・ハイフェッツの助手を務めたヴァイオリニストであるが、決して偉そうに威張らない方である。楽器を構える姿勢は凜としていて、ど…

大竹まこと著『俺たちはどう生きるか』――強者にはならないという生き方

本書は著者が古希を迎えて上梓した小さな自伝とも言えるものであるが、ひとことで言うと、著者の「優しさ」の秘密をそこから読み解くことができる本である。 ♦♦ 大竹氏は二〇歳から二年半、風間杜夫氏と一緒に住んでいたのであるが、ある日二人は麻雀で負け…

根本的両義性(12)――音楽と狂気

♦ 昨夜は「Folia スペイン、ポルトガル15世紀から伝わる情熱と狂喜の音楽」と題された演奏会に出かけた。プログラムの最後の方、コレッリのヴァイオリン・ソナタ「ラ・フォリア」の前あたりで男性のフラメンコ・ダンサーがサプライズ的に登場し会場は大いに…

根本的両義性(11)――bodyとnobody 池田晶子をめぐって

♦禅宗に「父母未生(ぶもみしょう)以前」という言葉がある。私は小学校の何年生頃からだったか、時々不意に、「自分はどこから来たのか」という茫漠とした問いに襲われたのであるが、この問いにおける「自分」とは父母未生以前の自分(自分の父母が生まれる…

フランクル『夜と霧』――「人生の意味」という問題

♦ 生きる意味があるということは、生きることに何か目的があることである。まずはそう考えることができる。例えばオリンピックでメダルという名誉を獲得することを目的に毎日練習に励んでいる選手は、練習の辛さや本番に関する不安が常にあるとしても、大き…

言葉のリズムと言葉の力

♦ 昨日の午後はオルフ祝祭合唱団演奏会を聴きに中野ゼロに赴き、生演奏ならではの醍醐味を味わった。曲目はオルフの「カトゥーリ・カルミナ」と、ストラヴィンスキーの「結婚」。プログラムによれば、二つとも独唱・混声合唱・4台のピアノ・打楽器アンサンブ…

根本的両義性(10)――G.モローと神話の世界

♦ 私は1986年の3月にはじめてフランスの地を踏んだのであるが、向こうの寮に着いてから真っ先に訪ねたのはパリのギュスターヴ・モロー美術館だった。ただ、この画家に関して漠然とした関心を抱いていたとはいえ、当時は絵画をじっくり味わい色々考えをめぐら…