拙稿「聖体と蜜蝋――信仰のロゴス〔パスカルとデカルト〕」 【5】【6】

第二節  蜜蝋の分析

 

以上、パスカルの聖体観に哲学的考察を加えて信仰のロゴスを明るみに出したが、念のため断っておくと、筆者は何もカトリシズムに与しているわけではない。我々の立場はあくまでも哲学であり、デカルトの信仰心ということを言う場合も、その信仰心は特定の宗派を意味するのではない。それは魂(生)の真実性ということであり、それが欠けているならばそもそも真理という言葉を発する資格がない、そのようなものである。信仰心のないところでは、《veritas》も《scientia》も《substantia》も、そしてもちろん《Deus》も、すべて空語なのである。本稿の後半ではデカルトを取り上げるが、『省察』を読むためには是非そのことを心得ていなければならない。

 

【5】 精神性と身体性

 

さて、これまで幾つかの角度から考察してきた聖体の秘蹟に関する[a]と[b]は、それぞれ精神性と身体性を意味すると言うこともできる。[a]のイエス・キリストの現実的現前、隠れた神の現前は精神的な現前であり、対して、[b]の表徴あるいは記念としての秘蹟は感覚的なもの、感覚的に現前するものであって、聖体を拝領する者の身体性を意味するのである。信仰のロゴスとは精神性と身体性との矛盾であり、それらの統一である。但し統一といっても、それは弁証法的綜合のような高次の認識による統一ではない。信仰は精神性と身体性のメタレベルではない。信仰とは精神性と身体性との、即ち不可視性と可視性との、矛盾的統一なのである。

ところで、メルロ=ポンティ秘蹟に関してパスカルと同じようなことを語っているが、但し[a]と[b]を単に並置するのではなくて、[b]よりも[a]の方を強調するような書き方をしている。即ち、

 [ァ]秘跡はただ単に恩寵の働きを感覚的な形色のもとに象徴する→[b]だけではなくて、

[ィ]更に神の現実的な現前なのであり、この現前を空間の一部分に位置づけ、それを聖なるパンをいただく人々に……伝える(communiquer)のである→[a]。

と書いているのである [19]。では、メルロ=ポンティは身体性よりも精神性の方を優位に置いているのであろうか。続いてこう言われる。

 秘蹟がそのようなものであるのと同様に、

[ゥ]感覚的なものはただ単に動的で活力ある意味作用を持つ→[b]だけではなくて、

[ェ]更に〈空間の一点から我々に提案され、我々の身体が……捉え直し引き受ける〉、そうした世界内存在の或る仕方に他ならない。感覚とは文字通り交わり(communion [20])なのである→[a]。

 ここまで読むと分かるように、メルロ=ポンティは精神性を優位に置いているのではなくて、感覚という身体的なものに精神性を含ませているのであり、そのような仕方で精神性と身体性とを統合しているのである。

またメルロ=ポンティは別の箇所で [21]、「実体的変化」という言葉を次のように用いている。

 画家は「己れの身体を提供する」とヴァレリーは言っている。実際、どのようにして精神は絵を描くことができると言うのであろうか。画家は己れの身体を世界に貸与することによって世界を絵に変えるのである。〔世界が絵に変わるという〕この実体的変化を理解するためには、行為的で現在的な [22]身体――空間の一片や諸機能の束ではなくて、視覚と運動との絡み合いである身体――を取り戻さなければならない。

 実体的変化という精神的なことは、メルロ=ポンティにとっては身体的なことなのである。ということは、身体は精神性を含むということである。メルロ=ポンティは行為的で現在的な身体、視覚と運動との絡み合いである身体を取り戻さなければならないとするが、行為的で現在的な身体を取り戻すとは、言い換えれば、行為的で現在的な精神――これは引用文中で言われている精神(un Esprit)とは異なる――を取り戻すということである。即ちメルロ=ポンティは精神を捨てて身体の立場に立つのではなくて、身体性に精神性を含ませるような仕方で身体を捉え直すのであり、言い換えると、時間に永遠を含ませるような仕方で時間を捉え直すのである(このことは芸術のことを考えると分かりやすい)。メルロ=ポンティが為したことは、身体の――あるいは肉の――形而上学的発見である [23]

では、デカルトはどうなのか。デカルトメルロ=ポンティのように過激な仕方で精神性と身体性とを統合しようとしたのではない。それは確かである。しかし両者は深いところで繋がっていると考えられる。メルロ=ポンティの哲学は明らかにパスカルの『パンセ』における“両義性”や“キアスム”(注17を参照)を引き継いでいるが、しかし(通俗的な思想史ではアンチ・デカルトとされているにも拘らず)実はまたデカルト哲学の血をも引いていると見ざるを得ないのである。それでは話をデカルトに移すことにしよう。

デカルトの哲学には精神性と身体性の両面がある。デカルトの私は一方で純粋精神として不死であり、他方でデカルトの言うところの「真の人間」即ち心身合一体として死すべきもの(この世で生きそして死ぬもの)なのである。というわけで、例えば喜びには、魂が魂だけで持ち得る喜びと、魂が身体と共有する喜び(これは情念即ち魂の受動に完全に依存するとされる)とが、つまり純粋に精神的な喜びと心身合一的な喜びとがあり [24]、幸福観にも、「病気の賢者は健康な賢者と同じく完全に幸福であり得る」という見方と、「健康な賢者は病気の賢者よりも幸福である」という見方とが、つまり純粋に精神的な見方と心身合一的な見方とがある [25]。まずこの点を確認しておきたい。

そしてまたデカルトはれっきとした信仰者であることも確認しておきたい。パスカルデカルト批判は余りにも有名であるが、しかし『ド・サシ氏との対話』におけるパスカルモンテーニュ批判をそのまま信じてはならないのと同じように、パスカルが書き残したデカルトに関する断片的な批判を絶対化してもならない。もちろんデカルトキリスト教の擁護を主眼として哲学したわけではないし、パスカルと同種の信仰を有したわけではない。しかし哲学史が築き上げた〞合理主義者デカルト〟というイメージ(巨大な虚像)を払拭し、哲学史的偏見を排して虚心坦懐にデカルトの言葉に耳を傾けなければならない。デカルトは例えば、神への信仰が我々に何も教えていない事柄は別として、それ以外のことについては超自然的な光を自然の光よりも優先させなければならない、恩寵の光を理性の光よりも優先させなければならないと言っているのであるが [26]、これを啓示に対する単なるお決まりの敬意表明と受け取ってはならないのである。

そして受肉とか三位一体といった「信仰の真理」以外の真理、即ち自然の光によって認識される真理も、実は信仰の光に照らされていることを察しなければならない。そのことを感じ取らなければならない。確かに理性と信仰とは区別される。しかし区別されるということは切り離されるということではない。理性と信仰とは不可分なのである [27]デカルトにあっては、信仰は理性の内奥に潜み理性を活動させている。つまり信仰は理性の内に浸透している。そのことは特に「神の観念」によく表れているが、しかし神の観念は例外的なものではない。デカルト的明証は超自然的な光から切り離されるならば貧しく無力なものとなってしまうのである。

我々は《l'ordre des raisons》に囚われその水準に留まってはならない。さもなければ、省察の真相を捉え損なうであろう。信仰が精神性と身体性とを包含することを捉え損なうであろう。懐疑それ自身が精神性と身体性という相反する二つの統合であることを捉え損なうであろう。

 

【6】 死の修練としての蜜蝋の分析――神への熱望

 

以下、いわゆる蜜蝋の分析を軸に考察を展開することにしたい。問題の所在を示す目印として敢えて原語を多く挿入することにするが、この分析はおおよそ次のようなものである。――デカルトは「ふつう最も判明に把握されると思われている」もの、即ち我々が眼で見たり手で触れたりする物体を考察することにする。但し考察するのは物体一般(corpora in communi)ではなくて個別的な一つの物体(unum in particulari)であり、その例とされるのは「この蜜蝋(haec cera)」である。デカルトは蜜蜂の巣から取り出した蜜蝋がまだ蜜の味を保っていること、花の香りを留めていること、その色・形・大きさは明瞭であること、叩けば音を発すること、等々のことを述べる。つまり、味覚・嗅覚・視覚・触覚・聴覚という五感をフルに働かせるわけである。しかし、蜜蝋を火に近づけるとどうなるか。蜜蝋はすっかり様変わりしてしまう。味がなくなり香りも消え、色・形・大きさも変わり、液状化する。仮に叩いても音を発しないであろう。そうしたことを述べて、デカルトは次のように問う。「それでもなお同じ蜜蝋(eadem cera)が残っているのであろうか」と。そして答える。「残っている(remanere)と認めなければならない。誰もそのことを否定しない。誰も別のようには思わない」と。そこでデカルトは問う。「蜜蝋においてあれほど判明に把握されていたものは何なのか」と。「味覚・嗅覚・視覚・触覚・聴覚の下にやってきていたものはいずれも今や変わってしまった(mutata jam sunt)」。とすれば、「蜜蝋そのもの(cera ipsa)は、あの蜜の甘さ・花の香りでも、あの白さ・形・音でもなかった。そうではなくて、少し前にはあのような仕方で私にまざまざと現われていたが、今は別の仕方でまざまざと現われている物体であったのだ」。

この記述は現象学で言う想像的変容を連想させるが、しかしデカルトは想像力を駆使して蜜蝋の本質を捉えようとするのではない。「私がこのように想像するものは厳密には(praecise)何なのか」と問い、蜜蝋に属していないものを取り払う(removere)のであり、そしてその後に何が残る(superesse)かを見ようとするのである。つまり「蜜蝋を外的な姿形から区別し、いわば衣服を剥ぎ取って(detrahere)その裸の姿を考察」しようとするのである。では、「残る」ものは何なのか。それは「或る柔軟で変化しやすい延長するもの」である。これは私が想像するものではない。というのも、私は蜜蝋が無数の(innumerabilis)変化を容れ得ることを把握するが、しかし想像によって無数の変化を辿り尽くすことはできないのであるから、私はこの把握を想像から得るのではない。こうしてデカルトはついに、「私はこの蜜蝋(haec cera)が何であるかを、想像するのではなくて独り精神によってのみ(solâ mente)知覚するのである」という結論に到る。そして自分はあくまで個別的なこの蜜蝋のことを言っているのであると念を押す。――

さて、蜜蝋に属していないものを取り払い(removere)、後に何が残る(superesse)かを見るということであるが、このやり方は「私とは何か」が探究される第二省察前半においても行なわれている。即ちそこにおいても、以前自分は自分のことを何であると信じていたのかを改めて考え、次いで、既に行われている想定、即ち夢を見ているという想定、あるいはこの上なく有能な欺瞞者によって欺かれているという想定によって退けられ得ることを悉く取り除き(subducere)、そのようにして最終的に、確実で揺るぎのないものだけが、厳密に(praecise)それだけが残る(remanere)ようにする、ということが行なわれているのである。そして蜜蝋から蜜蝋に属していないものを取り払うということは、自分がそれであると信じていたものから疑い得るものを取り除くということと同様に、身体に関係するものをすべて切り捨てるということなのであり、つまり死の修練――これは決して他人事のように考えられてはならない――なのである。

ところで、この死の修練としての懐疑の結果、私は「思惟するもの」であることになり(第二省察前半)、蜜蝋は「柔軟で変化しやすい延長するもの」であることになる(第二省察後半)のであるが、この結論だけを掴まえて物心二元論などというレッテルを貼ること(あるいはこのレッテルを妄信すること)は愚昧の極みである。それは〞哲学〟を完全に無視することである。哲学とは死の修練そのものである。つまり哲学は知識の習得のような観念的なものではなくて、心身合一とのリアルな戦いなのである。ここで確認しなければならないことは、省察するデカルトは基本的に心身合一体としての人間であるということである。『省察』は「人間の霊魂の身体(物体)からの区別」を証明することを課題として設定しているのでそのことは見落とされやすいのであるが、ともあれ省察するデカルトは決して身体から分たれた純粋精神ではない。もし純粋精神であるのであれば、即ちもし己れが純粋精神であることを真に自覚できているのであれば、そもそも省察する必要はないのであり、逆に言うと、省察とは宿命的に心身合一体である人間が心身合一性に抗して純粋な精神になろうとする人間的な努力なのである。デカルトは決して概念の世界で頭の体操をしているのではない。

さて、蜜蝋の分析が死の修練であるならば、それが行き着く先は当然のことながら非‐身体的なものである。つまり精神である。第二省察の終わりの方でデカルトはこう言う。「私はかくも判明に蜜蝋を知覚すると私には思われるが、その私について私は何と言うべきなのか。私は私自身を〔私が認識する蜜蝋よりも〕はるかに真実に、はるかに確実に認識するだけではなくて、はるかに判明にかつ明証的に認識するのではないであろうか」と。このように蜜蝋の分析は死の修練として当然の如く純粋精神である「私」に行き着くわけであるが、しかし問わなければならないことは、そもそもこのような死の修練を可能にするものは何なのかということ、つまり精神という高みへの上昇を動機づけるものは何なのかということである。それはつまるところ神への熱望であろう。第三省察の最後の方で、「私」は「より大いなるもの、より善きものを際限なく熱望する(indefinite aspirare)」ものであり、一方「神」は私が熱望するそうしたより大いなるもの、より善なるものすべてを「みずからの内に実際に無限に(infinite)持っている」ということが語られているが、このことから言えることは、私の熱望は神への熱望に帰着するということである。死の修練は、もしそれが口先だけのものでないならば、こうした神への熱望なしには為され得ないであろう(例えば「義のために死す」ということを考えよ)。死の修練によって神への熱望はより確乎としたものになると言うこともできるが、ともあれ、死の修練としての蜜蝋の分析は神への熱望による動機づけなしにはあり得ない。言い換えると、神への熱望をぬきにしては、(不死なる)「精神」はもとより、(無数の変化を容れ得る)「柔軟で変化しやすい延長するもの」も、単に言葉としてしか理解し得ないのである。

 

[19] Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception

[20] 《communion》は言うまでもなくカトリックでは「聖体拝領」のことであるが、これは[ィ]における《communiquer》に対応する。

[21] Merleau-Ponty, L’Œil et l’esprit

[22] 「行為的で現在的な」の原語は《opérant et actuel》である。なお、《opérant》は(無為ではなくて)仕事をするという意味合いの言葉である。

[23] メルロ=ポンティにとって、知覚の問題は知覚の信(la foi perceptive)の問題であったが、この知覚の信は決して《Seeing is believing.》と言われる場合の信ではない。それは宗教的な信であると言うことはできないとしても、「見ることは見ないことである」「見えるものは見えない」という逆説を成り立たせる形而上学的な信である。

[24] 『情念論』Art. 212

[25] エリザベト宛て 1645年8月4日

[26] 『哲学原理』 I - 76などを参照。

[27] そしてまた、知と愛とは不可分であるということも指摘しなければならない。第一省察の始めのところでデカルトは、「幸いにも今日、私はあらゆる気遣いから精神を解き放ち、気遣いのない閑暇を得、世間から遠ざかり独りでいる」と述べているが、「幸いにも」と言われるのは、あらゆる気遣いから解放されることが「私の意見の全面的な転覆に専念する」ために必要な条件であるからである。では、どうして「私の意見の全面的な転覆」を図るのか。第一省察の冒頭に即して言うと、それは「諸学問において堅固で存続的なものを打ち立てる」ためであり、「最初の基礎から新たに始める」ためである。しかしこのことから、デカルトは「知の基礎づけ」を企てているとか、あるいは「知の変革」を企てていると判断してはならない。そのような見方は浅薄である。そのような哲学史的な見方は重要なことを抹殺しまう。重要なこととは、哲学がまさにそれであるところの知への愛である。デカルトにとって知は愛すべきもの、愛の対象である。そして知への愛とは善への希求に他ならない。即ち(芸術や宗教がそうであり得るような)魂の育成に他ならない。そしてこうした知への愛が省察の深相を成すのであり、そのことを無視した議論はどれほど緻密なものであっても空談にならざるを得ない。現代科学は知を愛から切り離し善から切り離した。しかしデカルトにとっては知と愛とは不可分なのである。