デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ①

方法的懐疑という言い方はデカルト自身のものではない。デカルトは方法的懐疑などということは言っていない。どうしてなのか。それはデカルトの懐疑は方法的懐疑ではないからである。

デカルトの懐疑は「自らを解体することを目指す方法論的手段」であると説明される。確かに疑うことは疑い得ないことに至る手段であるように見える。疑うデカルトは遂に、自分が現に疑っているということは疑い得ないということに気づくのである。このように懐疑はみずからを解体するに至るように見える。

しかし、どうして懐疑が終焉したのか、その真の原因は何かを考えなければならない。実を言って、懐疑が終焉したのは確信が生まれたからである。自分は現に疑っているという確信が生まれたから、自分は現に疑っているということが疑い得ないことになったのである。

ということは、疑い得ないとされることは実は疑い得るということであり、ということはつまり、確信・確実性は疑いを許すということである。

科学的な確実性は疑いを排除するが、形而上学的な確実性は実は疑いを容れる。つまり比喩的に言うと、前者は平板な確実性であるが、後者(例えば「コギト」の確実性)は奥行きのある確実性なのである。