デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ②

神の存在は疑い得ない故に私はそれを信じるのではない。むしろ、神の存在を私は信じる故にそれは疑い得ないことになるのである。ということは、形而上学的確信においては、疑いは背景に退いているだけで、実は疑いの可能性は排除されていないということである。「コギト」の場合も同じである。

というわけで、形而上学においては、確実性は疑いの可能性を無くすことによって得られるのではない。即ち、懐疑と確実性は手段と目的のような外的な関係にあるのではない。分かりやすく言うと、懐疑は確実性に登り詰めるための梯子のようなものではないのである。

形而上学的な事柄が問題である場合には、確実性は懐疑を締め出すものではない。懐疑は確実性に内的で本質的なものである。懐疑が文字通りに克服されてしまったら、確実性は“死せる確実性”になってしまうのである。