「デカルトの循環」(b)

前の記事で、次のような神と聖書の循環を取り上げた。神が存在することは聖書が教えるところである故に信ずべきことである。では、どうして聖書を信じることができるのか。それは聖書は神から授けられたものであるからである。

ここには明らかに循環がある。しかしデカルトが言うには、この循環を循環論法と見るのは信仰のない者である。信仰がある者はこの循環を循環論法とは見ない。

では、それはどうしてなのか。それは信仰とは超越への関わりであるからであり、つまり(超越的な)神と聖書とはいわば次元の異なるものであるからである。逆に言うと、信仰のない者がそうするように上の循環を信仰から独立した純然たる証明と見るならば、即ち神と聖書とを同一平面に並べるならば、上の循環は循環論法であることになるのである。

例えばAという人がBの言うことは正しいと言い、BがAの言うことは正しいと言うという循環は、AとBが同じ人間として同一次元に置かれる限り、悪しき循環(循環論法)なのである。

しかしデカルト省察は循環的ではあるが、それは循環論法を犯しているわけではない。我々が上で指摘した次元の違いということは、デカルトの答弁にも実は示されているのである。