前回見たように、デカルトは循環論法の疑惑に対して、現在の明証と過去の明証とを区別し、(即ち現に明らかであることと、かつて明らかであったこととを区別し、)現在の明証は保証を必要としないが、過去の明証は保証を必要とした。
つまり、こういうことである。
- 明証が現在的なものである限りでは、明証の規則は保証を必要としない。そこでまずデカルトは、明証の規則に立脚して神の存在と誠実性を証明する。★これは「神の存在を信じなければならないのは、神が存在することは聖書において教えられているからである」ということに対応する。
- しかし明証が現在的であることをやめて過去の明証(想起の対象)となると、明証は保証を必要とする。そこでデカルトは明証の規則の正しさは神が保証するとする。★これは「聖書を信じなければならないのは、聖書は神から授けられたものであるからである」ということに対応する。
さて、現在の明証と過去の明証との区別は、循環論法の嫌疑を晴らす役割をするわけであるが、では、現在の明証と過去の明証との区別はどうしてそのような役割を果たすことができるのであろうか。
- 明証の現在性は「明証の規則」から「神」へ(聖書から神へ)の上昇を可能にし、
- 明証の過去性は「神」から「明証の規則」へ(神から聖書へ)の下降を可能にする。
つまり、現在の明証と過去の明証との区別は、結局のところ、「神」と「明証の規則」との間の次元の違い、即ち創造者と被造物との間の超越関係を意味するのである。(但し、この超越関係は概念的なものではなくて、信仰の光に照らされたものでなければならない。)
そうである故に、現在の明証と過去の明証との区別は、デカルトをして循環論法から免れさせるのである。