「デカルトの循環」(h)

前の12月1日の記事で、信じることと疑うことの矛盾に言及したが、この矛盾について少し考えてみよう。

「上から」見れば丸いが「横から」見れば三角形である(つまり丸くない)、そのようなものがあるとして、これについて矛盾を指摘する者はいないであろう。

円錐形をしたものは、そのように見えなければならないのであり、そのように見えなければ、それこそ(円錐形の定義に)矛盾するのである。

ところで、既に見たように、コギトや神の存在も、それらが現在の明証であることをやめて過去の明証になると、疑い得るものとなる。つまり、それらは「現在の明証」である場合は信じざるを得ないが、「過去の明証」になると疑い得るのである。

しかしこの「信」と「疑」の矛盾は、上から見れば「丸い」が横から見れば「丸くない」という矛盾とは異なる。「丸い」と「丸くない」は自己同一的な事物の必然的な現われであるが、「信」と「疑」は違う。というのも、11月24日の記事で述べたように、現在の明証と過去の明証の区別は、結局のところ、「神」と「明証の規則」との間の次元の違い、即ち創造者と被造物との間の超越関係を意味するからである。

ということは、超越において「信」と「疑」という矛盾した二つは結ばれるということである。

 しかも信と疑は互いに絡み合っている。

  1. デカルトは 2+3=5 を疑うために「欺く神」を想定したが、「欺く神」を想定するためには「欺く神」という明証の真理性を信じなければならない。つまり疑うことはそれ自体信じることなのである。
  2. しかし、「欺く神」という明証への信頼は、やはり、明証一般に対す懐疑であらざるを得ない。つまり信じることはそれ自体疑うことなのである。

この例はコギトや神の存在に対する信と疑の関係を直接説明するものではないが、〕このようにして信じることと疑うことは絡み合っているのであり、「疑うことは信じることであり、信じることは疑うことである」という循環が存在するのである。

このような循環こそが本当の「デカルトの循環」である。

これはデカルトが実際に語っている論理ではない。そうではなくて、デカルトが実際に生きている論理である。

我々はデカルトの言葉の整合化ばかりに拘ってはならない。肝腎なのはデカルトの思考的生の実体を明らかにすることである。